見出し画像

新年の抱負なんて壁にかけて飾っておけ

新年も明けてはや1ヶ月が経った。
年を取ると時の流れを早く感じるという風説があるが、昔はそんなことないと思っていた僕でさえ、もしかしたら本当なのではないかと信じかけてしまうほど時の流れが早い。これが老化というものの正体なのだろうか。

時間というものを考える時に、しばしば人は始まりと終わりを定義したがる。1日は0:00から始まり、もう一度0:00が来ると終わる。1週間は7日で終わるし、1ヶ月は多くの場合30日か31日で終わる。そして1年は365日で終わり一周する。そうして人は年を取っていくのだ。

中でも1年という時の流れは人間にとって大きなものらしく、年越しを迎えると感慨深い気持ちになったり、新しく生まれ変わろうという気持ちになる人が多い気がする。そして多くの人は「抱負」として新しい1年の決断を言葉にして心に刻もうとする。

しかしその中でも抱負を実現できる人はほんの一握りしかいない。多くの人は年が明けて1週間もすれば日々に忙殺され、新しく生まれ変わったような感覚を忘れてしまう。僕も似たような経験を数えきれないほどしてきたし、ある種しょうがないことだと思う。

この人間の性は愛されるべきものだが、なんとも勿体無いものだとは思わないだろうか。せっかく初日の出と共に胸に抱いたものが、社会に、日々に溶かされてしまうのである。このようなことを考えたときに、僕はそもそも年始に抱負を考えること自体が何か違うのではないかという考えに辿り着いた。

人生の主題を決めろ

冒頭の話に戻ろう。人間は時の流れの始まりと終わりを定義したがるという話だ。1年というのは人間が定義する時間の中でも大きい部類に入るものだ。その上位概念として1世紀などが挙げられるが、これはあまりに大きすぎて多くの人の頭の中にはよぎらない区切りである。しかし1年というのも注目してみれば、小さく感じては来ないだろうか。仮に君が80年生きるとして、80回もこの区切りはやってくる。これは少し多すぎやしないか。

ここで去年の夏になにをしていたか思い出してほしい。君は海に行っただろうか。仮に日々に忙殺されて、キラキラした8月に一度も海に行けなかったとする。その時君が考えるのは、「今年は行けなかったから来年こそは行こう」などといったことではないか。ここが違和感を抱くべきポイントである。つまり君は当たり前に来年の夏が来ると思い込んでいる。その確証は一体どこから来るのか。

来年も夏は来るという感覚は、1年という区切りがいかに小さく、人生の中で幾度と巡るということを表している。つまり今晩眠りにつけば、明日の朝が来るという感覚の延長である。

この感覚の正体さえ理解してしまえば、抱負を忘れてしまう人間がなぜ多いのかというのも分かるだろう。彼らは無意識に来年も年始は来るという感覚を抱いているのだ。この感覚、考えは非常に危ない。

じゃあ今年死ぬかもしれないと考えて日々生きないといけないのか。そんなことは無理に決まっている。現代社会において人々の暮らしは死から遠すぎる。おいおいじゃあどうしろってんだ。

こんなことに考えを巡らした結果、僕は陳腐で基本的な結論に至った。それは人生の主題を決めて日々を生きればいいということだ。年始の抱負を感じるように、人生でなにをするか、それを達成するために折らせてはいけない信念は何か、そういったことを考えながら生きればそれでいいのだ。

僕の場合は、文学的に生きることと決めている。人生の中の分岐点や行動を出来るだけ文学性を意識して選択すれば、いつの間にか見たい景色が見えている。これまでだってその指針のおかげで得れた成功体験もあるし、きっと今後もそうして生きていくのだと思う。ああ、なんて単純で簡単なことか。

こうして生きていれば、来年の夏が来ても楽しめるし、仮に来なくてもそんなに後悔はない。日々生きているだけで抱負的概念を達成できるなんて、こんなに楽なシステムあったのか。もっと早く教えてくれよ。


結びのご挨拶

とまあ少し格好つけてこんなことを書いてみたけれど、僕も新年になると抱負はなんとなく考えてしまいます。ちなみに今年の抱負は、「原点回帰」と「二足走行」です。これもまた人生の主題のための小さな目標のようなものとして機能する予定なので、今回の話との一貫性は取れています。知らんけど。

まあ少なくとも日々に流されて溶かされたくはないですね。これにて新年のご挨拶とさせていただきます。新年明けましておめでとう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?