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科学的人事とは

科学的な人事?

「科学的な人事」と言うときに、私のような純事務系の人間はどういう意味で使っているのだろうか。

せいぜいエンゲージメントサーベイの結果や採用データを活用した統計分析、採用におけるAIの利用、無意識の偏見を最小限に留めるために複数名で採用チームを形成し同時に客観的なアセスメント結果を使うことで、とかく声の大きい人の意見が通ってしまいがちな主観的な判断を避けよう、という程度の意味かもしれない。

研究畑の技術系社員のコミュニケーション

個人的に昔からビジネスの世界で研究畑の高学歴な技術系の人たちのコミュニケーションが事務系の人たちと比べてとかく複雑で、このためメッセージが率直では無く、結果的にメッセージが聴衆に伝わりにくい、と感じることが多かった。

そしてその問題点はきっと技術系の人たちがロゴスよりもパソスを強調するなどのコミュニケーションスキルを磨けば上達していくものだろう、と思っていた。しかし現実にはそういったコミュニケーショントレーニングを実施してもこのコミュニケーションギャップが埋まらず、未だ持ってその根本原因が納得できていない。

「科学と非科学」

今回ご紹介する本は「科学と非科学」というタイトルで、著者は現在神戸大学農学研究科の教授である中屋敷均氏で、専門は染色体外因子(ウイルスやトランスポゾン)の研究である。本書はもともと講談社の「本」というPR誌に連載されていたものだという。

中屋敷氏は本書で、「科学的な正しさ」を疑い、「科学の存在意義」を問うている。

世の中で「科学」と言われるもの二つの顔、「科学と非科学」のはざまがどうして必然的なのか、「非科学」=「前近代的」と割り切れないのはなぜか、言い換えれば「科学」への万能性・絶対的信仰に問題があるのではないか、そしてその結果なぜ科学者の物言いが政治家のように歯切れの良いものにならないのかを明らかにしようと試みる。そしてその不確かな科学とどう向き合っているかどうかを考える。

「科学」の二つの顔

現代社会では「理性で世界を理解することができる」と信じられており、科学がその役割を果たすものとされている。しかし、現実にはかって「日本の原発は絶対に安全」と言っていた「権威」が「原発の安全について、担保しないし、判断しない」と言っているのは何故だろうか。

社会が科学に求めている最も重要なことは、この世界にあることを分かりやすく「説明すること」。今回の新型コロナウイルスにおいても、色々な権威の科学者がワイドショーで意見を求められ、時には珍説や暴論を披露し、世間を混乱させた。しかし科学者は本来科学者として誠実であろうとすればするほど、科学の不確実性に言及しない訳にはいかないはずで、こういったワイドショーで歯切れの良い説明をするためにはその誠実さとある種の妥協をしないとできない。

著者は科学には社会に「神託」を下す装置としての「科学」と、この世の法則や心理を追求する「科学」の二つの顔が乖離する、と言う。社会的な問題、例えば地球温暖化問題に「神託」を下す社会的な役割を持った科学者は、何等かの前提条件を付けて、「神託」を下す。それは社会的な要請との妥協の産物となりがちだ。

科学の不確実性

それではなぜ科学には不確実性、「わからない」ものがあるのか。著者は次のように説明する。

現実に存在する「無限」の可能性はとても手に負えない人間が、「有限」の試行回数で世界を理解するために生み出した知恵が科学的と呼ばれている手法であり、そこにはその網からもれてしまうリスクが常に存在する。だからどんな対象であっても「ゼロリスク」を求められると、科学的にはそれに応えられないというのが普遍的な結論である。

ビジネスの世界では常に意思決定という「神託」を求められ、その稟議の際には上司からのリスクチェックがある。その時に「大丈夫です」と妥協(あるいはハッタリ)ができるのが事務系あるいは不誠実な技術系で、誠実であればあるほど前提条件の説明をつけてしまう。これが先に私が目にしていた技術系社員のコミュニケーションが複雑化する原因ではないか。

因果律と偶奇

著者はまた「因果律と偶機」との関係も論じる。

現在の科学が弱い、あるいは出現頻度が低い因果律に対しては、十分にその有効性が発揮できない傾向にあることも否定しがたい。

言い換えれば、世の中はわかりやすい因果性とまれにその姿を現す無数の弱い因果性が複雑に混じりあって存在しており、後者は時に科学を無力にしてしまうことが起こり得る。すなわち我々は偶然を決して無視できない。まさにこれこそリーマンショックを予言したというタレブのいう”Black Swan"ではないか。

「科学的真理とは、その時つける最善の嘘」

また「科学」と「非科学」の範囲も時代と共に変わる。現代の科学はすべてを把握しているわけではない。このため今「非科学」であることが何等かの技術の進歩で「科学」であることが証明されることもありえる。まるでニュートンの万有引力の法則がアインシュタインの一般相対性理論で修正を余儀なくされたようなものだ。すなわち「科学」と「非科学」の境界線は常に曖昧なのだ。

行動科学者の日高敏隆先生が「科学的真理とは、その時つける最善の嘘」ということを話しておられる

科学的な姿勢とは

著者は「非科学的な研究分野」が存在するかは分からないが、「非科学的な態度」は明白に存在する、という。科学的な姿勢とは

根拠となる事象の情報がオープン化されており、誰もが再現性に関する検証ができること、また、自由に批判・反論が可能である

といった特徴を持っているという。

この科学的な姿勢を阻害するものの一つが権威主義、「科学に従事している研究者の言うことなら正しい」という誤解であり、逆に科学に従事する者が、非専門家からの批判は無知に由来するものとして、高圧的かつ一方的に封じ込めてしまうこと、である。

地震大国日本での原発推進は「リスクはゼロにはならない」科学を「神託」で判断を下し、「ビビらずにやってみた」結果だと言える。そして福島第一原発の事故を招いた。その判断に著者が指摘するような真の「科学的な姿勢」があったのかどうか。

変異としての科学

一方著者は大学研究の世界では、過度な選択と集中が進み、研究者の「内なる真実」ではなく、「外なる評価」が研究を動かすようになり、それがデータ捏造などの不祥事の温床でもある、と指摘する。

評価へのアピールと科学的な真理の追究とは、往々にして相反する。著者にはこういった過度の選択と集中、すなわち「システム」によって研究の自由度が奪われ、「システム」から独立した「変異」としての科学の役割が力を失いつつある、と映る。

そして再び科学的な人事

さてDX(デジタルトランスフォーメーション)が新型コロナウイルスの新日常をキッカケにますますその進展が加速化する、というコメントが毎日のマスメディアで賑わっている。

リモートワークにしろ、RPA等を使った業務プロセスの変革にしろ、これまでも変革が叫ばれてきたが遅々として進まなかったものであり、私自身もその進展に期待するところが大きい。

しかし本書の著者が指摘する通り、「科学と非科学」は決してはっきりした区分で成り立っているものでは無い。今正しい前提条件であっても、今後の新たな発見で間違ったものとされることがある。

「科学と非科学」の曖昧な境界線を知った上での「科学的な人事」とは、流行に乗って我さきに新しいツールを無批判に導入することでは無く、その根底にある理念や目的をしっかり把握した上で、「最善の嘘」を時には懐疑的に見る態度を忘れることなく、試行錯誤を続けることでは無いだろうか。

そしてその試行錯誤の結果をオープンに共有し、自由に批判や反論ができる環境にさらすことで、より「最善の嘘」を追求し続ける姿勢が求められるのだろう。

(本記事の内容についてより詳しくご相談されたい方はこのリンクからコンタクトください科学的な人事や人事におけるDXの推進をお手伝いいたします。)



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