見出し画像

書くことが変わっても、書きたいことを書き続けたい

私はよく過去の記憶にとらわれる。

最近ちょくちょく「記憶力がいい」と言われるのだけど、その弊害かもしれない。

思い返せば幼い頃から人の名前とかはよく覚えていたし、授業も一度聞いただけである程度頭に入った。だからといって優等生ではなかったけど。

ただ、忘れ物もよくするし、昨日食べたものさえ思い出せないことも多いけど、残るものはとことん残る。人のことを覚えておける容量も多い。

覚えておけることのメリットはいろいろある。

覚えたいと思ったものを覚えておいてすぐ出せること。人と仲良くなる時にも、人に教える時にも役立つ。あと話したり聞いた内容を結構詳細に覚えておけるので、撮影録音禁止のイベントのレポ記事を書くのに役立ったりする。

ただ、いいことばかりでもない。人の記憶だから完璧ではないし思い違いもする。そして、何より覚えておけるということは「忘れにくい」という事でもある。

冒頭に書いた通り、忘れられないものにはいつまでもとらわれる。だから「記憶力がいい」というより「記憶を溜め込みやすい」という方がしっくりくる。

物を溜め込むのは不安が強いかららしいけど、記憶にも同じことが言えるかも。不安だから覚えておきたい、不安だから忘れられない。

感情、言葉、風景、名前、データ。断片的でも明確に刻まれていると、些細なことがトリガーになって記憶が繋がってしまったり、古い記憶に囚われて同じところをずっとグルグルしていたりする。本当にひどい時は生活に支障が出たりもした。

けれど最近は、過去の記憶に囚われることが減った気がする。考えられる理由は色々ある。アクセスバーズのおかげもあるけど、たぶん、一番は、書いたものを公開して読んでもらうこと。

私は書くことで、手放している。

もしくは忘れている。あるいは思い出しても平気なものが増えたと言った方がいいかな。

noteやTwitterが、私の頭の予備ハードディスクみたいになっている。

最近気付いたのだけど、呟いた内容やエッセイとして書いた内容って実はあまり覚えていない。だから多分、そういうことなんだろうなと。

記憶力の話から入ったけど、記憶力の強度にかかわらず、何かを表現している人のほとんどは同じことをしているのかもしれない、とも思った。

表現っていうのは総じて感情や衝動の解放だ。

このことに気づいた時、中学生の頃好きだったCoccoがインタビューで「歌うことはお葬式」と言っていたのを思い出した。当時の私にはその意味がわからなかったけれど、今ならわかる気がする。

歌詞と歌に込められたものは彼女の足枷であると共に、苦楽を共にした感情と記憶たちで、それを歌にすることで弔い、前に進んでいたのだと。

私も書くことで同じことをしているのだと思う。過去の辛かった自分を弔い、解放して、前に進んでいる。上手く解放できない時もあるけれど、だいたいは客観視できるようになる。結局何が言いたかったのか、あとから気付けることもある。

私は書いた内容を忘れてしまう。だから、私の言葉はそこに置かれた時点で足跡で、私はもうそこにはいないかもしれない。けれど記事を書いた瞬間、その言葉に込めた感情は、その時点では本物だ。

だから、中学の頃にCoccoの歌詞に出会ったことで私の世界観が広がったように、noteのいろんな文章に私が支えられたように、私が私の解放のために書いた過去の記事も、誰かにとっての解放のきっかけになるなら、願ってもない。

そして最近は感情の解放も以前に比べたらどんどん進んできた。じゃあ仮にすべて解放できたとしたら、私は書くことをやめてしまうのだろうか。

たぶん、やめないんじゃないかなと思う。放っておいても考えてしまうし、私はそれを言葉にしないと死んでしまう生き物だからだ。

もしかしたら、これまでとは書きたい内容、書く内容が少しずつ変わっていくかもしれない。

それでも「書きたいもの、書かずにいられないものを書く」ということはこれからも変わらないと思うし、そうあり続けたい。

最後までお読みくださりありがとうございます。この記事が気に入ったら♡を押してくださると嬉しいです🙂SNSでのシェア、サポート等もとても励みになります。