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火星人は眠らない

「私、眠らないことにしたのよ」
彼女は僕が2分前に巻いてあげたタバコの煙を吐いたあとに少し間をあけてそう言った。
彼女は以前と変わらず、とても健康そうに見えたがその顔はとても寂しそうだった。
「眠れないの?」
僕がそう聞くと、彼女は視線を斜め下に移しながら、小さく息を吐いた。
「そう、眠れないけど睡眠薬を飲むのが癪だから眠らないことにしたの。もう歳だから眠らないと次の日がつらいのよ。」
「じゃあ昼には眠たくなるんだね?」
「昼も夜も眠いは眠いのよ。でも目を閉じても意識が残り続けるの。何も起こらない。試しにずっと目を閉じ続けたこともあったけど、そのまま朝日を瞼の下から感じることになったわ。」
僕はコーヒーに口をつけながら、目を閉じても眠れないというのはどれほどの苦痛が想像してみたが、さっぱりわからなかった。
「それはなにかストレス性のものなんだろうか。でも睡眠薬を持ってるってことは病院には行ったんだね?」
「行ったわよ。いくつかテストみたいなものもしたけど、結果はとても健康的な26歳だったわ。医者からもこんなに健康な人は久しぶりに見たよなんて言われちゃってね。全く気楽な人種よ医者って。こっちは仕事中にずっと眠気に襲われてるっていうのにね。」
そう言ってしまうと、彼女はまた小さく息を吐き、細い指で持っていたタバコを灰皿でもみ消した。それから僕の瞳をじっと見つめ、口を開くことをやめてしまったように話さなくなった。
僕は冷め切ってしまったコーヒーを飲み干して、店員におかわりを頼んだ。店員は無愛想に注文を取ると、カウンターの向こうにそそくさと引っ込んだ。
「でも、少しだけ不思議なことがたまに起こるの。」
彼女は閉じていた口を開き、まるで隣の子供の学校について愚痴を吐いていた主婦に気づかれないようき、囁くようにそう言った。
「不思議なこと?」
僕も無意識的に彼女に合わせるように声のボリュームを落とした。
「そう。瞼を閉じていると、最初は暗闇しか見えなくてなんだかとても寒いの。でもだんだんとその暗闇に慣れてくると、暗闇の奥に蝋燭のような灯りが見えてきて、ゆっくりと近づいてくるわけ。私は怖いんだけど、その灯りがなにか気になるわけね。人間の好奇心って恐ろしいものよ。それで暗闇が照らされていくと、それは本当に蝋燭の灯りで、小さなテーブルに載っていることがわかるわけ。ホテルにありそうな小さなベッドサイドテーブルみたいなものよ。そしてその横に小さな腰掛けがあって、そこに誰かが座ってるのよね。でも顔は見えないの。目を凝らして、じっと私は見つめるのだけれど、どうしても顔は見えないのよ。そうしてると、そこに座ってる人がゆっくりとこちらを向いて、何かを喋ってるの。でも毎回そこで暗闇がまた支配してきて、真っ暗に戻るの。」
この話を聞いて、僕はふむと思った。やはり彼女はなにかを抱えているのではないだろうか。現代の精神医学では解明できないなにかを。
「それを見て君はなにかを思うのかな。」
「そりゃ怖いわよ。だって誰かもわからない人が私になにかを語りかけてるんだから。でも不思議とそれを見た後に不安になったりはしないわね。ただの暗闇に戻って、また眠れないだけ。ただそれだけね。」
彼女は淡々とそう言うと、また黙ってしまった。僕はどうにかして彼女に歩み寄りたかったが、一体僕になにが出来るだろうか。
「でもこの先ずっと眠らないで生きていくなんて無茶だろう?どうにかして眠らないと、君は壊れてしまうよ。」
「そうなのよ。私だってこのまま生きていこうなんて思ってないわよ。でも今はこれでもいいかと思ってるの。ただ、眠らない時間は恐ろしく暇ね。思い切って本でも読もうとしても、眠たいのは変わりないし、全く集中できないの。せめて話し相手でもいればいいんだけれど。」

その晩、僕は彼女の家を訪れ、眠らない彼女の話し相手になった。いや正確にはなろうとした。彼女はバーで話していた時とは打って変わって、喋り続けた。僕は相槌を打って、なるべく話に集中しようとした。おそらく僕は世界で最も相槌が上手い男になっていた。
しかし、僕は彼女と違って眠くなり、時計の針が2時を回ったころにウトウトとしてしまっていた。彼女は構わず喋り続けていたが、僕が一瞬意識を失い、ハッとして目覚めた時にはこちらをじっと見つめて黙っていた。
「ごめんよ。眠るつもりはなかったんだ。」
「平気よ。私の話はあまり面白い話ではないし、もうこんな時間だものね。そろそろ眠りましょうか。」
「でも君は眠れないだろう。またあれを見ることになる。」
「もう慣れたから本当に平気よ。あなたは明日も仕事だし、最初から眠らない女に付き合うのなんて無理だったのよ。」
彼女は怒っている様子ではなかったが、その語気は強く、それは小さな女の子が思ったように物事が進まず、寂しそうに拗ねているようでもあった。
そうして僕らは共にベッドに入り眠った。僕だけが眠った。
僕は普段夢をあまりみない。見ても断片的な映像が少しだけ記憶に残っている程度だ。しかしその晩僕はとても鮮明な夢を見たのだ。僕は今まで着たこともない高価なスーツに身を包み、そしてテーブルに置かれた灰皿にタバコの灰を落としていた。タバコは普段僕が吸っている銘柄ではなかったが、その味は馴染みを感じるものだった。
タバコを吸っていると、だんだんと音が聞こえるようになってきて、あたりも見えるようになってきた。そこはダイナーのような場所で、他にも多くの人が食事をしていて、舞台ではジャスバンドが演奏をしていた。僕の前にウエイターが料理を運んでくると、僕は急に空腹を覚えナイフとフォークを手にして料理に手をつけようとした。しかし、ナイフを肉にあてたところで、照明と音楽がパッと消えてあたりは暗闇に包まれた。
僕はなにが起こったのかわからなかったが、不思議と落ち着いていた。これが彼女の言う暗闇だろうか。僕らは同じ暗闇に足を踏み入れてしまったのだろうか。
暗闇の中でポケットに入っていたライターをつけてみると、ゆらゆらと小さな炎が僕の手元を照らした。先程の料理はもう姿を消していて、テーブルも小さくなっているように思えた。そのかわり中央に蝋燭のようなものがあった。僕が蝋燭に火を灯すと、地震のように地面が揺れ、足場が動き出したようだった。
僕は彼女が話していた暗闇の中にいることを確信し、彼女をここから助け出そうと思った。僕を乗せた椅子とテーブルは動くのをやめず、だんだんと加速しているようにも思えたが、あまりにも周りは暗く、自分が動いているのかどうかもわからなくなった。
気がつくとその動きはいつのまにか止まっていたようで、僕が振り返るとそこに彼女の姿があった。
「大丈夫だ。怖がらなくてもいい。僕らは同じ暗闇にいる。僕と一緒にここから抜け出そう。元の世界に戻って君は眠るんだ。」
僕は彼女に聞こえるように話したが、彼女はなにも聞こえていないようで、じっとこちらを見つめたまま動かなかった。
「僕は君を助けたいんだ。」
今度は聞こえるように叫んだが、それでも彼女は動かずただそこに立っていた。
僕は椅子から立ち上がり、ゆっくりと彼女に近づいてから抱きしめた。これで元の世界に戻れる確信があった。
しかし僕らはまだ暗闇の中にいて、僕の腹部にはナイフが刺さっていた。ナイフを伝い闇よりも黒い僕の血が彼女の手を染めていた。少し遅れて痛みが徐々に僕の体を蝕み始めた。
「最初から眠らない女に付き合うのなんて無理だったのよ。」
彼女は小さくそう言ってから、僕から離れゆっくりと反対側に歩きはじめ、やがて姿が見えなくなった。
僕の夢はここで途切れ、目を覚ました。腹部には痛みが残っているように感じたが、それは気のせいだった。体は汗だくになっていて、布団はびっしょりと濡れていた。彼女の様子が気になり、隣を見てみると彼女は穏やかな顔で目を瞑っていた。その顔はあまりに穏やかで綺麗だった。人間にしては綺麗すぎた。その様子から僕は彼女が眠っているかどうかわからなかった。起こしてみようかと思ったが、そんなことはしない方がいいだろうなと思い、僕はタバコに火をつけて煙を吐いた。

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