【短編小説】もみじに女郎蜘蛛
「じゃあさ、何で好きになる?」
「私は顔かな。同じことでも顔良きゃ許せること多くない?」
「いや、身体でしょ。全体もそうだけど、私は特に指見ちゃうな」
「断然浮気しない人! これ一択でしょ。あとはもうどうでもいいって」
「アキは?」
全員の目がこっちを向いた。なんだかんだ言いつつ感情のベースが一定以上。それを幸せと呼ぶのだろう。
「私は」
ハルさんのアトリエはカビ臭い。天井が低く、その分面積を広げたような空間は、いつだってホコリっぽく、特に冬が近づくと光の加減でそれがキラキラする。同じキラキラと表現しても感じ方はこんなにも違う。
無造作にたてかけられた、男性であるハルさんより大きなキャンバス。色のついたもの、ついていないもの、最低限の仕分けがされているだけで、扱いとしては雑以外何ものでもない。吐き出すことが目的で、あとはもうどうでもいいのかもしれない。たぶんあの置き方だと下になっているものの左下の角は確実に破損している。
バン、と音がした。
バン、バン、バン。
ハルさんより大きなキャンバス。殴りつけるようにして色が乗っていく。世間一般にいう絵描きとは、得てしてこのようなことをしているのだろうか。自分はこの人しか知らないから分からない。
ハルさんに初めて会ったのは、絵、小説、詩、その他芸術を通して同じ冊子に掲載された人達の懇親会でだった。人懐っこい、育ちの良いゴールデンレトリバーのようなハルさんは、自己主張の強い面々の話をひたすらうんうん言いながら聞いていた。
だから4人席に分かれて作品のコンセプトについての話になった時、初めて相槌以外の声を聞いた。
「それは……過保護かなあ」
落ち着いた声は数あるノイズの中、特別な抜け道を通じて届くようだった。
「作品とその人自身は関係ない。見る側にとって関係ない以上、どんな表現だって自由なんだよ。僕は病み作家と言われるけど、それだって僕には関係ないことだ」
人懐っこい、育ちの良いゴールデンレトリバー。ハルさんの作品は自分の血を使ってできていた。
タイトル「桜」。その花びらは、指紋は、一度見たら忘れることができない。今目の前にいるハルさんと「桜」は発表された段階で切り離される。ハルさんが作ったというのは二の次で、「何コレ、誰が作ったの?」で初めてハルさんという存在が現れる。そこに関連作品が表示される。
「アキサンは自分と作品の間に線を引けてない。だから見られ方にこだわる。そこは本来立ち入ってはいけない領域だ」
「桜」を見た時感じた恐怖、引いた感情はたぶん動物的本能として正しい。けれどそこだけに目が行ってしまいがちなその絵の何よりの魅力は、バランス感覚の良さだった。
例えば構図。当たり前だが目印なんてない。真っ白なキャンバスを前にした時、どこから描き始めて、どうバランスをとるのか。その感性は何度も何度も繰り返さないと身につかない。例えば色。どっしりとした幹の部分は絵の具の濃淡で描かれており、花びらの邪魔にも完全な背景にもならない。同じ濃度にするということがどれほど繊細な作業か。しかも材質の違う相手と。
人当たりのよく、誰からも好かれそうなハルさん。病み作家としか見られない、それは圧倒的な理解力不足。それは決して裁かれることのない受け手側の罪。ハルさんは、だから作品と自分を切り離すしかなかったのだとしたら。
「桜」の幹を褒めた時、だからハルさんは柔和な空気を消した。代わりに浮上したのは警戒、猜疑、不審。毒味のようでいて、逆に疑いさえ晴れれば丸呑みにしかねない形相に、嫌に緊張したのを覚えている。
バン、バン、と鳴り響いていた音がやむ。
11月になっても半袖。なで肩のハルさんは首から肩にかけてのラインが妙に女性的だ。けれどもついている肉は筋肉質で、そのギャップが気持ち悪い。違和感。何度見ても見慣れない。浮き出ていた肩甲骨がおとなしくなる。
「アキ」
ドアに手をかけたまま動きを止める。胸ぐらを掴むような口調に、自然身体が強張る。ハルさんは相手を敬う人だ。人懐っこい、育ちの良いゴールデンレトリバーのような。だから強制なんてしない。
あの日、ハルさんに初めて会った時、帰りにハルさんは女郎蜘蛛の話をした。
夏から秋にかけて大きく巣を張る、雌の大きな個体で、自分より大きな生き物も巣にかかったら食べてしまう。人が与えれば切り身の魚だって食べる生態は、けれど獰猛で、特に交尾などは雌が食事をしている間でないとできない。そうでないと雄が食べられてしまう、と。そうしてハルさんは「分かる気はするよねー」と言った。
「だって自分より大きな生き物を食べるのが日常でしょ? なのに自分より小さな生き物相手なんて、同じエネルギーぶつけらんないでしょ。その帳尻を合わせるための行動、端的に言ってムカついてんだよね」
自分にはハルさんの言っていることが分からなかった。
「だったら片手間でよくない? 相手もそれで満足するなら。目的が達成できるならそれで」
だから「そう思わない?」と言われても曖昧に頷くしかなかった。ハルさんは満足げに笑った。
「アキ」
さっきより大きな声だった。反射的に振り返る。しまった、と思った時にはもう遅かった。ハルさんは細筆に持ち変えると、最後の作業にかかった。
息を詰める。その背中。自分は今、見てはいけないものを見ようとしていると自覚した。
〈アキは?〉
全員の目がこっちを向いたあの時。何だかんだ言いつつ感情のベースが一定以上。それを幸せと呼ぶのだろうと思ったあの時答えた。
〈私は、字のキレイな人が好き〉
昔からそうだった。その人への興味ある無し以上に、その人の生み出すものに惹かれた。だから本当は絵もそうだったのかもしれない。「桜」を見た段階でここに来ることが分かっていたのかもしれない。
ハルさんが筆を置いて振り返る。その頬に絵の具か、それとも自身の血か、何か分からないものがついている。全てを出し切った顔で、人懐っこさの微塵も感じられない表情で、その口だけが動く。
「もみじ」
分かったよ、ハルさん。
言われる前から分かってた。使っているのは「桜」と同じなのに、ちゃんともみじに見える。
「……どうして角度を変えたんですか?」
絶対に「そっち」を見ないようにしながら口にする。前の「桜」と並べて出せば、対比にため息が漏れただろう。けれどあえてそれを選ばなかった。もみじは下から上を見上げる構図だった。ハルさんは少しだけ照れくさそうに笑った。
「欲が出た」
幹と色合いのバランス。主役であるはずの葉の割合が異なる。本当の自分。本来作品と作者は人目に触れた瞬間切り離されるもの。いや、病み作家というのがそもそも間違った認識だったのかもしれない。アイデンティティ。本当は描きたいものがあった。けれどまず目に留まることを優先させていたとしたら。そうして本当の自分をさらけ出す機会を伺っていたとしたら。
床の擦れる音がした。ハルさんが一歩近づくたびに作品とハルさんの距離が遠のく。二つが分離していく。女郎蜘蛛の話をした、その時の表情を思い出す。ハルさんは
「……面白いね、何ソレ」
「何ソレって……何をもって面白いと言った」
「雰囲気」
「言葉に責任を持てい」
「いや、あるじゃんなんか面白そうって。言葉の断片っつーか」
「でもそれ、俺のことだとしたら今ちょっと扱い雑じゃね?」
「自惚れんなよセントバーナード」
「忠実ですよ。あれですか? 釣った魚には餌をやらない的な」
「釣った魚は切って女郎蜘蛛にやるわ」
「お腹空いてるのがここにいるのに?」
「いやあ、あの時サインさえ上手かったらな。残念だったな」