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みんな誰かに愛されたい

緊急事態とは言えない緊急事態宣言が発令されてから、もうどれだけ経ったかわからないくらい、世界は日常を取り戻そうとしている。

これまで自粛要請に従ってきたお店も、耐えきれないようにアルコールを提供し始め、消費者も自粛の意識が薄れてきているようで、これまで意識高く守ってきた人々もお酒を浴びに外に出ているように思える。

もうどうにでもなってしまえ。オリンピックはやるけど、運動会は自粛。出場選手の飲酒は許容するけど、愚民の飲酒は認められない。そんなやりきれない矛盾を聞かされてしまっては、こうなるのも仕方がない。むしろ暴動が起きないだけ立派である。偉いぞ日本国民。

そんな中、最近は僕も例外なく酒を浴びに外に出ている一人である。感染対策をしっかりと取っている限定的なお店にしか出向かないけれど。

気づけば仲が良かった友達と会うのも、約一年ぶりだったりもする。お互い仕事もあるし、こんな世界だし、誘いにくくなってしまって季節が三つ過ぎてしまっていた。

そんな久しぶりにあった友達とはジン屋でクラフトジンを共に飲んだ。花は花屋、コーヒーはコーヒー屋、ジンはジン屋だ。正しいものは、正しいところでしか買えない。そんなものだろう。

僕がロックで美味しいジンが入ったグラスを傾けている時に、彼女は言った。

君は自己開示がすごい

彼女は密かに僕が書いた文章を読んでいたようで、(この駄文の集合体を誰かが実際に読んでいることに少なからず驚かされた。)その内容について自己開示がすごいと感じていた。

自己開示。確かにこれまで僕が書いてきた文章を読み返してみると、自分の過去や思考、感情を曝け出しているように思える。いま、ここで書いていることも例外ではない。

彼女が言ったことの真意をポジティブなものとも、ネガティブなものとも僕は受け取らなかったけれど、いったい誰が自分から出てくるストーリー以外で文章を書けるだろう。

いや優秀な人であれば、巧みに文章を操り、その文章がまるで自分から出てきたものではないように見せることが出来るのかもしれない。多くの作家はそうしているのかもしれない。その作業は咀嚼というかなんというか、一度変換器のようなものにかけるような感じだ。

僕はその作業が出来ていない。故に恥ずかしいほどにストレートな表現しかできない。まあ頭が正常じゃない時に文章を書いて整理しているんだから、そんな複雑な作業が出来るわけもないと諦めてもいるんだけど。

そんな直接的な表現で自己開示をしている理由はおそらく、いやはっきり言って一つだろう。
僕はきっと誰かに愛されたいのだ。ありのままの自分を。
僕だけではない、みんな誰かに愛されたいのだ。

誰も愛してくれないなら、自分で愛するしかない

それでも独りは独り。誰も愛してくれない状況などこの世界ザラにある。

こんなこと言うと、家族や友達からは「いやいやあなたには私たちがいるじゃない」と言われるのだろうが、お分かりの通りそれは違う。

求めてる愛の質が全く違う。サラサラとした流動的に日々を循環する愛ではなく、僕が求めているのは密度を持ったドロドロとした濃縮された愛が欲しいのだ。

そしてそれは異性、つまりは恋人からしか享受できないものだと思う。一度その感情に触れてしまえば、厄介なこともセットでついてくるし、その愛とお別れする時は厳しい季節がやってくるし、面倒なことこの上ないことは理解しているにも関わらず、人はそれを追い求める。

でも誰も愛してくれないなら、せめて自分が愛するしか救いがない。自分の好きなことをして、好きなことをしている自分を承認してあげるしかない。

自分に訪れた変化を認め、それもまた自分だよなあと愛らしく囁くしかない。嗚呼、なんと孤独な世界か。それでも0よりはましだろう。0より1だ。

そうして今日も台風がくる前の曇り空を眺めながら、煙を吐き出すのだ。

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