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「悩みゴトってのはな、『どうして』じゃなく『どうやって』にすべきだろ」 夏至なのでFateのランサー(クー・フーリン)について語る

今日は夏至。一年で一番長く太陽が空にある日。

そして、『Fate/stay night』『Fate/hollow ataraxia』のランサー、もといクー・フーリンの誕生日(非公式)だ。

Fateシリーズに関しての記事はこれまでいくつか書いたものの、わたしは好きすぎる推しには歯切れが悪くなる傾向がある。そのため、ランサーに関してはなかなか書けずにいた。しかし彼を推して4年半、いいかげん重い腰をあげて、この機会に語ろうと思う。

というわけでよければしばらくの間、ランサーしんどい女オタクの考察とクソデカ感情にお付き合いいただけると嬉しい。

【ネタバレについて】
・『Fate/stay night』アニメ版(DEEN版Fate、UBW、HF1章〜2章)視聴前提で書いています。
・『Fate/hollow ataraxia』は未プレイでも読めるようストーリーの核心に触れるネタバレは極力避けますが、一部シナリオに触れています。
・クー・フーリンの出てくる神話について言及しています。
・あくまでも個人の知識と感情をもとにした解釈であることを前提にお読みください。

タイトルに用いたのは、『Fate/hollow ataraxia(以下HA)』のランサーのセリフの一部。全文は以下。

***

「ま、こうして在るんだから良いじゃねえか。生きてる事を悩んでもしょうがねえだろ。
 汝、あるがままを行えってな。細かいコトはきにするな。悩みゴトってのはな、『どうして』じゃなく『どうやって』にすべきだろ」

***

彼の数あるセリフの中で、一、二を争うレベルで好きなセリフ。このセリフには彼の生き様が詰まっている。そして個人的なことを言えば、わたしが初めてこのセリフを読んだ時とても衝撃を受けその真っ直ぐさに強く強く憧れた。

正直HAが好きすぎて「わたしなんかの言葉より原作を読んでくれ」と言いたくなるのだけど、今回は自分の宝物を腑分けする感覚で、このセリフを皮切りにクー・フーリンというキャラクターについて紐解いていく。

「あるがまま」を行う、迷いのなさ

冒頭のセリフが発せられたのはHAのあるシナリオでのワンシーン。

HAは『Fate/stay night(以下SN)』の半年後の物語。既に聖杯戦争は終わったはずなのに何故かサーヴァントたちが現界している。何者かの手によって聖杯戦争が再開されたらしいのだけど、サーヴァントたちは戦うでもなく、それぞれ気ままに日常を過ごしていた。

サーヴァントが現世に留まるにはマスターが必要だ。けれど彼のマスターである言峰はHAの物語開始時点では既にいない。そのはずなのにどういう訳か契約は続いていて現界している。つまりランサーがここにいるという状況は「ありえない」。そしてその事は彼自身もわかっている。

本来ありえない現象が自分の身に起こっている時、多くの人はその原因を解明しようと動くと思う。それが命をかけるほどの目的のためならなおさら。だというのに、当の本人は気にするそぶりも見せず、それどころか戦いがないからと、商店街や喫茶店でバイトをしたり釣りを楽しんだりと、現代に馴染みすぎるほど馴染み、気楽にやっている。

本来ランサーは好戦的な性格で、戦いそのもののために聖杯戦争に参加するような男だ。そんな彼が戦おうとせず現世の生活に馴染んでいるのは、主人公である衛宮士郎からしたら意外だった。

そして港で釣りを楽しむランサーに、士郎が「この状況を解明しようと思わないのか。気にならないのか」と尋ねたときの返答がこのセリフ。

「ま、こうして在るんだから良いじゃねえか。生きてる事を悩んでもしょうがねえだろ。
 汝、あるがままを行えってな。細かいコトはきにするな。悩みゴトってのはな、『どうして』じゃなく『どうやって』にすべきだろ」

気にしても仕方がないことは気にしない。眼の前にあることをやる。自分は自分でしかないのだから、と。どんな状況にも適応し目の前の事を楽しむ。後ろを振り返らない真っ直ぐさ、迷いのなさ、そして自己同一性。

さっぱりとしていて、細かいことにはこだわらず、基本は状況を楽しみ明るく振る舞う。まさに彼の生き方そのものとも言える。

しかし彼はただ明るく前向きなだけではない。

このセリフのあと、会話の流れでランサーは士郎に「敵でも好きなヤツぁ好きでいいんだよ。敵だから憎まなきゃいけねえ理由なんてないんだから」と言う。

この言葉通り彼は、SNでは気に入ったからと遠坂凛に親しげに話しかけたり、士郎やセイバーをからかったりする。HAでもセイバーやキャスターなどの他のサーヴァントにも、親しげに声をかけたりしている。

そういう態度は一見人なつっこいように見えるけど、それは裏を返せば「相手が肉親だろうが恋人だろうが、敵であれば分け隔てなく殺す」という、戦士としての達観でもある。

普通の人なら、敵に情が移ったら刃が鈍るだろう。けれどランサーは日常を過ごして平和な空気に染まっていたとしても、ひとたび戦いになれば容赦なく相手を手に掛ける事が出来る。それは、SN冒頭で目撃者である士郎を仕留めた時と全く変わっていないということ。彼は、そういうところも含めて「迷いがない」。

こんなふうに書くと、冷酷な人物のように思えるかもしれないけど、そうじゃない。むしろ感情豊かで、日常も戦闘も分け隔てなく楽しもうとする。世話好きでもあり、遊びも冗談も通じる。ただ、主人から与えられた仕事や己の信条のためなら感情を封じる、あるいは切り替える事ができるだけ。ランサーにとって「感情と戦闘は別のところにある」のだ。

非業の運命を最初から受け入れていた

ランサー、真名クー・フーリン。ケルト神話、アルスターサイクルの登場人物。光の神ルグとアルスターの王女デヒテラとの間に生まれた半神半人の英雄。華々しい武勲を上げた最強の戦士であり、非業の英雄でもある。

小さな体に多大な強さを秘めていて、子どもながらに国一番の番犬を素手でたおす。その後も、影の国の女戦士スカサハから様々な技と魔槍を授かり、美しい姫を娶り、多くの勝利と栄光を得た自他ともに認めるアルスター最強の戦士。敵国が攻めてきたとき、一人で国を守るほどの実力者。けれど、最期は敵の罠にはめられ、命を落とす。享年は20代半ばから30歳頃とされる(諸説あり)。

クー・フーリンがまだ戦士見習いの少年だった頃の話。ある日カドバドというドルイドの高僧が、同じく戦士見習いの子どもたちに「武者立ちをするのにいい星回りを占ってほしい」とせがまれていた。武者立ちとは成人の義のことで、これを済ませることで一人前の戦士になれる。クー・フーリンは、カドバドを囲む子どもたちの輪から少し離れてそれを聞いていた。

カドバドは全員は占わず、代わりに今日武者立ちを行った子どもはどんな戦士になるかを占った。その結果は「今日武者立ちを行った者は、このアルスターで最も強く気高き戦士になるだろう。しかし、その命は星の瞬きのように疾く燃え尽きる」というものだった。

それを聞いた子どもたちは怖がって、誰ひとり武者立ちをしようとしなかった。ドルイド僧の言葉というのは強い影響力を持っていて、特にカドバドは口にすればそれが未来を決めてしまうほどの力があったからだ。

けれどクー・フーリンだけは違った。占いの結果をしっかり聞いていたにもかかわらず、すぐに王に武者立ちさせてくれとせがんだ。王が「お前にはまだ早い」と止めるのに聞く耳を持たず、自身の実力を見せつけるために城の戦車や武器を壊してまわった。すべての武器を壊されてはかなわない王は折れ、ついにクー・フーリンはその日戦士となった。

預言を聞いた彼が、どういう気持ちで武者立ちを決めたのかはわからない。短命でも戦士としての栄光を残せるならと潔く決意をしたのか。あるいは栄光のみに目がくらみ、短命というところを忘れていたのか。それともただ友人たちが皆自分を置いて一人前になっていた焦りから武者立ちがしたくて仕方なかっただけなのか。

HA作中においてある人物が、クー・フーリンのこの逸話に対して「彼は生まれた時からその運命を確信していた。だからこそ、その予言に従ったのではないか」と述べている。少年は幼くして、そのように生きることを自らの責務と確信し受け入れていたのだと。

神話における解釈は様々なものがあるけれど、少なくともFateにおけるクー・フーリンの本質は「短命であっても栄光を選ぶ潔い英雄」でも「栄光さえあればいいと思う短絡的な英雄」でもなく「自らに与えられた非業な運命を受け入れ、変えようとしなかった英雄」ということになる。事実SNにおいてランサーは、自らの生涯に「無念はあるが未練はない」と言う。

彼が背負う非業の運命は、短命なことだけではない。クー・フーリンは予言どおり、多くの武勲を打ち立てた。その名を隣国にもとどろかせる誰よりも強い戦士となったけれど、苦しく、悲しい戦いがあった。国を守るために兄弟同然の親友であったフェルディアと戦う事になったり、実の息子を手に掛けなければならなかったこともある。最期には、自分だけでなく愛馬も御者も殺され命を落とす。

特に印象的なのはフェルディアとのエピソード。影の国で兄弟弟子だったフェルディアは隣国コノートの戦士であり、コノートの女王メイヴの奸計により、二人は戦うことになった。クー・フーリンは運命を呪い、フェルディアに何故戦わねばならぬのかと問うた。けれど、敵となったからと言って憎むことはなかった。その時は一日一戦という決まりがあったため、その日の戦いが終わるとフェルディアとクー・フーリンは抱擁を交わし、かつて影の国でそうしたように同じ布団で眠った。

しかし、情けをかけることもなかった。三日間に渡る戦闘でお互いに傷を負い、そろそろ決着をつけようという時。とどめを刺す際に迷いが起きないように、その力を余すところなく発揮できるように、あらかじめ御者ロイグに「窮地に陥ったら俺を罵って怒らせてくれ」と頼んでいた。そうして戦いの際にロイグの野次による怒りで自分の力を引き出し、フェルディアにとどめを刺した。自身が影の国の入り口でフェルディアと出会った時、彼がそうして自分の力を引き出してくれたことを思い出しながら。

このあらかじめロイグに指示していたという点から、「勝つ為に手段を選ばない」「フェルディアの実力を認めていた」「本当は殺したくない」という心境が見て取れる。

クー・フーリンには、親友のためならば主を裏切るという考えはなく(仮にそうしたかったとしても、その感情は横に置いて)国を守るという責務のために、自らの激情すら利用して親友を手に掛けた。

彼はこれらの戦いの中で、最後には責務や誇り、そして運命を取った。「戦闘と感情は別のところにある」というのは、そうでなければいけなかったからでもあるのだと思う。運命に確信もあったし信念もあったけれど、はじめから達観していたのではなく、数々の闘いの中で自らの正義感や感情というものに折り合いをつけていったのではないだろうか。

その時そうすべきだと確信がある方に動く。嘆かないわけではないし悲しまないわけでもない。考えないわけではないし悩まないわけでもない。しかしその考えも悩みも、目の前の目的、己の信条、与えられた責務にのために使う。そのためなら、感情も迷いも打ち消して確実に事を為す。

そして過去は省みず、まっすぐ進んでいく。夜空に一瞬で燃え尽きてしまう、流星のように。それは、なんと英雄らしい/人間らしくない生き様だろうか。

HAにおいてランサーは過去を語るとき、悲観的なエピソードも比較的冷静に語っているけど、その渦中にあっては運命を呪うこともあったかもしれない。それでもそんなふうに語れるのは、それらは既に過去のことであり、かつはじめから運命を受け入れていたからだろうか。

ランサーは明るくさっぱりとしていて、気ままに生きる彼を誰も縛ることができないようにも思える。しかし真の自由人であるならば、自身が納得行かない理不尽な命令にも逆らうだろう。

けれど、彼は生前主を裏切ることはなかったし、HAにおいても「主君殺しと女殺しはしなかった」と語っている。そして嫌いなものは「裏切り」。基本的にはいけ好かない主であっても命令に従うし、汚れ仕事もこなす。あくまで信条>主なので、主が信条に悖る行為をした場合は逆らいもするけれど。

彼は屈託なく笑い、自由気ままに生きているように見えても、根っこの部分ではその運命と責務に雁字搦めだ。だからこそ明るく振る舞い楽しもうとするのだとも言えるのだけど。

器の大きさと紙一重な孤独

本来であればランサーというキャラのかっこよさを語るべきかもしれないけれど、わたしが魅力を感じているのは、どちらかといえば英雄的な振る舞いや表面の明るさではなく心の底に秘めた悲哀なので、申し訳なく思いつつも引き続き掘り下げさせてほしい。

HAの作中でわたしが大好きなエピソードがある。

ある休日の昼下がり、葛木先生と藤ねえが一緒に歩いているのを見かけたキャスターは、藤ねえが葛木先生を誑かそうとしているのではないかと疑い、士郎を巻き込んでこっそり尾行していた。その果てに入った喫茶店に、ランサーがウェイターとして働いていて、ランサーはキャスターの行動を面白がりいろいろとちょっかいをかけてくるのだけど、そこでの会話でかなりランサーの本質が垣間見える。

「藤ねえは(誰かに色目を使うことは)ありえない」と言う士郎の言葉に聞く耳持たず、頑なに夫婦関係に執着するキャスターに対して、ランサーは懐疑的な態度をとる。

「どこまで行っても確かな絆なんてものは目に見えたりするワケじゃねえんだから。適当にやるのが一番だ」

これはある意味真理だ。けれど、そう言い切れてしまう彼の強さに脱帽する。確かに絆は目に見えない。だからこそ強く感じたくて確かめたくなるのは人の弱さだと思う。クー・フーリンと彼の妻エウェルとの在り方は、キャスターと葛木先生のそれとは全く違うものだからこそ、そう言えるのかもしれないけれど。

このあともランサーはキャスターに夫婦の絆のあり方を説く。

「一度きりの間違いで、全部手放しちまっていいのか?そりゃあ脆すぎるってもんだろう」
「ナナカマドの枝は、しなやかで粘り強い。嵐にも雪にも折れない。自分の湖に小さい堰を作って、ときどき水を逃したところで、湖は干上がらんし、空の天井も落ちてはこんさ」

「たった一度の間違いで壊れるほど脆い絆なのか」「夫婦の絆は丈夫でしなやかな枝のようでであるべきだ。浮気したとしても、愛は簡単にはなくならない」と。

(正直これをエウェルから言われるならともかく、散々浮気しまくったこの男に言われても「お前が言うな」となるのだけど、そこはそれ)

しかし、彼が肩入れするものは何だったか。信条も運命も、同じく目に見えないものではないか。確かに彼の中に確信はあったかもしれないが「絆なんてのは目に見えないんだから適当に」などと言いながら、その実本人が一番目に見えないものに雁字搦めではないのか。

実際、キャスターはランサー対して「あなたにだって譲れないものはあるでしょう」と食い下がる。それに対して彼はこう答える。

「聖なる誓いねぇ……そりゃ破れないモンは幾らかあったけどよ。そういうのはなんだ。明確に考えちゃまずいもんだ。その手のもんは守るだけに留めておくんだよ。内容の是非は、死に際辺りで振り返っていればいい」
 自身を縛る、他人には譲れぬもの。
 それは解析するものではなく受け入れ、無言で守るものだとランサーは言う。

彼は決して考えなしではない。考えないようにしているだけ。生きている間、駆け抜けている間はそのことについては考えない。必死に守った誓いのせいで、己が窮地に立たされる可能性があろうとも。

そしていざ窮地に陥っても、持てる力すべてを駆使してギリギリまで足掻く。そして最悪の結末を迎えたとしても「結局こうなったか」「最悪の展開だな」「割合わねえ」と悪態をつきながらその結末を受け入れる。もしかしたらどこかで顧みていれば別の道もあったかもしれない、などと、そういうことは一切考えない。

 ……ここがこの槍兵と弓兵の最大の違いだ。
 どちらも世話好きな男だが、あちらは落ち度がある毎にそれを注意し、改善させようと努め。
 こちらは落ち度すら容認し、黙ってフォローに回るコトで助けてしまう。

これはこの会話を受けての士郎のランサーへの評価。

やや唐突さはあるものの、このたとえは言い得て妙だ。この二人はしばしば対比して語られる。二人とも芯に信念があるが、ランサーの誓いを守るということとアーチャーの理想を求めるということは、「ある思想や意志に基づいて行動する」という点において似ているように思えるが、本質は真逆だ。

誓いを守ることは、誓いをあるがまま受け入れることであり、理想を求めることは現実をどうにか変えようとすること。それが人への対応にも表れていて、どちらも世話好きだけど、アーチャーは指摘して改善させる(理想に近づける)のに対して対して、ランサーのそれは欠点(誓いの矛盾)すらも含めた相手の「あるがまま」を受け入れ、その上で出来る事をする。これも先のセリフに通じるところがある。

相手をコントロールしないというのは相手を尊重するということで、それは寛容さでもあるだろう。しかしそれは翻って、他者に対する執着のなさとも取れるのではないか。あまりに悲観的な見方かもしれないけれど、それは戦となれば即座に切り替える容赦のなさにも現れているように思う。あるいは執着していたとしても切り替えられる、心の強靭さか。

彼は基本的に忠義者で、裏切られない限りは裏切らない。人によって対応を変えるような打算はないし、裏表はない。しかしそれは裏切らなければならないほど深い利害を誰かと結ばないということでもあり、裏表がないように見せておいて性根は絶対に明かさないということの表れではないのか。

「………ふん。何度目の人生だろうが、私にはたったひとつなのよ。定まったマスターもなく、飄々と暮らしている貴方には、生きている実感なんて永遠に湧かないのでしょうね」
「かもな。命はめぐるものだ」

キャスターに「生きている実感が湧かない」と謗られても怒ることはなく、さらりと言ってのけるこの達観。

ケルトの生死観が「命はめぐるもの」であり、死んでもまた生まれ変わるのだから死は悲しめど忌避するものではない、というのはあるだろう。しかし、非業な運命とその結末を、そう簡単に受け入れられるものだろうか。

過去を省みず未来を悲観せず、目の前の「あるがまま」に集中する。そしてそれを行う。それは自然ではあるがどこか獣的なあり方でもある。しかし、その迷いのなさは多くの人から「潔さ」「かっこよさ」にも映るだろう。

しかしわたしは彼のそんな姿を見ていると、他者に対してどうしてそんなに(根っこのところで)無欲でいられるんだろうか、それは究極の孤独ではないのかと思い苦しくなる。

ランサーは、人懐っこく誰とも気さくに話すのにその実誰にも心を開いていないし、誰かに肩入れしたり迎合することはないのではないか。そういうところをSNやHAをプレイしていると感じるし、FGOでも感じることがある。

そんな彼のあり方は、確かに強く潔いけれど、人間らしさとは程遠く、孤独で、どこか異質なように見えてくる。

あれだけの人生を生きてそれに「未練はない」と言ってのける男だ。ひとと交わろうとしないのは、戦いのためだけの短い生ならなおのこと未練を残しても仕方がないと思っているのかもしれない。

それはサーヴァントという仮初の生だからというだけではなく、彼の神話を知れば知るほど、生前からそうだったのではないかとも思えてくる。

まず出自からして半神の英雄であり、妖精塚で生まれ、アルスターにやってきた。怒るとその姿は化物のような姿に変わり、人々に恐れられた。

外見や出自だけではなく、彼の精神性もまた、誰の干渉も受けないものだったように思う。短い一生の中であらゆる人と出会い、仲間も作り、結婚もするが、それでも誰かのために自分の信条を曲げることはなかった。何かを選択するときも、自分が従うと決めたから、自分が愛すると決めたから、自分が戦いに行くと決めたから、自分が運命を受け入れると決めたから───常に自分の信条をもとに動き、心の底から愛する妻が戦に行くのを止めても、これは運命だからと取り合わなかった。

多くの人の寵愛を受け、数々の勝利と栄誉を手にしたクー・フーリンの、その根底は誰にも曲げることはできなかったし、真実誰にも従っていなかったのではないだろうか。

彼が当時のアルスターの人々にとって特別であり、同時に異質でもあったと解釈できる記述を見つけたので以下に引用させていただく。それは、彼の幼名「セタンタ」の由来にまつわるものだ。

さらに、彼の幼名シェーダンタ(Sétanta)の名前の由来は、実はアイルランドではなくスコットランドにあるのです。アイリッシュ海を挟んだスコットランドはランカシャー州の沿岸部に、セタンティイ族(Setantii)というケルト人部族が住んでいたのです。シェーダンタとセタンティイ族の名前の類似の指摘は早く、19世紀末のケルト学者ジョン・リースによって指摘されています。この事実もまた、クー・フランが外来的な存在であり、アイルランドにとっては異質なものであるということを暗示しているように思われます。その上、アイルランドの伝承ではアルバ(スコットランド)はしばしば異界の代名詞として扱われており、上述した彼のルーツにも一致するのです。

引用元:ケルト世界とアイルランドにおける犬について、そして英雄クー・フランについて――考古学と伝承、神話学の点から
(※強調は筆者によるもの)

クー・フーリンは生前から、そもそもの存在がアイルランドにとって「外から来たもの」であり、異質であったと。

引用元では、外から来た存在が最強の英雄となるのはアイルランド神話群における伝統と言及されており、同じく外から来た英雄としてクー・フーリンの父神ルグ、フィン・マックールも挙げられるが、彼らは別のサイクルの登場人物。アルスターサイクルにおいて外来の英雄はおそらくクー・フーリンだけである。

それを踏まえると、(やや拡大解釈かもしれないが)クー・フーリンのその異質さ孤独さが際立ち、いろいろと考察が捗ってしまう。

※ちなみにこのnoteは他の各神話における犬の扱いやクー・フーリン(元記事ではクー・フラン)を取り巻くあらゆる事柄と資料から、彼は「死と暗黒の象徴」なのではないか、という考察なのだけど、たいへん読み応えがあり非常に興味深いのでランサーの陰の部分に惹かれる方はぜひ読んでみてほしい。

余談 クー・フーリンは夏至生まれなのか

ちなみに、冒頭にも「非公式」と書いたように、ランサーに公式設定での誕生日はない。

ではこの「夏至生まれ」というのはどこから来たかと言うと、クー・フーリンにまつわる伝承を小説にまとめた作品「炎の戦士クーフリン」から。つまり夏至生まれはこの本の著者ローズマリー・サトクリフの創作。

原典でもクー・フーリンの生まれ日についてはわかっておらず、冬生まれという説もあるそうだけど、そちらは明確な日付がわからないため、夏至に彼の誕生日を祝うことが通例になっている。

ちなみにわたしは冬生まれ説のほうが好きだ。彼を太陽になぞらえて、その短い生涯を思えば日の短い冬に生まれたことは、むしろしっくり来る。

夏の太陽のようにどこまでも眩しい生き様も、真冬の太陽のように瞬く間に夕陽の向こうに行ってしまう哀しい運命も、そのどちらも彼らしいし、その二面性が彼の魅力だとも思う。

そしてたとえ創作でも、公式設定ではなくとも、推しの誕生日を祝えるということはオタクとしてはとても幸せなことだと思う。

最後に わたしにとってのランサー

ここまでまじめに考察してきたけど、最後にわたしのクソデカ感情を書いてまとめとする。

わたしは現実と二次元にそこまで垣根がない。現実の人物もフィクションのキャラクターも、心の上では同一に扱うし理解しようとする(現実に区別はつけるけども)。

そして、ランサーに対してはかなり思い入れがある。

誤解しないでほしいのは、ここまで彼は孤独だ人間らしくないなどと散々「しんどさ」について語ってきたけれど、わたしはそんな非業な運命を受け入れてなお前を向いて笑っていられる彼のまぶしさやかっこよさ、ひとを思いやることができる優しさや強さも大好きだ。とても美しいし尊いと思う。

SNおよびHAをプレイした四年前、当時わたしはどん底で、何もかもに絶望していた。「生きている価値がない」「本気で死ぬしかない」そんなふうに思い詰めていた時だった。

そうでなくとも、わたしは物心ついた時からいつも生きてる意味に悩んでいて、生きてることを不安に思うことが当たり前だったし、思春期からずっと死にたかった。(だからこそ、バゼットさんにはものすごく共感した)

「ま、こうして在るんだから良いじゃねえか。生きてる事を悩んでもしょうがねえだろ。
 汝、あるがままを行えってな。細かいコトはきにするな。悩みゴトってのはな、『どうして』じゃなく『どうやって』にすべきだろ」

そんなわたしだから、自分とは真逆も真逆のこのセリフにものすごく衝撃を受けたし、励まされた。「いつかこのように生きたい」と心の底から憧れた。言葉のうつくしさも含めて、初めてプレイしたときからずっとずっと心に残っている。

そして今も、いつかこの言葉に対して自信を持って「そうだね」と心から頷ける人間になりたくて生きている。

わたしはきっと、まだまだ弱い。空駆ける星のごとき彼のように、すばやくまっすぐには生きられない。星を読み、自らの宿命のようなものをうっすら見出しはしたものの、まだまだうじうじ悩むし、右往左往もする。過去にとらわれるし、細かいことも気にするし、迷うことだらけだ。

それでも、この言葉に出会った四年前よりは進んでいる気がする。だってずっと死にたかったわたしだけれど、生きてることにはもう悩まなくなったから。少しでも『どうやって』悩みを解決するかについて考えられるようになっているから。

わたしが暗闇に落ちたとしても、地平線に沈んでも必ず昇る太陽のように、彼はわたしを照らしてくれる。わたしはこの言葉に、ランサーの存在に、背中を押されて生きている。それくらいわたしにとってランサーは憧れであり心の支えだ。

いつかダブリン中央郵便局の銅像と、彼が死の間際その体を結びつけたという石柱を見に行きたい。

クー・フーリンに、アイルランド神話に、ランサーというキャラクターを生み出してくれたTYPE-MOONに、心から感謝する。

また来年も、クー・フーリンの誕生日を祝えることを願って。

2019.6.21

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