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「素材の味」論の源流の一人、北大路魯山人

北大路魯山人の主張は、「素材の味を生かせ」「素材は基本的に鮮度が大事」「見た目も料理の一部」といった言説の源流の一つになっている。この潮流はヌーヴェル・キュイジーヌでも重要な要素になっており、魯山人はその潮流の先駆けでもあるので、その先見性を示した(あるいは料理を無駄にうるさくした)言説を青空文庫からピックアップする。

基礎観念

もともと美味いものは、どうしても材料によるので、材料が悪ければ、どんな腕のある料理人だって、どうすることも出来ません。里芋でいっても、ゴリゴリした芋だったら、どんな煮方をしたって、料理人の手に負い切れないのです。さかなにしても脂っ気けのないものは、それこそ煮ても焼いても、バターを付けようと雲丹を塗ろうと、どんなにしたってものになりません。材料を精選するということの大切なゆえんであります。
(中略)
原料の原味を殺さないのが料理のコツのひとつであります。きゅうりならきゅうり、そらまめならそらまめに、それぞれの持ち味があるのですから、その持って生まれた味を殺さないように工夫しなければなりません。小芋の味ひとつにしたって、人の力ではどうにもできないのでありますから、持ち味を生かすということは、とりもなおさず、生きたよい材料を扱うということになるのであります。
―― 日本料理の基礎観念 (昭和8年)
https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/49990_37893.html
元来、諸君は料理屋の料理をつくることにおいて、甚だしい誤解をしているのである。食品原料の特質を殺し、形を変え、色を変じ、味を別にして、一見一喫して、なおかつ、なんの原料によってつくった料理であるか、素人には容易にわかりにくいものにし、得意の鼻をうごめかすふうがある。これは断然悪道の所作、あくまでも排斥しなければならない。料理の本義はどこまでも、その材料の本来の持ち前である本質的な味を殺さぬこと、これが第一の要件である。魚介、蔬菜、乾物、すべてそうである。

―― 日本料理の要点 ――新雇いの料理人を前にして―― (昭和6年)
https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/54980_50786.html

鮮度の重要性(大根を例として)

仮りに私の食道楽から言っても、ここに一本の大根があったとする。もし、その大根が今畑から抜いて来たという新鮮なものであるならば、これをおろしにして食おうと、煮て食おうと、美味いに違いない。だが、もし、この大根が古いものであったならば、それはいかなる名料理人が心を砕いて料理するとしても、大根の美味を完全に味わわせることは出来ない。天の成せる大根の美味は、新鮮な大根以外にこれを求めることが出来ないからである。

―― 味覚の美と芸術の美(昭和10年)
https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/54983_50783.html
原料の大事とは、原料の持ち味や特質をよく知ることです。天質の持ち味を大切に取り扱うことです。魚にしても、だし昆布とかまたはかつおぶしとかにしても、それらの所有するすべての味は、人造では絶対に出来ませんところの尊いものを持っているのですから、おのおの持ち味を殺さないようにするのが、もっとも肝要な点かと存じます。同じだいこんでも、今しも畑から抜いて来たものは新鮮を失わないように、古くてしなびているものは、それはそれとしてしかるべく処理しなければなりません。この新古材料を、両方同じように処理してはいけないのであります。原料を生かすのも殺すのも、そこにあるのです。

―― 衰えてきた日本料理は救わねばならぬ (昭和8年)https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/49964_37767.html

魯山人は野菜の新鮮さについては特にうるさく言っており、中でも大根の話は頻出で、「夏日小味」(昭和6年)などでも同じテーマが出てくる。なお、鯛など締めた後に寝かせたほうがいいものなど鮮度がすべてではないことも「料理の秘訣」(昭和8年)や「料理の妙味」(昭和13年)などで述べている。

過剰な味付け批判(砂糖とうま味調味料を例として)

例えば砂糖の乱用が、おのおの持つところの異なった「味」を破壊し、本質を滅茶苦茶にしている如き、それである。砂糖さえ入れれば美味いとする今の料理は、極端に味覚の低下を示している。砂糖や「味の素」類品の跋扈に拍車をかけているのは、料理する者の無定見である。この無定見が、味覚を無神経にし、天然自然によって与えられている個々の美しき「味」に盲目となり、「味」を心に楽しむ世界から葬り去っている。

―― 持ち味を生かす (昭和29年)
https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/54985_50785.html
塩、醤油、酒、味醂、砂糖、味の素、かつおぶし、昆布、煮干しなどは、味付料としていずれもよき味の持ち主ではあるが、これはどこまでも補助材料であって、これらの味付けでなにかを美味く食うものと考えてはまちがいである。調味料は以上列記したものを数えてみても、十種にはならないかぎられた少数である。ところが山海の幾千、幾百種の食物は、そのひとつひとつが特有の味を持ち、しかも、それは人為人工の企て及ばぬ特色を有しているのである。この特色ある天然の持ち味を軽視して、濫みだりに人為を施し、味のカクテルをつくって得たりとするがごときは、けだし、自然の味を冒涜するものであるとせねばならぬ。
――「料理の妙味」(昭和13年)
https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/54989_50789.html

このあたりは、いわゆる素材の味至上主義、塩至上主義の典型的イメージとなっているものであろう。ただ、魯山人は素材の味を生かすには塩しかないとか味付けはしないほうが良いと言っているわけではない。「料理の秘訣」をはじめとして調味料の良しあしを言う話も多い。「料理も創作である」(昭和六年)と言っており、何もしないのを良しとしているわけではない。持ち味を殺すようなことはするな、と言っている程度である。

フランス料理批判

まず「素材」の不良である。元来料理の良否は、素材の良否がものをいうのである。「まずい」素材をうまいものに是正するという料理法は由来発明されていない。
「まずい」ものをうまくなおすことは、絶対不可能という鉄則がある。
(中略)
われわれがフランス料理から学びとるものはほとんどなかったといい得る。これは料理文化の低さを語るものであるが、根本は料理素材の貧困である。いずこいかなるところにあっても、第一番の気がかりは「良水」の有無である。良水を欠く料理、それがなにを生むかは何人なにびとにもうなずける事実である。その良水がパリにないとのことである。ビールより高価な壜の水を飲んでいる市民である。次に肉食人に美肉が与えられていない。羊肉、馬肉を盛んに食っている。豚は鎌倉に匹敵するよさを持っているが、鶏肉は雛であるから味の鳥としては推奨できない。しかも、拙劣な料理法によって煮殺している魚介ときては、品種が日本の百に対して一、二であろう。蔬菜またしかりという次第。これでは、われわれ美食家を満足させる手はない。抽象的な概説ではあるが、だいたいフランス料理というものはこんなものである。
―― フランス料理について(昭和29年)https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/50019_37773.html
もっとも日本料理と西洋料理とは、根本的に行方が違うようである。西洋料理はだいたいにおいて拙い材料を煮様、焼き方によって美味くする。従って、発達した理知がもっとも必要だ。
(中略)
日本の料理は材料がよいために、西洋料理のごとく、複雑な技巧を用いないで美味く食えるものだ。よい魚ならば、塩を振って炭火でじかに焼いて、それで最高料理の一つになる。野菜のごときも新鮮であるならば、なんの手数も要しないで簡単に美味く食える。従って、日本料理は料理人の知恵で拵えた味が美食として大きな働きをするのでなく、天然の味を生かして味わうことが根本的となるわけだ。複雑な調味料や複雑な調理法は、日本料理に無用な場合が多い。
 こういうと、きわめて日本料理は簡単に考えられるが、この天与の天味を味わうということは、たかなかむずかしい。それはこれを知るひとがきわめて少ない一事で、かように断ぜられる。
 西洋料理のごとく中国料理のごとく、人間の取り繕った味というものは大衆に分りやすい。だが分りそうで分り難いのは、前いったように天然の味を知ることだ。
―― 世界の「料理王逝く」ということから(昭和10年)
https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/49984_37772.html

なお、魯山人も必ずしも外国の料理がまずいと言っているわけではない。昭和29年にパリ第一の鴨料理店で持参したわさび醤油で食うという有名なアレをやった欧米視察ツアーを行っているが、出発前には「フランスその他の料理にあまり多くのものを期待してはいない。"欧米諸国の料理に失望す"というようなことになるであろう」と大言壮語しつつ、ハワイのコーヒーやミルク、西海岸のサラダデンマークのビールなどを普通に褒めいているので偏見ですべてを決めるような人ではない。

ちなみに中略の部分は両方とも盛り付けについてである。ヌーヴェル・キュイジーヌにおける素材重視、バター排除の流れは源流は第二次大戦時に都市のシェフが田舎に疎開して郷土料理に触れたのが大きいとされるので、(時期的には辻静雄と交流があった時期とはいえ)魯山人の影響を主とはしがたい。しかし、懐石風の余白を生かした盛り付けは、間違いなく日本料理との交流の成果であり、魯山人が源流である。下記の引用部分などは、本当に先見性があったと認めざるを得ない。

欧米人が日本のように、刺身を食う習慣のない理由は、いうまでもなく、生なまで賞味できる魚がないからであろう。米人でさえ生のオイスターを自慢で食うところをみると、うまければ生でも食う証拠である。今に諸外国の人間が日本に来ることは、日本の刺身が食いたいためである、といわれるまでに至るであろうことが想像される。
 しかし、わたしがこういうことを考えていることが当たっているか、あるいはまったく誤っているか、今のところあまり偉そうにはいえない。それだけに楽しみがある。
 今からはっきりいっておいて間違いなしとするところは、美の点である。フランス、ルーブル美術館長ジョルジュ・サール氏も同じことをわたしにいっていたが、日本料理の目に訴えてくる美しさは絶対のもので、まことに美しい。食器の美しさ、盛り方のデザイン、居室の美しさは、世界無比といえよう。この点はとうてい欧米では窺えないというのである。料理文化の進歩を認める話しぶりであった。
―― 欧米料理と日本(昭和29年)
https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/49962_37766.html

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