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徒然日記2020.08.23

今日は、朝起きてからすぐに出発し、仕事先や向かう。午前の仕事をして、昼はスーパーの弁当。食後のコーヒーはクラフトボスのブラック。今日は外は暑かったがピークは超したように感じた。午後の仕事で、全くの善意で仕事の協力をしてくれた他社の方に感動する。利害関係ではなく、全くの善意で協力してくれたその方にとても心を動かされた。仕事だと、自社の利益が最優先の動きをすることが多いのに、このような善意に出会うと、とてもうれしい。深く感動してしまった。私もこうのようにありたいとも思った。

仕事も終わり、帰宅すると今日も子どもたちは元気である。子どもたちの顔を見るとなぜかホッとして、プライベートモードに切り替わる。夕食は、妻の料理で私が大好きなシャリアピンチキンステーキ。妻が嫁入り前にABCクッキングスタジオで習得したシャリアピンソースは絶妙で旨い!コスパの良いビール、アサヒ・ザ・リッチで流し込んだ。

今日は書見台が届いたので、披露させていただきます。Amazonで1500円ほどで買える書見台ですが、引用したりノートをとったりするときに便利、私はこのnote記事で引用するときに使わせてもらいます。おすすめです。

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さて読書タイムということで、書見台も届き、記事の引用にと、なにか心に残った部分を探しました。私の大好きな河合隼雄先生の著作集から、コンステレーションの章を引用させてもらいます。

ユングの高弟マイヤーは、転移の現象を解明して、それは患者から治療者へと向けられる一方的なものではなく、治療者から患者へも向かう相互的なものであることを強調する。そのことは、患者も治療者もともに、共通の場としての無意識のなかに形成されてくる元型的布置(archetypal constellation)の作用を両者も共に経験してゆくものと考えられる。ここに布置と訳しておいたが、コンステレーションはもともと星座を意味する語であり、何が原因で何が結果と言うのではなく、ともかく、ひとつのまとまった全体的連関ができていることを意味している。つまり、治療者も患者もそこに出来てきたコンステレーションに共にさらされるわけであり、治療者にとってなし得ることは、それをいわゆる「解釈」するとか「操作」すると言うのではなく、「その中に生きる」ことが要請される。パフォーマンスが最も重要なのである。
 簡単な一例をあげる。ある対人恐怖症の青年が、自分が子どもの頃に父親にいかに厳しく、辛く取り扱われたかについて、治療者に訴え続けた。ところが、治療者はどうしても同情する気になれず、むしろ冷然とした気持ちが湧いてきたので、そのような応答を続けた。青年はついに怒りを爆発させ、これほど辛い話をしているのに、治療者がまったく同情をしないのは、治療者としては失格だと烈しい攻撃を加えてきた。治療者は確かに同情すべきかとも思うが、どうしても自分の心には同情心が湧いて来ないし、むしろ、父親に対してとった弱い態度に対する批判の方が強く生じてくることを正直に告げた。青年はますます怒りをつのらせ治療者にどなりかけたが、ややあって冷静にかえり、「目上の男の人に向かって、こんなに攻撃的なことを言ったのは生まれて初めてです」と言った、そして、「自分もこんなに思い切ったことが言えるのですね」と述懐した。ここに来てはじめて、治療者は自分が「冷厳な父」の役を生きさせられていたことに気づき、またそのようにその場で生きることが自分自身にとっても意味をもつことを悟ったのであった。ここがこの治療にとってひとつの転回点となった。

河合隼雄(1994).
河合隼雄著作集第11巻 宗教と科学.179-180.

治療者は知らないうちに、患者の冷厳な父を演じさせられていたことに気づいたという。相互作用によって、あの時父に言えなかった言葉が、患者の父を演じた治療者に言えたことによって治っていく。カウンセリングというと一方的に聞いているだけと思うかも知れないが、このような相互作用によって、治っていくということを気づかされた。深いレベルでの相互のやりとりは大事なのだ。これは、因果律では説明しづらく、偶然そのような気持ちになった治療者が普段なら共感するところを、心の深いところからの気持ちを優先させて冷たい態度をとったことによって、患者は父との関係を擬似的にやり直すことが出来た。因果律と非因果的連関、コンステレーションの神髄をみたような気がする。

今日はビージー・アデールのジャズを聴きながら日記を書いた。書見台は良い仕事をしてくれて、引用するときに大活躍してくれた。今日は、他社の方のとても親切な行為に感動できた良い日だった。私もそのような懐の大きい人になっていきたいと思いながら日記をおわる。



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