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終、独り言多めの読書感想文(京極夏彦さん『書楼弔堂待宵』)


〈そうですね。好きだから書く。それが一番正直かもしれんですなあ。書きたいのですよ。で、その時その時で考えなくてはいかんことが変わる。ですからねえ──そうですなあ、私の場合、本は世間に向けた手紙のようなものかもしれない〉
〈手紙は近況だの気持ちだの、考えていることだのを、特定の人に向けて伝えるために書くのでしょう。書簡と云うのは、だから書いた人のその時、そのままのものですよ。私は、それを不特定の人人に向けて書いている〉(『史乗』より)


 私がこうして書く意味なんかあるのかと思う。
 もっと有識者が、もっと専門家が。もっときちんとした考察をすればいい。「あくまで私はそう思った」という言い訳をしなくても、きちんと正面切って話ができる、ああ、そうか、私はそうなりたかったのかもしれない。

「こうして書く意味はあるか」というならまだしも「私が」というのは思い上がりが過ぎる。ただ、そう思った事実だけは残しておこうと思う。受け取られることのない手紙がこの世にあったとして、けれどもそれは「ない」訳ではないのだ。


 本作には同作者の『ヒトごろし』と共通して齋籐一が出てくる。前者で取り上げたままの人物像で、2度楽しめた。作者読みというのはこういう時良かったと思う。
 私自身、趣向はひどく偏っているが、特に変える気は無い。たまに帯に釣られて購入することもあるのだが、失敗するパターンが多すぎる。それらは当然時間をかけてここで取り上げることもない。あくまで私にとってだが、ハズレがないというのは、それだけ安心感がある。

 書きたいから書く。
 どの口が言うという口にも一つの命はあって、それなりの意思がある。
 書く意味なんておこがましかった。ただ書きたいから書く、それに終始する。ましてや誰かの顔色を窺う必要なんてなかった。不快な思いをさせない限り。


 私の今を書き残すこと。
 これもまた日記に過ぎない。この時私はこんなことを考えていた。
 振り返った時それが分かれば。ただ、それだけなら自分の手元に残しておけばいいものを、人様の時間を奪って残そうというのだからとんだ所業。
 こんな手紙誰が読むかと思う。










 誰が読むかと思う。
 でも読まれなければ書かない。
 これはただの「ありがとう」だ。




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