クライシステオロジー,つまり危機神学 その7

この記事から続いて,今回の記事は書かれることになる。今回の記事は,カール・バルトが「これがローマ書で問題となっている主題である」(『ローマ書講解』上,邦訳93ページ)と述べている項目を扱うことになるから,極めて重要な記事となるはずである。ということで,シリアスな感じで,およそ人間には不可能である神への把握,人間が神について語る言葉ではなく,神が人間に語る言葉に集中せよ,という神学的態度を持ちながら,今回の記事を書いてゆくつもりであるから,その態度を持とうとして,今回の記事を読んでもらえると嬉しいと思う。それでは,始めるとしましょう!

1 本記事で扱う範囲における「ローマの信徒への手紙」の引用

引用を行う前に注意すべきことがある。それはここで引用されるものは,バルトが手ほどきを行ったところの「ローマの信徒への手紙」であるということだ。この意味は,ここでなされる引用が必ずしも,いわゆる「聖書」(より具体的には「新約聖書」)の形と一致しているというわけではないということだ。どうかその点に注意した上で,以下を読み進めてもらいたい。

「一六-一七節 というのは,わたしは救いの音信を恥としないからである。しかしそれは,ユダヤ人をはじめ,ギリシア人にも,すべて信じる者に,救いを得させる神の力である。というのは,神の義は,その救いの音信の中に啓示され,真実から信仰へ至らせるからである。これは「わたしの真実によって正しい者は生きるであろう」と書いてあるとおりである」(『ローマ書講解』上,邦訳80-81ページ)

ここで出てくる一つ目のわたし,はパウロのことを指しており,二つ目に出てくるわたし,はキリストのことを指していることに注意せよ。

2 知られない神こそ神である

知られないから神である,というのは一体どういうことなのか。私たち人間が神というものを知ろうとし,それへの記述を試みているけれども,その試み自体を破壊するようなものなのであろうか。バルトの説明を聞いていくこととしよう。

「神は知られない神である。このような神として,神はすべての者に命や息や万物を与える。したがって神の力は,自然力でも,精神力でもなく,またわれわれが知っており,できれば知りたいと願う,比較的高い,または最高の力のどれか一つでもない。それらの最高のものでも,それらの総体でも,それらの源泉でもなく,すべての力の危機であり,それらの力が何ものかであると共に無であり,無であると共に何ものかであることがわかる基準としての全く他なるもの,それらの最初の起動因であると共に最後の静止となるもの,それらすべての力を廃棄する根源であると共にそれらすべてを基礎づける目的である。神の力は純粋で卓越しており,制約され・制約するすべての力と並んだり,(「超自然的に」)越えたりするのではなく,それらの彼岸にあり,それらと混同したり,同列に置いたりできないものであり,非常な注意深さを持っている場合にだけそれらと比較しうるものである」(同上,邦訳82ページ)

私たち人間は,何かを知ろうとしてわからないことをわかろうとする場合があるが,そもそもとして,これをわかりたいと思うためには,これ,が先んじてわかってある必要がある,あるいは,これ,についてある程度の見解を持っていなければならない。なぜならば,これ,について全く見解を持っていないでこれをわかろうとするのであれば,全くわからないものについて,全く相手がわからない状態において,言い換えれば,その相手が存在しているのか否かもわからない状態において,これ,について考察並びに思考するハメに陥るからである。そして,そんなハメに陥ってまで,これ,について考えることは不可能であるか,およそ理性のあずかり知らない考え方を採用することとなるだろう。例えば,あなたが「MMTについて知りたい」と思ったとする。あなたは,MMTについて知らないことがあるから知りたいと思ったのであろうが,MMTというものを一部であっても知っているからこそ,そ知りたいという気持ちが生まれたのである。そこの彼が「死ギェ愛hがうぃおえgぺgpはうぇいgj:あw知りたい」などというとしたら,あなたはその彼にどういう反応を示すであろうか? 思考実験として考えてみると,何も知らない状態では何も知ることはできず,知りたい相手の情報がゼロであれば,そもそもその相手と出くわすことができない,ということがわかってくるでしょう。
理性はratio(比)を語源としているが,そんなハメに陥ってしまうということは,あたかもその比を考えるにおいて,分母が無であるゼロとなってしまうようなものである。分母がゼロであれば,そもそも問題を問題として成立させることはできない!つまり,考えを進めるあるいは,私は何かを考えているということを考えることができなくなってしまうのである。そして,およそ神について考えることをしないとき,神についての言葉を聞こうとしないとき,私たち人間は,比における分母がゼロでない状態,というのを前提としているように思われる。どうしてそんな前提が許されるのか!ということを不問に付したまま…

ところが,神の力という物はバルトによれば,理性における分母がゼロである状態を,人間に強いるようなものといえる。およそ人間が考えうるあらゆる出来事の始原であると同時にその破壊であり,人間が考える力の全てを,危機(クライシス)状態に陥れるようなものが,神の力なのである。したがって,私は神によってこれこれができるようになったとか,君は神の力によってそれそれを行うことができたのだとか,そういう言説を目にしたものは,その言説においてなされていることが人間にとって,およそ神なしにできることであった場合,その言説それ自体が嘘であり,虚偽であるということに,その言説を聞いたあなたは思いを至らせなければならないのである。神はアルファであると同時にオメガでもあるのである。数学でいうのならば,神はゼロであると同時に無限大なのである。(しかし,ゼロとか無限大とかいうものも,所詮は人間の思考が生み出したものであるから,この説明も,人間が神について記述するものに過ぎず,バルトの意味する神,の説明としてはあまりに不十分であり,不適切であることを,今回の記事の書き手は認識しなければならない。)

というわけで,キリスト教会などの,キリストに関する目に見えるものという物は全て,神の力の現れではない,ということになるのである。その顛末をバルトに語らせることとしよう。

「キリストの教会の,すべての教義,すべての道徳,すべての儀式は,それらすべてのものが,そこであの音信が自らを示す弾孔であるにすぎず,ただ空洞的であろうとするにすぎないかぎりにおいて,この音信にかかわる。キリストの境界は,それ自身において聖なる言葉も業も物事も知らない。知っているのは,欠如態として聖なる者を指し示す言葉と業と物事だけである」(同上,邦訳83ページ)

3 救いを得させる力が神の力である

ここまでバルトは,神の力というものを,およそ人間理性の活動全般に対して危機的な否!を投げつけるようなものとして説明してきたわけであるが,ここでは一転して,神の力の肯定的表現をバルトは用いている。キリスト教にとって神が人間に救いを得させるということは,およそ人間の価値評価における絶対的最高,絶対的プラス,を超えるようなものとして,その評価とは比較不能なものとしてのプラスであり,目的であるということは,前=提なのであって,これについて人間理性が議論の対象に据えること自体が,髪への重大な反逆行為となるであろう。つまり,「この世を神との合一において捕らえようとすることは,罰を受けるべき宗教的傲慢であるか,誕生と死の彼岸における真実を見ぬく究極的洞察,すなわち,神からくる洞察であるか,そのどちらかである。神からくる洞察が場所を占めることになれば,宗教的傲慢は消滅しなければならない」(同上,邦訳85ページ)ということである。

「われわれの脱出口である復活は,われわれの障壁でもある。しかしその障壁がまた脱出口でもある。われわれの出会う否は,神の否である。われわれに欠けているものが,われわれを助けるものでもある。われわれを制限するものが,われわれの新しい地である。すべてのこの世の真理を廃棄するものが,それらの真理の基礎づけでもある。まさに神の否が完全であるからこそ,神の然りも完全である。このように,われわれは神の力において,眺望と出入り口と希望を持つ。そしてそれと共に,この世においても,狭い道の方向指示と,絶えず次のきわめて小さな一歩を「慰めにみちた絶望」(ルター)の内に踏み出す可能性を与えられるのである」(同上,邦訳86ページ)

「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく,その道は広い。そして,そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く,その道は細い。そして,それを見いだす者が少ない」(マタイによる福音書 7章13-14節)という聖書の記述が,この引用文の少なくとも一部(「狭い道の方向指示」という部分)の典拠となっていることは,おそらく間違いないであろう。

4 精神は,直接的無媒介性の否定である。キリストが真の神であるならば,かれは不可知性の中にいなければならない。直接的可知性は,まさに偶像の持つ特徴である

この節のタイトルとなった文章は,セーレン・キルケゴールの『キリスト教の修練』という著作からの引用である。もっとも,バルトがこの引用をどの程度正確なものとして行ったのかはいまいち判然としない。そこで,『キリスト教の修練』から,これに近しい文章を,その前後も含む形でここに引用することから,この節の記述を始めることとする。

「しかし,人々はキリスト教的なものを,あらゆる仕方で撹乱する。キリストを神と人との思弁的統一にしたり,或いは,キリストを全然棄てて,その教えを取る。或いは,キリストを,大真面目で一つの偶像にしたりする。しかし,霊は直接性の否定である。もしキリストが真の神であり給うならば,彼は一切の直接性の否定であるところの,識別不可能性の中に在らねばならぬ。識別不可能性を装わねばならぬ。直接的な識別可能性は,まさに偶像にとって特徴的である。ところが人々は,キリストをそのような偶像にするのである。そしてそれを,厳粛なことと称するのである。人々は直接的に語り,それに応じた像を,空想的に作り上げる」(キルケゴール『キリスト教の修練』新教出版社,邦訳172ページ)

キルケゴールが非難する,キリスト教界における無様さの一つが,この引用に書かれたものである。すなわち,とことん人間は,人間が勝手に作り上げた空想としての,偶像としてのキリストを持ち上げたり,神と人との思弁的統一,などと言ってわかったようなわからないような,そんな人間理性の表現に安住してしまっていたりするキリスト教界に対する非難である。バルトはこのキルケゴールの認識を継承し,次のように述べている。

「救いを得させる神の力とは,この世においては,全く新しいもの,全く類例のないもの,予期しえないものであって,この世においてはただ矛盾としてのみ現われ,聞きとられ,受け止められうるのである。救いの音信は,自己釈明せず,自己推薦をせず,嘆願せず,取引きせず,脅迫せず,約束しない。救いの音信は,それ自身のために聞かれるのではないところではどこでも,自らを委ねることは拒否する」(『ローマ書講解』上,邦訳87ページ)

このバルトの言葉は,神の力を説明した前の節の言葉の言い換え程度のものであるから,言葉の紹介だけ行うことにするが,この言葉の少し後に,どういう人間であれば信仰する人間であるか,ということを規定する重要な言葉が述べられる。長くなるが,重要であると思われる箇所だから,引用を行うこととしたい。

「矛盾対立する真理による世界の限界づけを,つまり矛盾対立する意志による自己自身の限界づけを認識する人間,この矛盾についてあまり多くのことを知り過ぎて,それから逃れることはできず,甘んじてそれと折り合って生きざるをえなくなったために,とげのある鞭を蹴るのが難しくなった人間[使徒言行録二六・一四参照](オーヴァーベック),したがって遂にはこの矛盾を承認し,その上にかれの生を基礎づけようと試みる人間,この人間は信仰する。神を信頼する人間,神そのものを,そして神のみを信頼する人間,すなわち,われわれが,この世界の存在とその在り方に対する矛盾の中に置かれることに神の真実を認める人間,この真実に応答真実をもって答える人間,神と共に<しかしながら>,<それにもかかわらず>と言う人間,この人間は信仰する」(同上,邦訳88ページ)

使徒言行録二六・一四について,多少その前後も補う形で引用しておく。それが今回の記事の読者にとって,便利であることを祈って。

「「こうして,私は祭司長たちから権限を委任されて,ダマスコに向かったのですが,その途中,真昼のことです。王よ,私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて,私とまた同行していた者との周りを照らしました。私たちが皆地で倒れたとき,『サウル,サウル,なぜ,わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると,ひどい目に遭う』と,私にヘブライ語で語りかける声を聞きました」」(使徒言行録二六・一二-一四)

ここでいうサウル,というのは,パウロが回心する前の名前であり,パウロがサウルであった頃は,キリスト教を弾圧する側の人間として,活躍していたのである。

ここでのバルトの言葉は,決定的である。人間の考える範囲での真理では,世界には矛盾対立が存在していて,むしろその矛盾対立が世界の真理を与えているということを認識しようとする人間,そして神に対しては,神そのものを信頼する人間。こういう人間は信仰することになるのである。大切なことは,信仰は何か静的なものではないということだ。「信仰は,神によって生きるのであるから,それ自身によって生きる」(同上,邦訳89ページ)ということを,信仰するためには,言い換えれば,神の義のもとに生きるためには,さらに言い換えるならば,人間として生きるためには,認識しなければならないのである。

5 ユダヤ人をはじめ,ギリシア人にも,すべて信じる者に

キリスト教信仰,キリスト信仰は,民族の存在を超えていく。言い換えれば,とある民族の中に収まることを知らないのがキリスト信仰である。というのも,民族とか国家とかいうものは,およそ人間側にある,人間が勝手に定めたものに過ぎないからであり,民族や国家が自然に由来するなどと人間がいくら主張したところで,それはたかだか人間にとっての,人間のための主張に過ぎないものであり,そういう主張は,神の力の前には粉砕されるのみであるからである。

「救いの音信を聞く可能性は,それが聞かれるということに対する責任,あるいはそれを聞く者に与えられる約束と同様に,普遍的なものである。というのも,その音信の中に現われるのは,「神の義」という偉大な,普遍的な,あらゆる段階にいるすべての人間の肩にかかってくる秘密だからである。全世界において,ユダヤ人にもギリシア人にも,もっとも疑問視される神の自己自身との一致が,キリストにおいて明らかになり,栄誉を受ける。人間が復活の此岸において神と名づけるものは,もっとも特徴的な仕方で,神でない神である」(同上,邦訳90ページ)

救いの音信を聞く可能性は,普遍的なものであるが,その音信の中に現われるのは,秘密ということがこの引用では,書かれている。音信それ自体が秘密である,ということをこれは意味するものではないことに注意したい。音信それ自体は普遍的であり,すべての人間を相手取るものであるけれども,その中身が何かということが,すべての人間にとって秘密であるということを,バルトは言っているのである。そしてもう一つ重要なことを言っている。それは,神と自己自身との一致が,自分において明らかになるのではなく,キリストにおいて明らかになるということである。いわば,神ーキリストー自分,という三項関係がここに記されているのである。キリスト教において,キリストを殺すことはできない。確かにキリストは人間によって処刑された。そしてその処刑の事実がなければ復活の事実もないわけであって,キリストの存在は,その存在が消えたことによって,確証されるものである。神がキリストを殺す人間を設けたことによって,人間の救済をキリストを通じて保証するという考えなのである。そういうわけだから,キリスト教はついついキリストを殺すことになりがちであり,その傾向は今でも脈々と続いているわけであるが,キリストを殺すことに最大限の反対をしなければならないのである。神と自分とを直接に繋ぐという回路をキリスト教は持ってはならないということが,ここで言いたいことである。

以下のバルトの記述は,いわゆる「危機神学(クライシステオロジー)」という名称が与えられるにふさわしい記述であろう。

「神は,われわれの危機を導入することによって,われわれを裁きの前に立たせることによって,われわれに恵みを与える。神はキリストにおいて神であることを欲し,神として承認されていることを欲することによって,われわれの救いの現実性をわれわれに保証する。神は自己自身を義とすることによって,われわれを「義とする」」(同上,邦訳91ページ)

6 神の真実,神の愛

神は人間にいくら裏切られようとも,人間がいくら神を裏切ろうとも,人間を神が見捨てることはなかった。人間を神が忘れることはなかった。人間は人間が生み出したものを忘れることができる,というよりも忘れることが強制されていると言えるものである。永遠の愛を誓い合う人間同士の,その関係の儚さを想像するだけでも,この主張は,つまり人間は人間の生み出したものを忘れることになっている,という主張は裏付けされるだろう。そして神の真実が露わにされるのは,神への信仰によってである。信仰なしに神の真実が露わになることはないのである。この事実を認識しないのが,信仰なしに神を記述しようとする学すべての,根本的かつ原理的な間違いなのである。

「神が真実によってあらわにするものは,「信仰へと」あらわにされる。それは,直接的伝達を断念した人たちに伝達される。あえてそれと対決しようとする人たちに,存在する神が語りかける。神の否という重荷を自ら負う人たちは,より偉大な神の然りによって支えられる。苦しむ人たちと重荷を負う人たちは,元気づけられる。その矛盾を回避しない人たちは,神の中に匿われている。あの待望の中に正しく移された人たちは,待ち望むことが許されており,待ち望むべきであり,待ち望みうるという点で,神の真実を知っている。神に敬意を払い,距離を置く人たちは神と共に生きる」(同上,邦訳92ページ)

私が神であるとか,私は神とゼロ距離の親しさを持っているとか,そんなことをいう人間の神を,信じてはいけないということは,この引用からも明らかであろう。いわんやそんなことをいう人間の神が,キリスト教の神でないことだけは,推量の余地がないくらいに明らかである。

7 ローマ書で問題となっている主題

バルトは,ローマ書で問題となっている主題(ザッヘ)のことを次のように記述している。正確に言えば,この部分,と言ったような特定ができる形では書いていないのであるが,おおよその該当箇所が推定できるので,その箇所を引用するという形で,バルトの述べる,ローマ書で問題となっているザッヘ,を紹介することとしよう。

「神の真実とは,神が,全く他なる者として,聖なる者として,その否をもって,全く逃れることのできないような仕方で,われわれに向かって現われ,われわれの後を追うことである。そして人間の信仰とは,この否を甘んじて受ける畏敬であり,空洞への意志であり,否定の中に動揺しつつ踏み留まることである。神の真実が人間の信仰に出会うところに,かれの義が現われる。そこにおいて正しい者は生きるであろう。これがローマ書で問題となっている主題である」(同上,邦訳93ページ)

神の真実と人間の信仰とは,切り離せない関係にある。どちらかがかければもう一方も意味をなさなくなる。そして人間は神ではない以上,神の真実を知ることはできない。少なくとも明示的な形では。ということは,事実上,人間の信仰なしに神の真実を知ることはできない,と言えることとなる。もちろん,神の真実など知ろうとしなくないという「無神論者」もいるだろうし,そのような人々は絶望を知らないだけの素直な,呑気な人間であるに過ぎない。そしてそのような呑気な人間に対しても,神はそれを理由にして見捨てるということなど,しないのである。

「救いの音信は,世界宗教や世界観の争いを探し出す必要も,ことさら避ける必要もない。この音信は,既知の世界を,もう一つ別の未知の世界によって限界づけることについての音信だから,既知の世界の内に,比較的未知な,より高い存在領域をなおも発見し,近づきやすいものとしようとするすべての試みとの競争の圏外に立っている。この音信は,他の諸真理と並ぶ一つの真理ではない。それは,すべての真理を疑問視する。それは蝶番であって扉ではない。この音信を理解する者は,全体,つまり生存をかけた戦いの中に移されることによって,すべての戦いから解放される。救いの音信の勝利のための弁証や配慮といったものは存在しない。この音信は,あらゆる所与の廃棄であり,基礎づけであるがゆえに,世界を克服する勝利である。それは弁護され支えられることを必要としない。この音信が,それを聞き,宣べ伝える者たちを弁護し,支える」(同上,邦訳81ページ)

神学は他の学問以上に,同じことの繰り返しであり,その繰り返しの中に,つかめそうでつかめない神の真実が,空隙として存在並びに生成しうるのである!










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