森では孤独、愛があっても孤独

こんにちは。早瀬くもりです。
わたしは1年間休学をして、岩手県のど田舎にプチ移住、シェアハウスで暮らしています。

今回は、愛について考えたことを書いてみます。何回にも分けて考えたことをつなぎます。


「(早瀬くもりって)無償の愛の持ち主やな」

ハウスメイトの一人がそう言いました。
よくこう言って褒めてくれるのです。とても嬉しいのだけど、そうでありたいけれど、本当にそうでしょうか?素直に受け止めていいのでしょうか?

わたしには、一般的に言ったら、"推し" に当たる存在がいます。自分が参加する複数のコミュニティに対して1人以上の割合でいます。
この人なんかいいな〜、ここがいいな、そんなことしてかわいいな、と全ての言動が肯定的に見えます。

わたしはいつも公に周囲の人に、
「○○さん、めっちゃいいですよね!」
と言いまくっていたのですが、今回はそれを知った推し本人から
「ねぇ、こういうの聞いて、どうしたらいいかな」 
と困ったように聞かれてしまいました。


フラれた、、?


自分は、恋愛感情もなくて、人として、存在として好きだと言っていました。下心なし。

どうしたらいいか、その答えは、どうもしないでほしいです。
そのままの感じが好きなのに、わたしのことを意識して、避けられるようになったらたまったもんじゃ無いなぁ。

付き合ってほしい訳とか好きになってほしいというわけでは全く無いのです。

恋とか愛とかって難しい。これは恋でも愛でも無ければなんなのかと自問しました。

恋じゃなくても、ちゃんと好きなのに、その想いを受け取って貰えなかったら悲しい。
一方的に押し付けるのは嫌だし、仮に違う形で返ってきても嫌なのです。

「お前俺のこと好きすぎんだよ」
って笑ってた男友達、居心地良かったな〜。
ほしいリアクションの正解はこれかもな〜。

漠然と、このままだと、一生、まともに恋ができなくて、わたしが誰かを大切に思ったとしても、その人は他の誰かに恋をしていて、恋でも愛でもない謎の想いを向けるわたしには目もくれないのではないか、と思いました。その上困らせてしまったら、いいことなんて一つもない。

無償の愛ってなんだろう。
愛があるように見せて、結局のところわたしは全く愛のない人間じゃないか、とすら思えました。


割といつもそうです。
恋愛感情以外に、なにか別の近しい感情がある気がする。
いろんな人のこと好き。ジャンル違いでみんな好きです。この人は優しいところが好きで、あの人は天才的なツッコミが好き、とかそんな感じ。多くの人を同じくらい好き。女の人に対してもかなり近い感情を抱きます。

好きって言うからよくないのか?
恋ってなんだ?
存在を肯定したい。
君ほんと最高だよ!ってテンション。

めちゃくちゃに盛って博愛主義者?
今さっきググった感じ、結構近いものがあります。今後もっと調べたいです。

だけど今は、
"このままだと、わたしは誰からも愛されなくない??" って現実に打ちのめされているところ。

パートナーいる人が羨ましい。寂しい。
パートナーがほしいけど、恋がしたいという訳でもない。ただお互いに存在肯定し合う間柄ってパートナーって言葉で合っている?


ここまでは、先日、参加しているプログラムの一環で、2泊3日のキャンプに行って、森の中で一人考えたことです。朝ごはん→森→昼ごはん→森→夜ご飯、という生活をしました。
森はすごいっていう浅い感想だけを残しておきます。

話が少し飛びますが、
「飛んで火に入る夏の虫」って言葉。
わたしは、「飛んで火に入る火起こし早瀬」でありたいです。

これはハウスメイトの子たちが、早瀬くもりはそうだよねって話していた、と後から教えてくれたことです。推しの自己肯定感を上げることに徹するってことらしい。

たしかにそう。好きな人たちには、自分自身のことをちゃんと好きでいてほしいから。

わたしの愛が、その人が自分自身をを肯定する理由を後押しできたら本当に嬉しい。
そうしたら、わたしには愛があるって前提も真実になるのではないかと思います。


ここまで読んでくださりありがとうございます。パーソナリティ?セクシュアリティ?よくわかりませんが、現状寂しいって話でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?