見出し画像

【2、綺麗の正体を知りたい者】独り言多めの読書感想文(京極夏彦さん『書楼弔堂 待宵』幽冥)



「愛」を「執着」と表現したのは同作者だった。ひどくうれしくなったのは、思いの正体を言い当てられたため。「寂しさ」を「本来あるはずのものがない物悲しさ」と聞いた時と似た感覚がした。
 日本語、と括っても方言や言い回しがあるように、言葉は万能ではない。それは「共感」の上限、限界にも思える。「好き」と言ったところで、相手が自分に向ける思いと自分が相手に向ける思いは決して同じではない。けれど言葉は思いを残す。「その時」と今を繋げる足がかり。足元に続く灯り。だから安心して前を向ける。



〈僕は綺麗なものが好きなんです〉



 父の〈虚業ではなく実業を求める〉期待に応えるために実業学校に通う学生は、父親が暮らしていくために夢を諦めたのではないかと思っていた。一方で、学校に入りはしたものの、自ら望んだことでないため、どうにもやる気が起きずにいた。この迷える学生を仮にBとする。

〈僕は、汚く見えるもの、いや、汚い物を綺麗に観たいし、綺麗に表現出来ると思う〉
〈枯れた花だって枯れたなりの綺麗さがあるし、綺麗に表すことが出来るんじゃないかと〉

 芸術に強い興味があるものの、元々父親自身〈実業に関係ない、綺麗なもの、面白いもの、そういうものを好む性質〉であり、例えばそれが遺伝であったとして、自分だけが好きなことに向かうのは、父に申し訳なく感じていた。



 人には心がある。心という表現自体が抽象的な訳だが、とにかく「その向き一つで大概の問題は解決し得るような力を秘めた何か」が、一個体一つ、律儀に搭載されている。しかしこの心とやら、向かいたい方向と現実が別の方向(多くが逆)を向いた時、一時的に足を止める。本人形だけ動いていても、その生産性は失われる。
 あるいは遠くに見える心地よさがために一時我慢出来たとしても、基本的に人は己の心地よさに敏感であり、それを害するものを許容し続けることは出来ない。その向きが個人によってさまざまで、だから「社会」は結果的に成り立っているに過ぎず、だから個人的に本来我慢は不要だと思っている。
 凸凹。「ああ、この人はこういう人なんだ」と思えば、周りが少しだけ歩調を合わせる。一方で歩調を合わせた側の人が、今度は別のところで歩調を合わせてもらう。そうして何となく「歩調を合わせられるくらいには近しい人達」の中で社会が形成される。話を戻す。

 何が言いたいかというと、大事なのは「自分はこういう人間です」という正しい表現の仕方、正しい社会からの認識のされ方であって、下手に我慢して「この人はこういう人なんだ」と間違ったチュートリアルを踏んでしまうと、後々その社会全体を歪める可能性があるということ。それは「私も我慢したんだからあなたも我慢してよね」という謎のストレスを常態化しかねない。だから社会のためにも我慢はしない方がいい。むしろしないで欲しい。さて。


 Bは一枚のチラシを通じて絵の上手い下手の差、芸術とは何かという疑問を抱く。疑問を抱くというのはベクトルの一つのヒント。興味がなければ、続く探究は発生しない。
 そうして、能く描けている絵は、動作を表すこと以上に、音や匂い、温度までも感じさせることが出来るとして〈僕はそう云う絵が描きたい〉と口にする。同時に、小学校の先生は植物や静物、風景などを写生するようアドバイスをしてくれたが、その際Bは「自身が馬の形が描きたかったのではなく、馬の綺麗さが描きたかった」と気づいたという。
 向かいたい方向を知る。それは「正しく自分の輪郭を認識する」ことから始まる。Bは自分の心のあり方を分かっていなかった。だからチラシ貼りのバイトの傍ら、壁に貼られた一枚のチラシを前に「足を止め」ていた。目的地はたぶんあの辺にあると、分かっていながら進めずにいた。欲したのは「足がかり」。現在地となりたい自分、その点と点を結ぶもの。丁度、ヘンゼルとグレーテルの目印のような。

 その点、この博識な店主は最適任というか何というか、本当に上手い。
 包容力という言葉がある。正しいことを示すことは出来ても、この店主は「能動を引き出す」自らの足でそっちに向かって走り出させる。同じものでも、人は与えられたものより自ら掴み取ったものに価値を感じる。だから、化ける。好きこそものの上手なれ。その「好き」が本物であるかどうかは、いずれ何かしらの形になって現れる。世間一般と差のある思いなら、埋もれたままでいられるはずがない。だからプロという言葉があるのだ。

〈ものの形を知り、色を知り、構造を知り、光を知り影を知るには、先ずは「観る」こと。見て、視て、覧て、観るしかない。観たものを絵に描き付ける。その際に技術が必要になる。だから写生が基本〉としながらも、〈一方で現実そのままを丸ごと引き写すことは出来ない。取捨選択が発生する〉と伝える。


〈表現と云うものは普く何かを伝えるためにあるものではないですか〉
〈技術を習得することは大事ですが、それは目的ではないのですよ〉


 一つの景色を前に、あなたの目には何が見えたのか。平面から浮かび上がるもの、それが「その人の取捨選択」。それは絵でも文でも曲でも、どんな形にしても表現出来る。私は文しか書けないからそれを選んでいるが、逆にそれなら限りなく高い再現性を保ったまま残せるとしている。振り返った時、誰より自分がその場面を思い起こせる。その足がかりが、実は日々ここに書き残しているものだったりする。

 Bは店主によって「小学生の頃受けたアドバイス(基礎)+自分の目からこそ見えるもの」が誰もが持つ芸術の種であると理解し、同時に虚業でやっていく道への可能性を見出す。専門の技術や知識がある訳ではなく、あるのは「強い興味」。それでも。

 自分にも出来るかもしれないと思えた。
「そっち」へ向かう道に点いた灯り。ぼんやりとした頼りない道標でも、真っ暗でない限り辿っていける。人は一個体に一つ、律儀に搭載された心を持ち、その心とやらは「その向き一つで大概の問題は解決し得るような力を秘め」ているから。


『書楼弔堂』収録「探書拾陸 幽冥」
 以上が76 Pの短編に対する私なりの「付加価値」


〈表現の道は、ですから幾筋も幾筋もあるので御座いましょうよ〉


「それ」は最終、何の後ろ盾もない者にこそ与えた希望。
 誰もがその名を知るB。その正体は、是非あなた自身の目でお確かめ下さい。











この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?