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八王子は薄めた山梨だよ、知らなかったのか?

YBS山梨放送の「マキタ係長」という番組で次のようなシーンがあったそうだ。

さて、ここに出てくる「立川と八王子は薄めた山梨」というのは根拠がない話ではない。歴史的にそうなのだ。

八王子千人同心

まず一つの例として、八王子千人同心という有名な組織を紹介する。面倒なので八王子市公式サイトから説明を引用する。

八王子市の甲州街道沿いに「千人町」という町があります。珍しい町名ですね。なぜ「千人町」という町名なのでしょうか。それは江戸時代、この辺りに幕府の家臣団である八王子千人同心が住んでいたからなのです。
……
八王子千人同心の始まりは、甲斐国(かいのくに・現在の山梨県)に求められます。9人の小人頭(こびとがしら)とその配下の人々で、武田信玄で有名な武田氏の家臣でした。千人同心は武田氏と大変ゆかりが深いのです。

八王子千人同心は八王子を中心としつつ、日野市、立川市から小平市あたりまで多摩地区全体に広範に居住していた(小平市教育サイトより)。

幕府は多摩地区を千人同心など半士半農の土地としたため、剣客が大量に育成され、それが後に新選組を生み出すことになる。新選組には六番隊組長の井上源三郎をはじめとして、井上松五郎、横倉甚五郎、中島登など千人同心の縁者・出身者も多かった。新撰組人気を考えれば、今後とも八王子をはじめとする多摩地区が甲斐国出身の半士半農の地であった、という歴史には誰かがたどり着くであろう。

絹の道

もう一つは、八王子市が近代化に伴い多摩地区の中心都市として発展してきた経緯である。当時八王子市は絹・生糸の集散地として栄えていた。生糸生産(養蚕)は桑畑を必要とし、桑畑は扇状地など水はけがよいなだらかな斜面に作られることが多かった。そのため、関東山地の麓であり、また山地の地形から必然的に交通の要衝となる八王子の地は、関東山地各地で生産される生糸の集散地となっていたわけである。これは八王子市が子供向けの市史教育でさえ説明していることである。

当時の生糸の主な生産地は、上州(群馬県)、甲州(山梨県)、信州(長野県)などでしたが、つくられた生糸の多くは、八王子の市に集められ、多摩丘陵をこえ町田をとおり横浜に運ばれました。

そして当然ではあるが、隣県である山梨県からの生糸の比重は高く、距離的にも近いので山梨県民が直接八王子に運びに来ることも多かったのである。八王子の発展における絹産業の地位を考えれば、八王子は山梨の出先機関という役割によって多摩地区の中心にのし上がっていった、という見方もできるくらいである。そもそも、八王子の絹産業は江戸期から甲斐国と縁深かったことは八王子市公式サイト市史が説明するとおりである。

松姫は、今から420年以上前に今の山梨県から八王子にやってきました……織物はカイコを育て、糸をつむぐことから始まります。これらの松姫の織り方が、八王子の織物の発展につながったと言われています

八王子市の住人

八王子は群馬、埼玉、山梨、相模原、横浜といった地域を結ぶ結節点であり、住民もその地域から引っ越してきた人が多い。このため、八王子市の税の収納は、群馬銀行、埼玉りそな銀行、山梨中央銀行、横浜銀行など近隣地域の地方銀行経由でも受け付けているし、これらの各銀行は八王子市にも支店がある。

山梨中央銀行は立川市にも当然のように支店を持っており、このあたりまで商売が成立するほど移住者がいるわけだ。

そんなわけで、歴史的にも近代にも移住者が多いこと、経済的にも甲斐国・山梨県の出先機関としての地理関係により発展してきたことなどから、「立川と八王子は薄めた山梨」というのはある程度説得力のある話なのである。


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