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いつものとこ

今日は私が出勤する日である。
仕事が終わってから、続きでちょっと遠方に出かける用事があるので、朝のうちに出来るだけ家事を片付けておきたい。
いつもの要領で出勤準備をしながら、掃除、洗濯、と次々と朝の用事をもぐらたたきの如くやっつけていた。
と、そこへ夫がやって来た。今日は在宅勤務である。
「なあ、オレのジョギング用の服一式、どこ?」
のんびりとした口調で訊いてくる。
ジョギング行くのなんて、いつも暗くなってからやん?今日なんて暑いし、日が暮れてからでしょ?それまでには帰るけどな?帰ってからでも間に合うんとちゃうん?なんでわざわざ、このくそ忙しいド最中に訊いてくるのん?何の嫌がらせ?と、怒涛のように沸き起こる想いに蓋をしつつも口には出さず、
「いつものとこ」
無愛想にならないようにそれとなく?気をつけながら、手短かに答える。兎に角今は、時間が惜しい。
「いつものとこってどこ?」
ああもう、口で言うのが面倒になってきた。いつものとこはいつものとこよ!
しかし夫は探そうともせず、突っ立って私のすることを眺めている。そうでしょう、そうでしょう。心の中でだけ、深くため息をつく。
私は黙ったまま、ジョギング用の服が入っているタンスの引き出しを引っ張り出して、そのまま放置した。どや。
「お、ありがとう」
夫は満足そうであるが、私は返事する時間も節約したい。
階段を駆けおりて、洗い物をするためにシンクに向かった。
すると何故か夫、同じ調子でついてくる。
なんだ?分離不安?
お母さんは急いでるの!わかって頂戴。

「今日は忙しいのん?」
相変わらず呑気な口調で訊いてくる。
はい、忙しいですよ。見て分からんかい?
しかし朝っぱらからつっけんどんにするのは、自分も嬉しくない。家庭内の平和を保つのも、主婦の大切な仕事である。そう、どんなに神経を逆撫でされようとも。平常心、平常心。座禅を組んでいるような気持ちになる。
「仕事終わってから出かけるからねえ」
作業の手を休めず、努めて穏やかに答える。
「へえ、どこに?」
昨日の晩言うたやん、という言葉は飲み込む。
平常心、平常心。
「○○」
「何しに?」
それも言うたやん。それにいつも定期的に行ってるやろ。嫁の習慣、いい加減覚ええな。関心なさすぎやで。おっと、穏やかに、穏やかに。
「フットケア。いつものとこ」
「ああ、そうか」
この会話、一昨日から何回目だか。でももういい。とっくに悟りの心境になっている。
いちいち腹を立てるだけ、労力の無駄。何事も諦めが肝心というものだ。
平常心、平常心。

「お昼ごはんは冷蔵庫に入れてあるからね」
在宅勤務の日は昼食の用意は必須であるから、これはしょうがない。
しかしキチンと在りかを告げて出ないと、勝手にとんでもないもの(捨てようと思っていた冷凍食品など)を食べていたりするので、必ず告げて行くことにしている。
「了解。インスタント味噌汁って買ってある?」
夫の昼食のお供であるから、常備している。この前、残り一つになっていたので、気になっているのだろう。ちゃんと買い足しておいたから大丈夫・・・って自分で確認してくれよ。
でも
「うん。水屋のいつものとこ」
笑顔でお返事、忘れません。
「オーケー、ありがとう」
ああ、もう行かなくては間に合わない。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
いつもとは逆に、夫に見送られて家を出る。時間が惜しくても、鍵をかけるのは私。

『いつものとこ』にあるのだから、『どこ?』と訊く前に『いつものとこ』を探してみればいいのに。
妻が忙しそうな理由、そういえば以前聞いてたかな、って思い出す努力をしてみればいいのに。
味噌汁あるかな、って先に棚の『いつものとこ』を見てみればいいのに。
『いつものとこ』って、そんなに分かりづらい場所かしら。少なくとも、夫にとっては今のところ、未知の場所らしい。
私の『いつものとこ』が、夫にとっても『いつものとこ』になるには、まだまだ時間がかかりそうだ。