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文学性に囚われる

季節は移ろい、気づけば師走である。
気温はみるみる下がり、人々は温もりを求める、そんな季節と言えよう。

今年1年で、僕の周りには結婚した友達や彼氏、彼女ができた友達が増えた。コロナ禍で結婚している人が増えているらしい。まあ、納得である。こんなにも孤独を感じる季節はまあ少ない。人生でも1度か2度体験する程度であろう。

でも、そんな季節に人を求めて幸せになるなんてフツーじゃない?と斜に構えて感じてしまうのも事実である。まあこれもしょうがない。26年も斜に構えて生きてきてしまったのだ。今更どうやって意識を変えられるものか。

それでもなお、僕だって人肌は恋しい。約4年も一人ぼっちであれば、そんなのは当たり前だ。一体に誰にこの矛盾が責められようか。

そんなことで、僕は今年1年に複数の女性とも会うように心がけてきた。出会いというのは大学を出てしまった今、自然発生するものではない。自分で創出するものだ。

その中で魅力的な女性になんにんか会った。彼女たちはとても可愛く、自分にとっては勿体ないほどだとすら感じた。自惚れかもしれないが、雰囲気はよく、おやおやこれは良い感じだぞとも感じたこともあった。

しかしながら、僕はその機会を見送ったのだ。バッターボックスに立ち、どストレートな打ちやすい球が飛んできたのにも関わらず、僕は動けなかった。

それはなぜか。理由は単純明快である。彼女たちに文学性を感じられなかったからである。

これまでにも何度かこのnoteに書いてきたように、僕は生きる上の選択で文学性があるか否かで判断し、選択してきたつもりである。その判断基準で成功も失敗もしたが、僕はこの考えが好きだし、無理矢理にでも納得してきた。

しかし、この文学性というものに今囚われている。
文学性に関して目を瞑れば、今や幸せになっていたであろう機会を無駄にしてしまっているのだから。

それでもなお、僕はこの基準を捨てることはできない。どれだけ外見が優れていようとも、その場では良さそうと感じたとしても、多分最終的な出口はみな一緒だと思ってしまうからである。

それでは、文学性を持っている女性とはどんな人だろうか。
その答えも明確に言語化できない。つまりは自分が求めているものがはっきりとわかっていないのだ。

そんな状況の中で、僕は信念、孤独、性欲、矛盾を繰り返す。とんでもなくどうしようもない。やれやれ、これでは拗らせてしまっている僕が昔に馬鹿にしてきたやつみたいじゃないか。

そんなことを考えながら、今日もこの駄文を書き記し、水が地面を打つ音を聴きながら煙を吐くのである。

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