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〝ベーシック・イミュニティー 〟底辺の再構築ー医療崩壊を防ぐ、新型コロナ対策の大阪モデル

〝ベーシック・イミュニティー〟
底辺の再構築ー医療崩壊を防ぐ、新型コロナ対策の大阪モデル

    

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◯テーマ
いのち輝く「免疫立国」のデザイン
〜「免疫」は、いのちと経済をつなぐ「要」である。

「免疫」とは、一つは生産に、もう一つは命にまたがるスペクトル。
●「人」(human lives)にフォーカス。
●個々人がポテンシャルを発揮できる生き方と、それを支える社会の在り方。

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「免疫立国・日本」の創造・発信。   



新型コロナウイルスは、命の問題であると同時に環境問題でもある。  
 (1) 持続可能な社会の「日本モデル」の構築


持続可能な社会の実現に向けた様々な挑戦が世界各国・各地域で進められているが、いずれの国・地域においても、未だ試行錯誤の段階にある。こうした中で、日本は、天然資源に乏しく、限られた国土に人口や産業活動が集中する一方、自然との共生を図る智慧と伝統、社会経済の発展をもたらしてきた環境・エネルギー技術、深刻な公害克服の経験、意欲と能力溢れる豊富な人材など様々な強みを有しており、いわば「ミニチュア地球」となる持続可能な社会の生きたモデルを創造する上で絶好の条件が整っている。また、官民協調による取組が着実な経済成長に寄与していたことにみられるように、幅広い関係者の参加と協働の下、一致協力して目標達成を目指す文化や価値観も、日本の強みの一つである。こうした我が国の強みを最大限発揮するためには、世界の国々と連携・協働を図りつつ、技術の開発・普及、社会経済システムの見直しなど戦略性を持って施策を展開していくべきである。こうした取組を通じて、我が国の自然共生の智慧と伝統を現代に活かすとともに、世界に誇る環境・エネルギー技術、深刻な公害克服の経験と智慧、意欲と能力溢れる豊富な人材を、環境から拓く経済成長や地域活性化の原動力となし、幅広い関係者が一致協力して、世界の発展と繁栄に貢献する品格ある「免疫立国」を「日本モデル」として創造し、アジア、そして世界へと発信する。

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自然との共生を図る智慧と伝統を現代に活かした美しい国づくり    
(2)「免疫立国・日本」に向けた施策の展開


古来より私たち日本人は、生きとし生けるものが一体となった自然観を有しており、自然を尊重し、共生することを常としてきた。日本は古来、海や山など『八百万(やおよろず)』を神とあがめる多神教の国。日本の伝統文化は、神道を基軸として、海外の文化も取り込み、異なる価値観にも一定の寛容さを持ちながら、自助と共助による公益市場社会を形成してきた。我が国には、例えば里地里山に代表されるように、自然を単に利用するだけではなく、協働して守り育てていく智慧と伝統がある。こうした伝統的な自然観は現代においては薄れつつあるが、自然に対する謙虚な気持ちを持って、協働して自然を守り育てていくという智慧と伝統は、持続可能な社会を目指す上で、我が国のみならずアジアを始めとする世界に発信できる積極的な意義を持つ。我が国の環境・エネルギー技術などの強みに加えて、自然との共生を図る智慧と伝統を現代に再び活かすことにより、自然の恵み豊かな美しい国づくりを目指す。


いのち輝く「免疫立国」のデザイン
(3)免疫はいのちと経済をつなぐ「要」である。

環境問題への対応は、我が国や世界が経済成長と社会発展を持続させていく上で不可欠なものである。省エネルギー、再生可能エネルギー、原子力等の環境・エネルギー技術に磨きをかけ、創造的な技術革新を図るとともに、新たなビジネスモデルの創出などにより、環境問題への対応を新しい経済成長のエンジンとする。これにより、内外の環境問題の解決に寄与するとともに、経済の活性化や国際競争力の強化を進め、環境と経済の両立を図ることが重要である。また、環境保全に関する意欲と能力溢れる豊富な人材を活かし、各地域の環境保全活動の輪を全国津々浦々に広げ、力強く後押しすることにより、地域が持つ本来の力が十分に発揮された元気な地域社会の実現を目指す。こうした取組により、環境的側面、経済的側面、社会的側面の統合的な向上を図り、企業の事業活動や一人一人の暮らしや地域活動などの様々な社会経済活動における環境への対応を通じて、新たなビジネスチャンスや社会の活力を生み出し、環境保全とともに経済成長と地域活性化の実現を図る。

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(4)「Industrie 2.5」インダストリー2.5               
車の両輪として進める環境保全と経済成長・地域活性化

「Industrie 2.5」という言葉は今、間違いなく世界経済における重要なキーワードだろう。2.5とは産業革命における電気とインターネットの間を指す。政府や研究機関、産業界などのエスタブリッシュメントの機関は通さない、このマルチチュードによる第2.5次産業革命と銘打った日本の国家戦略は、果たして壮大な夢物語なのか、それとも時代の必然か。「インダストリー2.5」は、モノづくりの現場を変えるだけでなく、新型コロナウイルス以降の命の問題、環境問題などの社会問題の解決にも繋がるという。国際競争力の強化と、世界を牽引するリーダーとしての日本のプレゼンスに向けて動き出した日本の本気が、じわりじわりと世界を巻き込もうとしている。企業や業界だけでなく、一般消費者の生活にも大きな影響を与える動きとして注目しよう。
人口知能、ロボットテクノロジーや自動運転などについても、マニュアル操作による機械と人間の役割の距離感の原点回帰のアプローチの方が安全に対して合理的で実現可能性は高い。テクノロジーとは、本来目的ではなく目標であるはずが、いつの間にか目的化してしまっている。テクノロジーが求める生活の便利さや快適さに対するオルタナティブな価値観が必要になってくる。物事には一元ではなく多層なアプローチが必要である。つまり、生活の簡素さと技術の簡素さという時代に流されない普遍的な命題を忘れてはならないのである。現在、人類は、テクノロジーの大躍進のさなかにありながら、史上初めて、従来の意味での発展を続けることが多くの人に苦しみをもたらすことに気づいたのだ。それでも、私たちは、無理やり前進を続けている。ではそのような破滅的な結末を避けるために、何をすべきなのか?何よりも、自分たちを消費へ駆り立てる勢力の、偏狭的なものの見方を拒絶しなくてはならない。
第一次第二次第三次と続く、産業革命後の科学技術の急速な進歩は、際限のない生産と利益追求、抑制のない消費の結果としての廃棄物の山は「芸術」では決してない。ITや科学技術の急速な進歩は、人間の衣食住や医療などの良好な生活や環境や安心を、ひとまずは生み出したかにみえている。しかし、デメリットとしてさまざまな環境汚染や資源の有限性への心配がある。経済活動における「大きな工場」でのモノの生産が人間に幸福をあたえる万能のものとは云えなくなった。また、省資源や環境汚染防止のための技術的研究が続けられている。このことは、確かに再び科学技術による解決を目指すという循環の中にある。しかしながら、さまざまな法律や規制により、現状からの方向転換を図ろうとしているが、科学技術や法による転換の方法は、更なるパラドックスを生み、個人の行動についてみるとき、人間本来のあるべき姿を再認識させていく力はここでもまた万能ではない。 「小さな仕事場」でのモノ作りは手工業であるため効率的ではなく、金銭的利益も少ないものである。しかし、現代文明社会への疑問を抱くときに、もうひとつの価値観、もうひとつの生活様式を認め合っていく社会、そのなかでなりたつ経済生活はどのようなものであるかについて、考えつつ実践していこうとする人びとへの「教育効果」は、人間の本性にたちかえって考えるものである。

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「人類の共有の財産としての地球」                  
(5)」アジア、そして世界とともに発展する日本

この地域の将来がどうなるかは結局のところよく分からない。多くの国が平和と反映を享受するようになるかも知れないが、そうはならない、あるい一時的にせよ大きな混乱が起こるかもしれない、というシナリオも考え得るのである。しかし将来がよく分からないということは、この地域の国々がどのように考え行動するかによって状況を制御できるかもしれないということを示唆している。しかし、政治体制の違いや深刻な領土紛争を抱えた東アジアにおいて多国間の協力・対話の枠組みを構築しようと考えても、NATOのように地域の国をほぼ全部含んだ強力なものができるとは期待しにくい。 
                                  台湾問題やいくつかの領土紛争について根本的な和解や解決は非常に困難であり、中国を含む東アジア諸国の国力の変化に際して安定した国際秩序を維持する必要がある。                         今後100年間という長い期間で考えれば米国が一国で世界の安全保障を支え続けることは不可能であり、世界の安全保障を考える余力のある国が政治的・軍事的な協力関係を構築しておくことは、将来の不安を軽減する為の重要な布石であるが、これらの可能性についても未知数である。従って東アジアや世界全体の安全保障は、国家ー共同体的な発想ではなく、非国家ー公共体の構築を視野に入れた外交的・政治的提携関係に変容していくべきである。                                

そして、その際の主体は、「政府」ではなく、リージョンである。リージョンは地域の安全と繁栄についての空間知覚と定位の認識と将来ビジョン能力が必須である。
リージョンの概念付与を介して、日本の「国家」、「国民」、「社会」を抗争史、この意図的な概念付与をされた情緒を基軸とすることで日本人が東アジアおよび近代世界において「東アジア文明へ再び何かしらのものを付与」し、その存在を確かなものとするための拠り所とし、ヒューエンコムパブリックがつねに依拠することの可能なカノンとする。
国家主義の思想とその射程の「狭さ」への反動として、人権、環境、コミュニティ、公共体へとその思想射程を拡大し、アジア思想のあらたな基盤の再構築を図る必要がある。このヒューエンコムパブリックへの概念付与は、「非国家ー公共体」という歴史的かつ社会的な組織原理の構築のための操作と考えることが可能であるし、あるいは政治と芸術とのあいだに親和性を見るとともにそれらを不可分なものとするロマン主義思想の要請である。
全体主義を克服するためには、その存在を人びとの記憶にとどめておくことが可能なような、そういう公共的な記憶の空間知覚が要請されるのだ。

世界の環境問題と我が国の環境問題や社会経済とは相互に密接に関わっている。特に、地理的にも経済的にも我が国と密接な関係を有するアジア地域においては、急速な経済成長を背景に、ウイルスや大気汚染、水質汚濁、廃棄物の不適正処理などの深刻な環境汚染が懸念されるとともに、二酸化炭素排出量の急増など地球環境にも大きな影響を及ぼしつつある。

このため、「グローバル・コモンズ」すなわち「人類の共有の財産としての地球」の考え方に立って、持続可能な社会に向けた我が国の取組が、我が国のみならず、アジア、そして世界の持続可能な発展と繁栄のエンジンとなるよう、アジアを始めとする世界の国々と手を携えて取組を進める。特に、途上国の公害対策等と温暖化対策との相乗的・一体的な対策(コ・ベネフィット対策)を推進する。世界の人々が自然と調和しつつ健康で生産的な生活を享受できるよう、特に開発途上国における環境と貧困の悪循環の解消を目指して、我が国の環境・エネルギー技術や深刻な公害克服の経験・智慧を活かした国際協力を展開する。

日本が世界に向けて発信するのは「瓦礫の上」のゲイジュツである。   
(6)日本は新型コロナウイルス終息に向けて、「免疫立国」宣言を行う。

この国は地震やハリケーンの大災害や戦争による数々の凄惨な被災を経験しながらも、その都度、民衆は立ち上がって、「瓦礫」からの復興を実現してきた。日本が世界に向けて発信するのは「瓦礫の上」のゲイジュツである。
これが何よりのこの国のプレゼンスなのである。

日本は新型コロナウイルス終息に向けて、「免疫立国」宣言を行う。

世界が抱える様々な問題に通底するメッセージは、未知のウイルスから、高齢者や女性、そして子供たちの命を守る社会を創れ」ということだ。
HECPヒューエンコムパブリックは人と地球と社会の自立と共存による免疫クラスターの形成を目的に、人倫の基礎である持続可能な「家」アーキテクチャーと「地区」リージョンの世界的な再構築を目的として、「免疫食堂」のアプローチを展開する。

「地区」リージョンとは、民族や伝統的、地理的な境界を超えた共通の感性と理想を持っている人々のネットワークによる公共圏パブリックであり、世界中のあらゆる国と地域において、独立した層における独立した形象。それがヒューエンコムパブリックなのである。
日本は底辺が最も美しいとされる国家である。そして、日本人は世界でもっとも「平和」や「人権」に対する定位を持ち合わせている民族と言える。

その基調は、世界で類を見ない戦争放棄の純粋憲法ファイン・コンスティチューションを持ち、コミュニズム、ナチズム、デモクラシーの横暴などに現れる「権力」を本能的に嫌う心性を持ち、心地よい生活を最上のものとする、慎ましく簡素な自由主義者なのだである。
日本という国のこれまでの100年、戦争、原爆、そして今この残酷な福島や東北の地震と原発による恐怖、そして今回の新型コロナウイルスなど、さまざまな経験を得ることができた。そして、これからの100年。私たちは未来から先回りしなければならない。

HECPのゲイジュツアプローチは「損壊」しているから補おうとし、「排除」されているから補おうとしそこにパワーが集結する。それが瓦礫の上の芸術である。
わが国は、3.11ー東北大震災という未曾有の大災害において、凄惨なダメージを受けた。しかし、日本と福島や東北のその強い人々の心は決してあきらめることなく、現在においても、忍耐強く「復興」を推し進めている。「復興」とは、その土地の物理的景観を取り戻すだけではない。歴史、伝統、そして、経済的遺産に起因し、肉体的、精神的な性質を有する被災者の生活の再構築を図ることなのである。

この歴史的な大災害の中で、私たちの立っているグラウンドは白線に覆われた、決して「フラット」なものではなく、「デコボコ」の広大な瓦礫のグラウンドであるということを体験した。瓦礫のグラウンドは白線のグラウンドと違い、設計図やAIのディープ・ラーニングなどは何の役にも立たない。そして、瓦礫のグラウンドは世界中の様々な国と地域に存在している。つまり、ヒューエンコムパブリックとは、貧困や差別、災害、紛争などにおける、障がい者や高齢者、被災者、難民たちによる〝瓦礫の上のゲイジュツ〟、つまり、ヒューマニティーのことなのである。


最後にー
ゲイジュツの最大の有用性とは、貧困・紛争・災害における「日常」の再構築なのである。


私たちのGeijutzeゲイジュツの主体は、社会的な貧困をはじめ、災害や紛争により様々な苦難を強いられている無名で何も持たない地区であり、家であり、人々である。ゲイジュツとは本来の概念において、「技術」や「知識」などではなく、things humans madeー人間がつくったものという概念である。人間がつくり出したものすべてがゲイジュツなのである。ゲイジュツの活動は限られた論理空間やミュージアムで展開されるものでなく、コモディティ現実空間の中で表象されるべきものなのである。

現代のゲイジュツ・フェスティバルは、世界大戦の 瓦礫の中から生まれた。そして、私たちは他でもない「瓦礫」の上に立ち、そして私たちは繫がっている。距離は死に、位置が重要になってくる。今後数十年間で、人々の心の中に地球規模の意識が出現するであろう。その本質や大きさは今のところ分からないが、数年後には、世界は距離がなくなり、その新たな「意識」は、私たちに論理的な結論をもたらすだけでなく、他の人々の行動を通じて、世界中で群発的に発生する。ゲイジュツというは別に誰かが「そうしよう」と決めるわけでもないし、主導するような社会理論があったわけでもない。集団的な叡智が発動するときというのはそういうものである。

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