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無明(むみょう)

「もうやめようかと思ってんだよね」
先日の合奏練習の帰りの電車の中で、Oさんがいきなり切り出したので、私は驚いた。
本番まであと1ヶ月を切っている。演奏も段々まとまりを見せてきて、これから面白くなってくる時なのに、一体どうして退団しようなどと言う気になるのか、私には全く理解出来なかった。

「お仕事忙しいんですか?」
と聞いてみた。
Oさんの仕事はサービス業である。合奏練習は大抵土曜か日曜祝日になるが、その度に会社を休むなり早退するなりすることになり、会社に迷惑をかけるのが気詰りだ、とはよく言っていた。
私もパートとはいえ、サービス業に従事する者の端くれであるから、気持ちは良く分かった。
「そうじゃないよ…」
ではなんだろう。見当もつかない。

「みんな上手じゃん…ついていけないわ…」
えっと思った。Oさんはしょんぼりしている。確かにOさんはそんなに上手い方ではないけれど…。
「別に入団テストがあるわけじゃないですし、そんなの気にしなくて良いんじゃないですか?"楽しみ"に来てるんですから。上達しようと努力するのが楽しいんじゃないですか?」
励ますというより、私の本音をそのまま伝えてみた。
だがOさんは浮かぬ顔である。

Oさんは私よりひと月程早く入団している。
最寄り駅が1つ違いなので、帰りはしょっちゅう一緒になる。
この年代の人には気難しい人も多いが、Oさんは話しやすい雰囲気の人で有り難かった。

だが、よく話すようになって気づいた事がある。
Oさんはとても愚痴っぽいのだ。

ウチの団では残念な事だが、合奏練習時に激しく私語をする人間が数名存在する。厳しい指揮者だと、指揮棒が飛んでくる(ここには居ないが、本当にする指揮者も世の中にはいる)レベルである。私だって有難くはない。指揮者の指示が聴こえず困る事もある。

が、ウチにはとてもしっかりした団長が居る。
私はこの人に全幅の信頼を寄せている。本当に細かい所まで気が付き、大所帯をしっかりまとめてくれていて、その上自分をひけらかす事をしない、凄い人である。いつも頭が下がる思いで見ている。
この団長がこれだけの迷惑行為を直接注意しないという事は、そこに何か事情がある、と私は推測している。実際、団長は時折私語している人間の方をしょっちゅうチラチラ見ている。時には口に人差し指を当てて、『静かにね』というゼスチャーを当該人物にみせている事もある。
その事情を知りたいとも思わない。団長のする事を信じるのみであると思っている。

だがOさんは、
「気になってしょうがない。うるさい。なんとかして欲しい」
としょっちゅう愚痴っている。
あまり愚痴るので、
「直接注意なさっても問題ないと思いますよ。気になるならそうされたらどうですか?」
と言ったら黙ってしまった。
自分で注意する勇気はないようである。

音楽全般に言える事だが、吹奏楽を趣味とすると結構お金がかかる。
楽器そのものも高いが、メンテナンス代や消耗品、レッスン代、所属する楽団へ納める団費、練習会場への交通費、コンクールへの参加料、衣装代…諸々が必要になる。
一回当りはしれているが、トータルで見れば馬鹿にならない金額である。

Oさんはこれらの徴収がある度に、
「またお金が要る。高い。どうしてこんなに取るの?」
と嘆く。
「しょうがないですやん、楽しませてもらってるんですし」
というのだが、ずっとブツブツ言っている。

私も含めて、吹奏楽を趣味にしている人は皆、ある程度の出費は覚悟していると思う。お金をケチっていては楽しめないからだ。
無駄遣いは許されないが、『自分への投資』だから全然勿体ないとは思わない。楽団だってギリギリの経費でやっているのはよくわかる。
だがOさんは違うようだ。奥様が厳しいのだろうか。

最近入団してくる若い子達は、皆一様に上手い。
その演奏を聴くのも私は楽しみの一つなのだが、Oさんは、
「また上手い子が入って来たね…僕なんか居場所がないわ」
と自嘲気味に言ってため息をつく。
『下手な自分』に自分で我慢がならないようである。

要するにOさんはここで演奏する事を、心から楽しめていない。
気の毒になる。
もう少し技術レベルの低い楽団に移ろうかと思っている、との事であった。

折角知り合いになったのに残念ではあるけれど、Oさんの為にはそのほうが良いなのかも知れない。
楽しんでなんぼ、の世界なのだから。
でもきっと、
「みんな下手すぎて、合奏が面白くない」
と愚痴を言うんだろうな、と容易に想像出来る。

Oさんがどうするかまだわからない。
けどどっちにしても、ちょっとでも彼の愚痴が減ると彼の為に良いなあ、と思っている。