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【3、己が正義に全てを奪われた者】独り言多めの読書感想文(京極夏彦さん『書楼弔堂 待宵』改良)




 全ては結果論。歴史に残るのは勝者の記録だけであり、そこに情は含まれない。そもそも記録とは事実を書き残すことが目的なのだ。8、2でなくとも国が割れた時、生まれる敗者。

 結果が見合えばよかった。けれどそうばかりではない。ただ借財だけが残ることもある。このこと自体、誰が悪い訳でもなく、ただ不運としか言いようがない。
 その人がその時信じたものが、最終的に力を持ち得たか。
 あまた人が集う中、もはや国を分つ世界で、信じるものを選ぶというのは難儀を極める。事実この男は〈そんなに賢くないから、誰かの受け売り〉で〈この国を良くするんだ、正しい世の中を作るんだ〉と思っていた。もはや選択肢というよりは、その人のいた環境の「思い込み」がその背骨を形成していた節が強い。そういう意味では生国によって人生が変わったと言って過言ではない。

 例えば暗殺役についた男は〈俺たちは決して表に出ることはねエんだと。名前も捨てろと云われた。だから捨てた。そうすることがこの国のためになるのだと云われたから〉その結果、名無しのまま女房子の処へは戻れなくなった。
〈日の当たる道を歩くこたア金輪際出来ないと思ったから、必死で働いた。町人も裏切り者も、味方でも斬った。国のためにと思ったから。その挙げ句賊軍になった〉
 代償。払ってきた犠牲、己が正義のために投げ打ってきたもの、やむを得ないとしてきたこと、全てが恨めしそうに振り返る。

 そうして生ける屍と化した男をCとする。Cはこの作品全体を通じて、先導の役目をしてきた。男は『幽冥』冒頭にて〈立ち小便、野糞を禁じる条例だか法律が出来たために、町中の悪臭は減り、小綺麗になった〉〈晒された死骸は、まるで大義が垂れた屎尿のようだった。屎尿のように扱うよりなかった〉と自身を屎尿に例えた。晒された死骸は近藤勇。幕府方として戦った賊軍がイチ。

〈でもな、俺はよ──俺も、この齋藤さんも、堤を壊そうとしていたのじゃねえ。堤を守ろうとして穴ア掘ってたんだよ。結果は正反対、堤は決壊したんだ。決壊して、それで大勢が喜んでらあ〉

 Cにとって瓦解後の日本に「美しい」に属するものが増えるほど、己を否定される気分だった。最低限の身なりのために朝湯に行ったところで〈この手の穢れだけはどれだけ洗っても、何十年経っても消えるものではないのかもしれぬ〉
 始まりはただ「役に立ちたい」だった。丁度チョッパーがヒルルクのために採ってきた毒キノコのような。そんな絶望に店主が声をかける。

〈貴方様達が負けたからこうなったのではなく、貴方様達が抗ったからこそ、今の世の中は出来上がったのだと、私は考えます〉
〈間違っていたと云うなら、双方間違っていたのではないですか〉


 それぞれに義があったとして、けれどもその手法は共に間違っていた。人殺しだけはしてはならなかったと、仏者としての意見を述べた。元よりCが求めたのは自己肯定ではない。安易な同情、慰めじゃない。欲したのは「自分はどこで何を間違えたのか」ただその答え。そうして「それ」は赦しだった。
 間違ったことをしていたことに変わりはない。けれどもそれをいうなら今の明るい世界を作った人間も等しく間違っていた。Cだけが犠牲を払った訳でも、Cの妻子だけが辛い思いをした訳ではない。それぞれの苦労の上にようやく国が潤い始める。C自身も〈蟻の足〉程には役に立っていたのだと思えて、初めて前を向ける気がした。



〈おい弔堂〉



 いつだって誰かをこの場所に導くだけだった。Cはこの時初めて店の主の名を呼んだ。
 初めて頼った。この男なら考えても考えても辿り着けなかった「答え」が分かるかもしれない。そう思えるほどに、それまで見てきたやりとりは、訪れた客の表情は豊かだった。
 Cは『史乗』にて徳富に自分が幕府方だったことを告白し、同時に国賊になって以来〈自分の考えておることに自信がもてないのですわ〉と語っていた。
 頑なに閉じていた蓋。過ちに塗り潰された過去にもあったはずの光。
 店主は夢を見ろと云う。それもまた改良だと。 
 ここに関しては詳しく書くつもりはない。


 人は過ちを犯す。けれど、大事なのはそこに何があったか。
 本人にしか分かり得ないもの。正しいと思ったことがいつだって正しい訳ではない。正義の反対は別の正義とか何とか。

〈僕も正直、難しい運動のことは解りません。でも、戦争は良くないと思うのですよ。僕は世の中を綺麗に観たい。どんなものでも美しく観られると思う。でも、戦争だけは美化してはいけないように感じたものですから〉(『幽冥』より)

 全ては結果論。歴史に残るのは勝者の記録だけであり、そこに情は含まれない。けれども8対2で破れたなら2はあった。その場には確実にいた。生きていれば話もできるが、死ぬことは、殺すということは、その意思まで消すことと同じ。復讐を恐れて「一族郎党皆殺し」は聞く文言。人の心は、けれども動く。自分にとって重きを置くコト、モノ、ヒトが関わった時、怒り、悲しむ。復讐は連鎖する。根は消えない。消したと思うだけで完全に消えやしない。

 今目の前にいる人は生き証人。一定の角度からの個人情報を持ち、「この人はこういう人」と評する。第三者から見えずとも確かにある関係。そこに血のつながりは、名のつく関係性は必要ない。あるのは「よく分かんないけど好き」その人を殺されたとした時、起こる感情が延々と飛び交い、ぐっちゃぐちゃになっていく。大きな話ではない。目の前にいる人を失い合うことの集合体が戦争なのだ。


『書楼弔堂』収録「探書拾捌 改良」
 以上が97 Pの短編に対する私なりの「付加価値」


〈俺がこの手で斬ったんだ〉


 歴史は繰り返す。人は愚かだ。
 けれどもそれが個人の痛みであると、それは戦争などという大それたものではなく、目の前にいる人をただ奪われるかもしれないことと思えたなら。

















 思えたところで何だというのだろう。
 これはただの感想文っぽいもの。だからその先は私の知ったことではない。




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