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遡上する生命、交差する今

 古びた船の底、エンジンが不安定なリズムを刻んでいる。カラフルな衣装を纏う人々とは対照的に、聖なる川の岸は煤け、淀んだ印象を受ける。

 初めてのアルバイトの給料で買った、小さなフィルムカメラを構え、ヴァーラーナシー、ヒンドゥーの聖地の生活を写しとっていく。

「信じてくれるかわからないけど、聞いてくれる? ミヤ、私は…」

彼女は澄んだ目で私を見据えた。


 慣れない文字が車窓を流れていく。鳴り止まないクラクションに背筋をビクつかせながら、乗車するバスは車列をかき分けていく。カラフルなパラソルをさし、色鮮やかな野菜を販売する八百屋。所狭しと、麻袋いっぱいのスパイスを並べる香辛料の商店。外壁の崩れた煉瓦造りの家屋。土とゴミで汚れた路地裏。さまよう牛たち。見るもの全てが、新しくも古めかしい、不思議な感覚。

 この場所が、学生最後の一人旅になったのは必然だったのかもしれない。目指すのは、ヴァーラーナシー・ヒンドゥー大学。ここ、インド・ヴァーラーナシーへの旅行は、研究室の教授のひとことがきっかけだった。

 就職活動が無事に終了し、卒論を残すのみとなった大学四年生の夏。これまでの学生生活を振り返る中で、私は何をしていなかっただろうと振り返っていた。高校生の頃は知る由もなかった、さまざまな学問を学び、サークル活動では、活動や学祭などのイベントを通じ、大学生の本懐を堪能した。恋愛だって、酸い甘いもそれなりに経験したつもりだ。

 私にとっての時間、世界のすべてがそこにはあった。思い起こせば、たくさんの思い出が興奮と共に蘇ってくる。これらを携えて、私は社会人までのモラトリアムをどう過ごせば、後悔なく大学生活を終えられるのだろう。

 そんなモヤモヤを抱えていた私を突き動かしたのは、教授との面談だった。定期的な進捗面談の折、何かのきっかけか、そんな思いを吐露したところ、教授はニコっと笑った。

「君は真面目だねぇ。そんなこと、なるようになるのに」

冗談めいた口調で宥めてくる教授に、

「こう見えても、真剣なんです! 私は」

拗ねたような口調で私は訴えかける。すると、

「そうかぁ…」

顎に手を添え、教授の表情が引き締まった。研究報告会で見るような、仕事モードの目だ。

空を見つめながら、一呼吸を置き、私に向き直ると、教授はこう告げた。

「君は、生きるってどういうことか考えたことがあるかい?」

生きる、ですか。いきなり、そんなこと言われてもな。言われるまで、生きていることが当たり前すぎて考えたことがなかった。

「ない、かもしれないですね」

「…就活とかで、『私は何がしたいか』については、たくさん考えてきたと思う。でも、『私は何のために生きているのか』、については、考えたことがなかったんじゃないかい」

「確かに。言われてみれば、そうかもしれないですね」

「だろう。もし、その答えのヒントが掴めれば、目先に待っている仕事、だけじゃなく、人生を通じたライフワークが見つかるかもしれない。そういうのを、見つけてみるのはどうだろう?」

ライフワーク、か。確かに今の時代、一つの仕事を続ける以外にも、複数の仕事をしたり、転職する人も多いと思う。

将来、仕事や人生の節目に立った時、私は、自分が何のために生きているのか、答えを出せているのだろうか。分からない。いや、今この時点で考えたことすらないのに、出てくるわけもないと思う。

「一度きりの人生を、どう使うか。考える間もないままに、終えてしまう人も少なくはないんだよ」

教授のとどめの一言は、私の心をざわつかせるには十分だった。


 古びたバスを下車すると、立派なインド様式の門が見えてきた。この後、教授の知り合いの、大学教授の研究室に所属する学生と落ち合うことになっている。校門にさしかかると、彼女はそこに立っていた。

「こんにちは」

「ようこそ、ミヤ。アイラよ、あえて嬉しいわ」

彼女が今回の旅先案内人を引き受けてくれたアイラだ。美しく長い黒髪に、くっきりとした二重瞼の彼女は、長袖にジーパンと非常にラフな格好で、非常にすらっとしている。インドの女性は、普段もサリーを着ていると思っていた私にとって、彼女の装いは意外で、1番最初に感じた逆カルチャーショックだった。

「よろしくね」

私たちは握手を交わし、歩みを進める。

「日本からここまで遠かったでしょう。疲れてない?」

「いえ、大丈夫。心配ありがとう」

「オンラインミーティングで会っていたから、リアルで会うのが不思議な感覚ね」

「確かに」

私たちは笑った。画面の向こうにいた人間が目の前にいる感覚は、なんだか有名人と出会う感覚に似ている。

「インドは初めて、だったよね?」

「うん、初めて。だから、とっても刺激的」

韓国や台湾。近場へ旅行した経験はあるが、中央アジアは初めて。街並みも、人も、空気も。短い私の人生に登場したことがないものばかりだった。

「…ほら、どこでもクラクション鳴ってるし、牛は好き勝手歩いてるし」

今、この瞬間も、”彼ら”は道路の真ん中を悠々と歩いており、周囲のボックスカーやミニタクシーが器用にかわしていくのである。

「言われてみれば確かにそうよね。私たちの国では、…いいえ、正確には私たちの宗教では、ね。彼らは神聖な神の使いなのよ」


 今回、アイラに、ぜひ連れて行ってほしいと頼んだのが、ヴァーラーナシーで最も有名と言っても過言ではない、聖なる岸、ガートだ。ボートを使い、ガート沿いを揺蕩いながら、この地を生きる人々の生活を眺めよう、ということになっていた。

 大通りを過ぎ、狭い路地裏を抜ける。すると、急に視界がひらけていき、巨大な河川が目の前に現れた。

 …ガンジス川だった。川のほとりの波止場に歩いていくと、彼女が船乗りと話し、私を呼び寄せた。

「もうすぐ出るみたい。乗りましょう」

アイラは私の手を取る。

 椅子の底から、波のうねりが伝わってくる。次々乗り込んでくる観光客に、こんなに乗って大丈夫なのか、と心配になりつつ、岸沿いを眺めて、出発を待った。

 十人程度が乗り込んできたところで船は出発した。カラカラと鳴り響く真鍮の鐘の音。ごろごろと低くうなるエンジン音。バチバチと爆ぜる、岸沿いの火葬場の木材。そして、形容し難い、さまざまな厚みを持った香り。五感をともない流れ込む、さまざまな生活模様は、脳の処理をスタックオーバーフロー寸前に追い込み続ける。

「ガートについて、どのくらい知ってるの?」

アイラが私に尋ねる。

「観光ブックに書いてあるぐらいかな」

「わかった。じゃあ、簡単に紹介するね。ガートは私たちの憧れ、というか、私たちにとっては生活と切り離せない大切な場所なの。国のいろんなところから、みんながここへやってくる。ガンガーで体を清めると、私たちの罪が許されるって言われてる。

 あと、ミヤが言った火葬場。ここで身を焼かれることはとても幸せなことだとされてるわ。死んだ人は最初に、近くにある寺院に安置されて、神様の言葉を聞かされるの。そのあと、ガンガーに浸されてから体を焼かれて、ガンガーに流される。これで、生きていた時の罪が許されて、この世界から解き放たれるって言われてる」

「死んだ後のことなんて、考えたこともなかった」

「もしかしたら、他の国の人たちからすると、死が身近にあるように見えるかもしれないわね」

死生観。考えたこともなかった。幸いなことに、生まれて二十年と少しの間、身内の不幸の経験のなかった。私は、死というものからもっとも遠いところに住んでいたのかもしれない。

 ボートは緩やかに降っていく。ガートに映る、この地の人々の暮らしを目に焼き付けていると、アイラは訪ねた。

「詳しく聞いていなかったけど、ミヤはどうしてこの場所に来たかったの?」

「どこから話したらいいかな…。実は私、悩んでいたの」

ここに至る経緯を、アイラに伝える。学生時代の思い出。残りの大学生活の使い方。生きることとは。私の思いが、言語の壁をどこまで越えられたのかはわからないが、伝えたいことは伝えた。

私の表情が真剣だったからかもしれない。いつの間にか、アイラの表情から柔和さは消えており、気づくと、真っ直ぐと私を見据えてくれていた。

「…生きる、か」

ガートに視線をやり、アイラは呟いた。再び、視線を私に戻すと、アイラは言葉を紡ぎ始めた。

「信じてくれるかわからないけど、聞いてくれる? …ミヤ、私は一度生まれ変わってるんだ」

「…え?」

私は言っていることが理解できず、聞き返す。

「それって…どういう」

「死ぬ前の記憶があるの、私。このガンガーで一度、私は焼かれて流されてる。そして、この川の源流で再び生まれたの」

彼女は言葉を続けた。前世は男性で、農家だったのだという。詳細な生い立ち、家庭環境を話す彼女に驚いた。

「そして、もう一つ。前世の私が生まれたのは、2084年。死んだのは、2137年」

「それって…」

「私の前世は今より未来で、過去に生まれかわったってこと」


「…未来は、どうだったの?」

興味本位の言葉が、口から続く。

「テクノロジーは進化していたけど、人というものの本質は変わっていなかったわ。この地も、この地で行われている営みも同じだった」

「一回目の人生では、生きることを学べたの?」

「…学べなかったわ。生きている、ということが当たり前すぎて、死という終わりが来るまでは、その意味すら考えることがなかった。だからこそ、二度目の人生が始まったのかもしれないし、今、生きる意味を見つけようとしているのだと思う」

「…そっか。きっと、あなたも同じ、なのね」

私は呟く。

「たまたま、私が、生きるということについて考えることに、一回目の人生で気づくことができた。たまたま、アイラはそれが二回目だったってことなんだと思う。これまで経験した記憶を携えて、これから先、そして今を生きることの意味を、答えを探している」

「そうね。その通りかもしれない」

アイラは頷いた。

「…私は。私たちは何のために生きていくのだろう?」

はるばるインドの、このガートの、このガンガーのほとりにやってきた私は、何が得たのだろう。

目を閉じてみる。

ボートの重低音。人々のざわめき。法具の金属音。木材の爆ぜる音。川のゆりかごに身を委ねてみる。


脱力した私は、走馬灯のようなものを見た。蘇る、鮮やかな映像。どの時間、どの場所の記憶や思い出にも、誰かがそばにいて、笑ったり、泣いたりしていた。流れ込む感情の荒波が、私の網膜の裏側に、温かい涙をもたらしていた。

 私の中には、たくさんの記憶が、たくさんの思い出があった。私の心は、それら記憶と思い出で構成されていると言っても過言ではないと思う。そして、それらには、いつも誰かがいた。家族、友人、お世話になった人たち。

私はこの記憶(ひと)たちのおかげで、今がある。

「…もしも、人生というものが、川の流れだというのなら。もしも、人生というものが、すれ違いや寄り添いで流れていくというのなら。私は、誰かと寄り添って、流れの先に進みたい。

どれだけの人が救えるのか。どれだけの人に寄り添えるのか。…分からないけど、私は流れていく世界を見つめながら、出会った人たちの願いに手を差し伸べる人生でありたい」

日本語で言葉を紡ぐ私がそこには居た。目を開けて、慌てて英語で補足する。

「分かったわ、アイラ。私は、願いを叶える助けをしたいのだと思う。…これがきっと、私の生きる意味」

淡くきらめいた瞼を拭っても、ガンジス川の輝く水面が目の前に続いていた。

「見つかったのね、意味が」

「…うん」

「素敵、だと思う」

「ありがとう」

「…流れていく世界、ね」

アイラは私に身を預ける。いや、私というより、ボートのゆらぎに、身を任せていた。

「確かに、私たちは流れている」

黄金色に輝き出した空を、彼女は見つめていた。

「…アイラ」

「なに?」

「生まれ変わるとしたら、次も過去に向かって生まれ変わるんでしょう?」

「たぶん、ね」

「流れる先が違ったとしても、すれ違えて、本当によかった」

「私も」

私たちは、ただ船の揺蕩いに身を任せ、ガートを下っていった。



…過去を遡上した先に、何があるのか。いつ、この世界から解放されるのか。私には分からない。

私たちは記憶と思い出を携え、今生きる意味を探し続けていく。流れる先が過去だろうと、未来だろうと本質的には、同じでしょう?

ただ、あなたと今という点で交わったという記憶は、今後どれだけ流れていこうとお互いに消えることはないのだと思う。

あなたの、私たちの流れつくの果てに、どうか、幸福がありますように。


参考


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