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なすとニシン

私が小学校三、四年生の頃だったか、父は酷い痔瘻になり、上手な医者を探して母方の祖父母の住む家の近所で手術をした。今はどうだか知らないが、当時痔の手術後は長い間安静にしていなければならなかった。ホテルなどで長期連泊は経済的に大変だし、と母が祖父母に相談したところ、ウチで寝起きしたらいい、と言ってくれて、父は祖父母宅で静養させてもらうことになった。
父は寡黙で賑やかにワイワイ騒ぐといった場が苦手な人で、母方の親戚で集まったりする必要がある時はむっつりと不機嫌そうに黙り込んでいることが多かった。祖父母に対しても、お愛想で少し微笑んだりはするものの、積極的に声を上げて笑うとか、自分から話を振るとかは全くなかった。
だから父が祖父母宅で長期療養生活をする、と聞いた時、私は子供ながら父は本当にそれで良いのかな、祖父母もお父さんに嫌な気持ちにさせられないかな、それで私達までギクシャクするとかないかしら、などとお節介な気を揉んでいた。

母方の祖母は明るく人好きのする人で、交友関係はなかなか広かった。ウチの母などは
「お母ちゃんはあの辺の女ボスや」
と口の悪い事を言ってよく笑っていたが、本当にそんな感じだった。祖母に連れられて歩いていると、近所の人が
「こんにちは」「いつもどうも」「お孫さんですか」
と口々に言いながら沢山寄ってきてくれるので、子供の頃は聊か気恥ずかしかった。お喋り好きの祖母はそういう人を見つけるとパッと立ち止まり、私が居ることなんてそっちのけですぐに長いお喋りを始めてしまう。そういうシーンに遭遇するとあーあ、と溜息が出たものだった。
こんな極めてフレンドリーで社交的な祖母と、真逆の性格の父がひと月近く一緒に居て大丈夫だとは思えなかった。

父の手術は夏休み前だった。何日かして私は妹と一緒に、母に連れられて父を見舞うため祖父母宅へ行った。
父は布団に横になっていた。しかし厳格で無口な父とさほど話すこともない。結局祖父母といつものように楽しいやり取りをしていた。祖父母と囲む夕食のテーブルに父が付いていても、別に嬉しくはない。それどころか、祖父母との食事はいつもなら解放感百パーセントなのに、今日はお父さんがいるから八十パーセントくらいだなあ、と残念に思ったりしていた。
食卓にはなすと身欠きニシンの煮物が出ていた。みんなで声を揃えていただきますを言うと、父は一番にこれに箸を伸ばした。
「Tさん(父の下の名)はこれ、好きなんやねえ」
祖母が嬉しそうに言うと、父は照れたように笑って、
「ウマいんですわ。大好きです」
と美味しそうにほおばった。
「いやあ、ウチで炊く時、そんなに喜ばへんのに」
母が冗談めかしてむくれると、
「お母さん(祖母)のはな、なんか美味しいんや。K子さんのも美味しいんやけどな、お母さんの方がウマい」
と父は笑った。
「私はな、材料ケチらへんさかい。味が濃い目なんやろ」
祖母は笑って言いながら、次々と箸を伸ばす父を嬉しそうに見ていた。
「いやー、憎たらしい!」
母がそう言ったので、私達姉妹も祖父も笑いながら食べた。
父を交えてこんな和やかな食事ができるなんて、思ってもみなかった。意外だったが、とても楽しかった。

「あの子(父のこと)は口が下手なだけで、まっすぐで優しいええ子なんやで。あんたらにきつう叱るのは、あんたらが憎らしいのとは違うんやで」
祖母が私達姉妹に常々言っていた言葉である。
当時は
「そんなこと言うけど、おばあちゃん、お父さんはな、怒ったらホンマに怖いねんで」
と躾にしては厳しすぎる父の行状を訴えていたのだが、祖母はいつもやんわりと父の味方だった。あの激しい折檻の現場を目にしていたとしても、多分祖母は父を責めなかったように思う。『まっすぐな優しいええ子』という祖母の評価は婿に対するお世辞などではなく、きっと本音だったのだと思う。
父もワンオペで忙しい母親に育てられ、食事もたいして手の込んだものは食べた記憶がない、と言っていたから、祖母の手料理が嬉しかったのだと思う。

父曰く
「なすと身欠きニシンの煮物はおばあちゃんのが最高に美味しかった」
そうだ。母はいつも悔しがっている。
私も大好物である。
あの時囲んだ食卓は、私にとって忘れられない、温かい思い出である。