冬の星座

 生垣の角を曲がったところで、僕は立ち止まった。
 道の向こうに、それはみごとな、古い洋館が建っていたからだ。
 もともとこのあたりは古い住宅の多い街並みで、通るたびに目をこらしてはいたのだが、今までこんな家があるとは気づかなかった。
 ――僕は三十二才。建物専門のカメラマン、と名乗ってはいるが、まだキャリアも、名前もない。生活のためには、たとえば披露宴の記念写真だって撮る。
 最近、この住宅街を抜けた所に、僕の師匠にあたる人がスタジオを構えたので、手伝いに行ったり、作品を見てもらったりで、何度かこの道を通っていた。この日も、あるアイドル女優の写真集の撮影を手伝った帰り道だった。
 それにしても、何度も通った道なのに、どうして今まで、こんな家があると気づかなかったのだろう。
 足元をかさかさ這う落ち葉に、僕は答を見つけた。
 今までは、植木の繁った葉に隠されて見えなかったのに違いない。
 僕は、カメラを取り出した。
 古い家は、見つけたらすぐに撮るに限る。いつ取り壊されて、マンションやビルになってしまうか知れないからだ。
 ファインダー越しに、家を見る。風が寒くて、ブルゾンの衿に首を埋めていても震えがきそうなので、手ぶれしないように、しっかりと構えた。
 冬の初めの午後。東京の空は色を深くして、暗いほどに青く見える。目をこらせば星が見えるのではないかと思われるほどだ。
 その下で、洋館は、明るさを誇っていた。
 いわゆるアメリカンスタイルの建築で、下見板――幅の広い横板が下の板に重なるように張られた壁は白いペンキで塗りたてられ、木枠の、大きな窓がいくつも開いている。この開放感がアメリカンスタイルの特徴だ。
 カメラに入れたフィルムはモノクロームだから、空は黒く、家は白く、くっきりと写るだろう。
 いくつか場所を変えて、僕はその外観を撮った。
 全体を撮ったら、次は細部だ。
 古い家は、必ずといっていいほど、おもちゃ箱のように、細かな凝った部分を隠している。
 近づいてみると、窓の一つにかなり古い型のエアコンがはめこんであった。鉄の外枠が今のとは違う、丸みを帯びたデザインで、すきまからラジエータが見える。少し錆びていて、たぶん今は使われていないのだろう。
 道から、三段ほど石段をのぼった上に、建物は建っている。こういった家の常で、玄関のそばにはシュロの樹が植えられ、ドアには小さなひし形の窓があった。
 それらを、僕はだいたい撮り終えた。
 ――あとは、中へ入れてもらえるかどうかだ。
 ドアの横に、丸い、白い呼び鈴があった。押してみると、家の中でブザーの音がした。 少しして、ドアが狭く開いた。ドアチェーンは、最近つけたもののようで、銀色に光っている。
 そのすきまから、少女が顔を見せた。
 十四、五才というところだろうか。ブラウスの上に、目の粗いグレーのセーターを着ている。
「今、誰もいないんです」
 少女はきつい目をしてこちらをにらんだまま、早口に言って、ドアを閉めようとした。「あ、すみません。僕、カメラマンなんですが」
 僕はあわてて言った。
「カメラマン?」
「ええ。建物を撮っているんです。偶然、こちらの前を通ったんですけど、いい家だから、できたら中も写真に撮らせてもらいたいと思って。突然で、何ですが」
 少女の目に、とまどったようなものが見えた。
 僕は、押しにかかった。
「ただ古いだけだと思っているかもしれないけど、こういう家って貴重なんですよ。だから、撮ってみたいんです。お家の方に、そうおっしゃってもらえませんか」
「古いだけ、なんてこと、ないよ」
 少女の表情がやわらいだ。
「私もこの家、好きなんだ。――上がってください」
 僕は、ほっとした。
 第一段階は、成功のようだ。

「おじいちゃん、お客さん。この家を写真に撮りたいんだって」
 居間に入ると、少女は声をかけた。
 庭に面したガラス戸のそばで、椅子に腰かけていた老人が、こちらを向いた。品のいい人だった。
「それは、ご奇特なことですな」
 老人は言った。
「まあ、どうぞ」
 刺繍をほどこした布を張ったソファーに、すすめられて僕は座った。
 見回すと、部屋には暖炉があったが、もう使ってはいないのだろう。片隅には、円筒型の石油ストーブがあって、上に乗せたやかんが湯気を上げていた。
「こんな家をお撮りになりたいとは。――建築家のかたですか」
「いえ、写真家です。外から見たお宅がよかったので、中も撮らせていただきたいと思いまして」
「それはそれは――」
 老人は、柔らかい表情でうなずいた。
「何か、いわれのある家なんですか」
「私もよくは知らんのですよ。戦前に貿易の仕事をしておりまして、その縁で、帰国するオランダの商人から、ここを譲り受けたのです。幸いなことに、空襲でも焼け残りましてね」
 それはよかった、と僕は心から思った。都心にこういう家が残っているのは、うれしいことだ。
「お手入れがたいへんでしょう」
「ええ。庭などは人を入れて、やってはおりますが、住んでいるのが私ひとりなものですから。息子たちは、こんな家は早く売って、老人ホームにでも行けというのですよ」
「絶対、だまされちゃだめだよ」
 紅茶を運んできた少女が、きっぱりと言った。
「あの人たち、金がほしいだけなんだ。こんなにいい家、手放すことなんかないよ」
「自分の親を、そう呼ぶのはやめなさい」
 老人は、おだやかにたしなめた。
「お孫さんですか」
 少女がうなずいた。
「私があとを継いで、ここを守るんだ。いろいろ、おじいちゃんから聞いてるから。庭の手入れの仕方とか」
「この子は、こうやって、なついてくれます。私にも、この家にも。しかし……」
 老人の顔は、心なしか、くもっているようだった。
「来て。部屋を案内するから」
 少女が席を立ったので、僕は老人に一礼して、後を追った。

 少女は次々に、ドアを開けて見せてくれた。広い寝室、板張りの客間、みんな磨き上げられている。
 僕は、高い天井や部屋の隅、窓枠などを観察しては、撮っていった。それぞれに、簡素だが工夫のこらされたデザインだ。
 どこにも人の匂いはしなかったが、家そのものが持つ暖かさを感じた。古い家が持つ、時の柔らかな、たゆたいとでもいうものを。
「全部、君が掃除してるの?」
「うん、毎日ね。だからいつ来てもいいよ。私も、おじいちゃんも暇だから」
「君、親御さんとは?」
「あの人たちとは、趣味が合わないから」
 少女はあっさりと答えた。
「私の部屋も見る?」
「――ああ」
 うなずくと、少女は楽しそうに、二階から続く細い階段を上って行った。
「あ、ちょっと待って」
 僕は、階段の手すり――みがき上げられた木にほどこされた彫刻を撮った。

 少女の部屋は、小さなドアのついた、屋根裏べやだった。
「ここが、私の部屋」
 思ったより広かった。六畳ぐらいもあるだろうか。
 しっくいの白い壁に囲まれ、シングルのベッドと机の他には何にもない。けれどもがらんとはしておらず、暖かみのある部屋だった。
「天窓があるね」
 僕は見上げた。
 正方形のガラスに切り取られた、どこまでも青い空へ続く、窓。天への道が見えるようだ。
「本があんまりないけど、勉強はしないのかい?」
「うん。学校、行ってないから」
「ああ、登校拒否か」
「ちがう。家出してるんだ」
 どこが違うのか、僕にはよく分からなかったが、少女の内では、はっきりと区別がついているようだった。
 僕は机に近づいた。木製のライティングデスクで、柱にねじで止めてある。アメリカの映画によく出てくるような、壁机だ。
 机には、黒いビロードの布が広げてあった。布の上に、青いビー玉が何十個か散らばっていた。
「これは、何?」
「パズル。死んだおばあちゃんが、昔やってたんだ。この部屋は、おばあちゃんの部屋だったんだよ」
「このビー玉を、どうするんだい?」
「いちばんきれいに並べるんだって」
 そんなこと……。
 僕は首をかしげた。
「どれがいちばんきれいなのか、なんて、分からないじゃないか」
「うん。だから考えてる。一日じゅう」
 一日じゅう――か。
 学校へも行かず、親の元を飛び出して、古い家の屋根裏にこもって、ずっとパズルを解いている少女。
 たぶん彼女は、自分が孤独だとは思っていないのだろう。この部屋の落ちついたふんいきから、僕はそう思った。
 それに、まだ本当の孤独を知る年頃ではないのかもしれない。
「淋しくないかい?」
 僕はきいてみた。
 少女は首を振った。
「全然。私はこの家も、おじいさんも、大好きなんだから。ここは、私にも居心地がいい場所だけど、それだけじゃなくて、もっと大切なものがいっぱい詰まっている所なんだ。でも、親に言っても分かんない。だから家出してやったんだ。親は、登校拒否だと思ってるけど、自分ではちゃんと理由があるんだ」
「なるほどね」
 僕は納得した。
 説教などする気はない。それぞれの年代の、それぞれの人には、みんな違う理由があるのだから、僕が口を出すことではなかった。
 それに、家を愛する少女の気持ちも分かった。僕も、こういう家は好きだから。
「写真、撮らないの?」
 言われて、僕はカメラを構えた。
 手前に机を入れて、天窓からの光がビー玉を輝かせるように構図を決めた。こういう小道具を使うのが、僕は好きなのだ。
「あ、悪いけど、どいてくれる」
 ファインダーの中に少女が見えるので、僕は言った。建物の写真には、人を入れないのだ。
 少女は僕の脇に来て、じっとようすを見ていた。
「面白いね。人は、いらないんだね」
「うん。それでも、伝わるものなんだよ。ここに住んでいる人たちの心はね」
「ふうん……」
 少女は、興味を持ったようだった。

 帰る途中、僕は思いついて、手芸店へ寄った。
 黒いビロードの布はなかった。フェルト地ならあるというので、それを買った。
(あとはビー玉か……)
 むかしはどこの街にも駄菓子屋があって、網に入ったビー玉を売っていたが、どこにそんなものがあるのか思いつかない。
 とりあえず、おもちゃ屋へ行ってみた。
「ビー玉ですか……」
「ええ、できれば青いのがいいんですが」
「うちでは置いてませんねえ」
 店員はすまなそうに答えた。
「ビー玉なら――」
 奥のほうで、やや年輩の店員が言った。
「金魚を売ってる所にありますよ」
「金魚?」
「水槽の底に、石の代わりに敷くんです」
 それは知らなかった。
 駅前の熱帯魚の店で、僕は青いビー玉を両手にいっぱい買った。
 家へ帰って、机の上を片づけ、布を広げた。
 そこへ、青い、透き通ったビー玉を置く。
 どう並べようか――。
 まず、升目の頂点になるように、きちんと置いてみた。これはあんまり、おもしろくない。
 次には、ばらっと布の上に散らしてみた。こっちのほうが自然だが、きれい、というわけでもない。
 そもそも、きれい、とはどういうことだろう――。
 しだいに、僕はこのふしぎな一人遊びに熱中していった。

 一回きりでは撮りきれなかったので、僕は何度か、あの家を訪れた。
 細かく見ていくたびに、家は、新しい、面白い部分を見せてくれた。僕は、たくさんの写真を撮った。
 そのたびに老人の思い出話を聞き、少女の入れてくれる紅茶を飲むのが、いつか、楽しみになっていた。
 ある日――。
 ふと、今日はクリスマスだと思いついた。
 あの屋敷でも、老人と少女が、ふたりだけでクリスマスを迎えているのだろう。
 僕は酒屋でシャンペンとサイダー――シャンペンのまねをしたやつだ――を仕入れ、花屋でバラの花束を買った。
 屋敷の玄関でブザーを押したが、返事はなかった。
 だが、居間の窓には明かりが見える。
 メリークリスマス! と叫びたいところだったが、
そこまで陽気にはなれなかったので、静かにブザーを押した。
 返事はない。
 ノブを回してみると、ドアチェーンもかかっていなくて、ドアが開いたので、僕は居間へ入っていった。
 居間のテーブルには何もなく、ただ、老人と少女が向かい合っていた。
 ――緊張した空気が流れている。
「……どうかしたの?」
「おじいさん……この家、売っちゃうんだって」
 少女は、かすれた声で言った。
「そんな……どうしてです?」
「もう、決めたことです」
 老人は、静かに言った。
 少女の目が赤くなった。
 と思うと、ぱっと部屋を出て行った。
「どうしたっていうんです?」
 僕はきいた。
「これが、わしがあの子にしてやれる、ただ一つの贈り物だったのです」
「家を売った代金ですか?」
 老人は、ゆっくりと首を横に振った。
「私が守ってきたものは、家ではない。ここにしみついた思い出なんですよ。それに支えられなければ、わしは生きていけない。けれど、あの子はまだ、若い。いつまでもこんな所にひきこもっていてはいかんのです」
 ――そういう意味か。
「すみませんが、あの子を止めてくれませんか。どこへも行けるはずがないのですから」
 老人に言われて、僕はうなずき、外へ出た。

 よく晴れた夜空は、きりりと冷たかった。
 僕は、すぐに少女を見つけた。
 少女は、身を堅くして、つかつかと歩いていた。
 僕は早足で追いかけて、肩に手をかけた。
 振り向いた少女は、赤い目のままだった。
「どこへ行くんだい?」
「あたしの勝手でしょう」
「そうはいかないよ」
 僕は、マフラーを彼女の首にかけた。
「こんなに寒いのに、ほうってはおけないさ。よかったら、僕の家においで。他に行くところもないだろう」
 少女は、わずかにうなずいたようだった。

 地下鉄に乗り、僕のマンションについた。
「そこのベッドに寝るといい。僕は向こうで寝るよ」
 明かりを落としながら、僕は言った。
 見ると、少女は、ベッドに寝そべって、壁に貼られた写真を眺めていた。僕のコレクションだ。
「……家の写真が、いっぱいあるね」
「みんな、僕が撮った。僕の好きな建物さ」
「なくなった家もある?」
「ほとんど、今はないものばかりだよ」
 僕は答えた。
「がんじょうに見えても、建物っていうのはけっこう、はかないものなんだ。せっかく造っても、人のつごうですぐに壊してしまうこともあるからね」
「そう……」
 少女は、ため息をついた。
「……あたし、これからどこへ行ったらいいんだろう。あの家は、もうなくなっちゃうし、親の所には帰れないし」
「どこかに、君のいる場所はあるさ」
「ここへ、置いてくれない?」
 少女は真剣なまなざしで言った。
「あたし、写真の勉強するよ。おじさんの助手になって、建物を見て歩くんだ」
「だめだ」
 僕は首を振った。
「確かに今、君はそう思っているかもしれない。でも、あしたはどうだろう。一年先、五年先は? 自分が何になれるのか、今の君にはまだ分からない。ただ、いちばん楽な方法を思いついたというだけだよ。親とも戦わず、世間ともぶつからずに生きていけそうな方法をね」
 部屋が暗いので、少女の表情は分からなかったが、僕のことばを一心にきいているようだった。
「もし本当になりたいんだったら、その気持ちをずっと持ち続けていることだ。そうすれば、いつかは君なりの道を通って、ここへ来られるだろう。そうしたら、僕は歓迎するよ。でも、今はだめだ」
「……説教なんか、聞きたくない……」
 彼女はつぶやいた。
 けれど、その声には力がなかった。
「君はついてるよ」
 僕は、つとめて明るく言った。
「だって、今日ひと晩、眠らなくてもいいんだろう? 学校へだって行かないんだし、考える時間は、たっぷりあるっていうことさ。考えてごらん、気のすむまで」
 少女は、しばらく黙っていた。
 ――やがて、言った。
「そばに来てくれない? なんだか、とっても、淋しいよ」
 気持ちは、よく分かった。
 彼女は今、ほんとうにひとりぼっちなのだ。
 けれど、僕は答えた。
「その淋しさも、君のものだよ。君はその気持ちを抱いて、生きていかなくちゃいけない。自分の中に淋しさを持っていないと、もっと淋しくなったときに耐えられないからね。みんな、淋しいんだよ。だから言葉を作り、街を作る。寄り集まって、一緒にいようとして、それでも、ひとりひとりは淋しいんだ。そのことも、君は知らなくちゃいけないんだ」
「うん……だけど……」
 つぶやいたきり、少女の声はとだえた。
 僕は、どうも眠れなくなった。
 冷蔵庫から缶ビールを出し、ベランダのそばの椅子に深くもたれて、飲み始めた。
 僕は他人のプライベートに関わらないことにしている。こんな形で、人とかかわりあうのは、僕の主義に反している。
 それでも彼女らの生活に入りこんでしまったのは、なぜだろう。
 あの家には、何か、誰もがほしがる、人を引きつけるものがある。たとえば、そう……落ちついた孤独とでもいったものが。
 少女は、それが気に入っていたのだろう。
 二本めのビールを取りに行くとき、少女のようすをのぞいた。
 胎児のように体を縮めて、眠りこんでいる。
 まるで無防備な、寝顔だった。
 今、彼女は生まれ落ちようとしているのだ。自分を守ってくれたあの家を出て、世界という孤独の中へ。
 かわいそうな気はしたが、どうしようもない。
 人はみんな、そうやって生きていくのだから。
 ――僕は、椅子で眠りこんでしまったらしい。
 翌朝、目をさましたときには、少女はもういなかった。

 やがて大晦日が来て、年が代わった。
 正月になると、東京からは人がいなくなってしまうような気がする。
 僕は近所のスーパーで材料を買ってきて、ひとりで雑煮を作った。ほんとうは、昆布巻きもほしかったのだけれど、高くて手が出なかった。
 大きななべにいっぱいの汁ができた。これで何日かはもつ。
 ひとりきりの正月だと、毎日毎日、雑煮を食べても気にならない。僕は、食べ物にはうるさくないほうだ。
 TVは、にぎやかなお笑い番組ばかりで、あまり見たい気がしない。
 元旦の夜も、僕はTVを止め、CDで、静かな曲をかけてみた。
『亡き王女のためのパヴァーヌ』。
 音楽のせいで、より世界が静かになったような気がした。
 ベランダに出て、星空を眺めた。
 人や車がいないぶん、街の空気が澄んで、星が増えたような気がする。
 あそこにきらめいているのはオリオン座――。
「……あっ」
 僕は百科辞典をとり出して、冬の星座のページを見た。
 そして、その通りに、ビー玉を並べてみた。
 ――これが、答えだ。
 そこには、美しい配列の、光の珠のつらなりがあった。
 僕はアドレス帳をめくって、天体写真をやっている知り合いに電話した。
「――です。夜中にすみません」
「ああ……お久しぶりですね」
 それほどの仲でもないのだが、親しげな声で、知り合いは答えてくれた。
 受話器の向こうは、しんとしている。
「今、何かお忙しいですか?」
「いいえ。これから、正月の空でも撮ろうと思いましてね。撮り初めですよ」
 相手は、笑いのこもった声で答えた。
 僕は、一、二度行ったことのある、その人の家を思いだした。
 彼は星の写真が撮りたいばっかりに、東京での勤めを辞めて、山の中に引っ越し、ドームのある家を作ったのだ。
 その小さなドームには、彼が集めた月球儀や惑星の模型も飾ってあって、おもしろくて、僕は家の写真を撮りに行ったのだった。
「教えてほしいことがあるんです。星の写真が撮りたいんですけれど」
「どういう写真ですか? 星を単体できちんと撮るには赤道儀というものが必要なんですが。星を追いかける装置ですね」
「いいえ。ただ、全天の写真を、はっきり分かるように撮れればいいんです」
「それなら、フィルムはね――」
 知り合いは、使うフィルムの種類や、シャッターの速度などを、ていねいに教えてくれた。
「でも、東京で、星がそんなに見えますか?」
「正月ですから」
「ああ――そうですねえ」
 知り合いは、なつかしそうな、けれど決して淋しくはない声を発した。
 彼もまた、いろんな道を通った末、暖かな、自分だけの孤独の中にいるのだった。

 星空の写真を、僕は少女に送った。
『これが、僕の見つけた答です』と手紙を添えて。
 数日たって、返事が届いた。

 ――答を見つけてくれて、ありがとう。
 私は家へ帰りました。でも、まだ両親とは、口をききません。本人たちが悪いわけじゃないかもしれないけど、やっぱり、気に入らないんです。それを、どう伝えたらいいか、分からなくて。
 それでも、おじいさんのしたことは、まちがっていないような気がしてきました。
 ビー玉のパズルは、本当は、答のないパズルなんだと思います。きっと、自分でいちばんいいと思うように並べられれば、それが答になるんだと――。おばあさんは、そう言いたかったのでしょう。
 おじいさんも、ただ、古いものを守っていくだけで一生を終えてはいけない、そう気づいたんだと思います。それがおじいさんにとって、いちばんいいと思うことなら、私が口を出すことじゃないんだろう、って。
 でも、ちょっと淋しいです。あの屋根裏部屋がなくなってしまうのは。あそこが私にとって、この世でいちばん落ちつける場所でした。
 いつか、きっとまた、あんな部屋に住みたい――今は、そう思います。
 
 手紙を読み終わった僕は、すこし、後悔していた。
 つまるところ、僕は彼女をうまく言いくるめただけなんだ。
 今の日本、特に東京で、あんなすてきな部屋に彼女がもう一度住むチャンスなんか、たぶんないだろう。
 彼女は、あの部屋に住むのにふさわしい人間だったし、あの部屋こそ、彼女のための部屋だった。
 それをなくしてしまうのは、悲しいことだ。
 けれど、それもしかたのないことなのだろう。
 移り変わらないものは、何ひとつない。
 そして、なくなってしまっても、彼女はきっと、いろんな瞬間、特に淋しいときには、あの部屋を思い出すだろう。
 その思いこそが、何よりも鮮やかに、あの部屋をよみがえらせてくれるのだ。僕のへたくそな写真なんかより、ずっと美しく――。

 僕は、彼女からの手紙を、ボール紙の小さな箱にほうりこんだ。
 ビー玉を並べた星図は、まだ机の上にある。
 黒い布に、青いビー玉。
 ――暗い夜空に、輝く星々。
 僕はマンションのバルコニーに出て、空を見上げた。
 今の都心では、地上の明かりが空に映えて、二等星ぐらいまでしか見えないという。
 でも、そのくらいで僕にはじゅうぶんだった。
 星座の形は、だいたい分かったから。
 その夜の星座は、なんだか少し、ゆがんでいるようだった。
 僕が、ビー玉を置きまちがえたのかもしれない。


解題:

 冬の話ですが、ちょっと温かくしようと思いました。舞台は目黒なのですが、実は家(小平)の側にある建物で、編集のNさんが、それらしい所を見つけて下さいました。

 この女の子がやっているゲームは、長篇「夏街道」にも出てくるもので、私のオリジナルです。女の子には、実在のモデルがいますが、あくまでモデルにしただけで、本人には、まったく関係ありません。

 いまはどうなのか知りませんが、当時の小平では、冬になると、けっこう星が見えたものです。そこをMy Home Town と思って、一生住み続けるような気が、当時はしていました。「コサージュ」が休刊して間もなく、私は沖縄に来て、本当に人生が変わりました。いいにつけ、悪いにつけ。




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