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便利さと不便さのはざまで ~コンビニと私~

春の近さを感じる。空は晴天で、日差しはとても眩しい。桜が咲き始めているのか、街にはカメラを片手に持つ家族連れが目立つ。マスクをつけた人が目立つこと以外は、毎年の風景と変わらない。


彼らを傍目に、私は近所のコンビニに入る。このお店は、昨年から24時間の営業をやめたらしい。とてもいい試みだと思うので、コンビニで物を買うことがあれば、積極的にこのお店で物を買うことにしている。営業時間を減らしても業績が出るとなると、世間的にも会社的にも営業時間を短縮する良い建前が見つかる。建前という日本文化は難しい。

お店に入ると聴き慣れたいつもの音がなり、「いらっしゃいませ」と声をかけられる。彼らは本当に私を認識しているのかと疑問に思うことがある。時々観察してみると、音と同時に声を出しているだけの店員さんもいて興味深い。ある種条件反射なのかもしれない。


コンビニは、『便利さ』をとことんまで追求していて気持ちがいい。なるべくオリジナリティや個性を排除しているように見える。店員含めたすべてをある程度まで画一化することによって、日々の業務を極限まで効率化している。この観点だけで見れば、かなり製造業に近い。

これだけ画一化されているので、店員さんとの交流を求める気にすらならない。この点は、ファミレスや牛丼チェーンも同じである。ほぼすべての店員さんが同じような振る舞いをしているため、この人に話しかける十分な理由を見つけることができない。語弊を恐れずに言えば、おそらく機械がレジを打っていてもあまり違和感がないように感じることさえある。


多くのお店では、コンビニの入り口にカゴがおいてある。その理由は、カゴを入り口においたときとそうでない時では、客単価に大きな違いがあるかららしい。巷では、買い物カゴ効果なる呼び方があるようだ。確かに、缶コーヒーを1つカゴに入れるだけでは、カゴの余白が気になるし、何より持つ時のバランスが悪いので気分が良くない。少なくとももう1つは何かを入れてバランスを取りたい気持ちになる。無意識に。

そうして私はいつも、2つ以上コンビニで買い物をしてしまうのである。コンビニで、1つだけ物を買うのはとても難しい。強い意志の力が必要だ。

例えば、この時期、温かい缶コーヒーが欲しくなる。素手では熱いので、買い物カゴに入れてしまいたくなる。この時点で、抜け出せない蟻地獄にハマってしまっている。自然と余白を埋めたくなってしまって、パンやおにぎりを追加している自分に気づく。多くの場合、買う予定はなかったのにである。極め付けには、700円くじの登場である。おにぎりの数が増えたり、飲み物の数が増えたり、余計な雑誌を買っていたり。まさに広告と経済の縮図である。


安くて、便利で、身近にある。コンビニはそういう存在である。手軽さ故に、1日に何度も訪れてしまっていることもある。その度に、私は抜け出せない消費の蟻地獄にハマってしまっている。しかも、無意識にである。次第に、カゴの中身の値段を計算することをやめてしまっていたり、食べ過ぎ飲み過ぎで体調に支障をきたしてしまっていたり、生活すべてが画一的で単調な物になってしまっていたりする。

私は本当にこの便利さを求めていたのだろうか。ふとそんなことを考えてしまう。この便利さは、私の幸福度を上げてくれてるのだろうか。面倒をお金で解決しているという大義名分で、思考をやめてしまっているのではないだろうか。

だから私は、コンビニにはなるべく行きたくない。買い物カゴを使うなら、ちゃんと意図的、意識的に利用したい。何が必要で何が必要でないのか、そして、カゴに入ってる物それぞれがどうして必要なのかを考えていたい。少し面倒でも、それが自分にとって大切なことだと思うから。



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