早見慎司劇場:2「イラスト」

イラスト  早見慎司

 新刊の見本を著者や関係者に送り、予め著者からもらっていた献本リストの宛先にも本を送ると、今月の新刊の仕事は一段落した。編集部の中に、ほっとした空気が流れていた。
 それまでの苦労があれば、尚更のことだ。私は明日、休みを取ることにしていた。幼稚園が夏休みの息子を遊園地に連れて行く約束をしていたのだ。
 とりあえず、今日も既に仕事はなさそうだ。早めに上がろうと思っていると、さっきからひとりだけ何とも言えない表情で電話を受けていた新人の平井が、受話器を置いてこちらへやってきた。困惑しているようでもあり、迷惑しているようでもあった。
「編集長……」
「うん?」
「あの……今月の新刊のことなんですけど」
「何かあったのか」
「遠海先生のやつで、トラブったんです」
「じゃあ、お前が解決してみろ」
 私はあっさりと応えた。遠海浩一は、去年、デビュー二十五周年を迎えて、中堅からベテランになろうとしている小説家だが、手堅い実績もあり、人当たりもとてもよく、新人編集者をいたぶったり、無理難題を言い出したりする人ではない。だから平井を担当につけたのだ。トラブルといっても些細なものだろう。
「それが……」
 平井は言いにくそうに、深いため息をついた。
「遠海先生の今月刊、カバーイラストをどうしても替えてくれ、と言うんです」
「何だって?」
 思わず声を荒らげた。カバーはデータを先月、遠海の許に送って了解をとっており、それどころか本人も『気に入った』と言ってくれたものだ。今さら何の不満があるというのか、見当もつかない。
 第一、そのカバーをかけた新刊は、もうとっくに取次に送ってある。これから引き上げて再発注などできるわけがない。そのくらいのことは、遠海も知らないはずがない。
 いくらキャリアと実績があると言っても、どんなわがままでも通じると思っているのだったら、それは傲慢というものだ。
「見本は送ったよな」
「はい。データで送って、文句なし、って」
「ずっと前に、ラフスケッチも送って、オーケーが出たよな」
「そうです」
「じゃあ、何が問題だと言うんだ」
「実物を見たら、とても耐えられない。この本を全部買い取ってもいいから、このイラストだけは勘弁してくれ。そう言い張っています」
 今度は私がため息をつく番だった。遠海浩一の本は堅実に売れており、今度の新刊も千四百円のハードカバーを五千部刷っている。全部で小売価格七百万円だ。失礼かもしれないが、遠海にそんな金が工面できるとは思えない。そもそも、する理由がまるで分からない。
「どうしましょうか、編集長」
 遠海は私がまだ編集長になる前の、デビュー作から育ててきた作家だった。恩着せがましい事を言う気はないが、何度かあったスランプを慰め、長い電話にも付き合い、新刊の発行を遅らせたことだってある。
 こちらも助かっているのだ。特にここ数年は人気が上がってきて、主に繊細な青春小説で幅広い読者に好評だ。彼の本は着実に初版を売り切り、重版したのも一冊や二冊ではない。この返品だらけの昨今では、とても貴重な存在だ。
「分かったよ」
 諦めて、椅子の背に掛けたジャケットに袖を通した。
「一緒に行こう。遠海さんに電話してくれ」
 言うと平井は、ほっとした顔をした。こちらのほうは、まだまだ育てなければならないようだった。
 明日の、息子との約束が守れればいいのだが――私はそんなことを考えていた。

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