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山体崩壊と土石なだれ

円錐形に大きく成長した火山は、やがて山体崩壊して大量の土砂を麓に一気に押し流す。浅間山は、2万4300年前に東に向かって崩壊した。湯の平を取り巻く黒斑山の急崖がそのときの崩壊残りである。

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崩壊土砂の流れを土石なだれという。黒斑山の崩壊で発生した塚原土石なだれは、長野原町応桑に多数の流れ山をつくった。現在、平坦面は畑として利用されているが、流れ山は林のまま放置されている。

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岩手山が6900年前に崩れて山麓に展開した平笠土石なだれの表面にも多数の流れ山が見られる。手前の大きな流れ山は、大更の八坂神社。

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少し場所を変えて上空から撮影したパノラマ写真。

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岩手山の山頂部分をよく観察すると、北東に向いた崩壊壁がわかる。地上写真。

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30万年前頃に八ヶ岳南部が大規模に崩壊して大量の土砂が甲府盆地に流れ込んだ。韮崎土石なだれという。その堆積物先端は韮崎駅のそばにあり、比高50メートルの崖をつくる。この顕著な崖を七里岩という。雲をかぶった山が八ヶ岳。左は釜無川。

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中央右寄りの流れ山の比高は90メートル。世界最大級だ。手前の線路は中央本線。

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887年8月22日の南海地震で八ヶ岳の天狗岳が崩壊して大月川土石なだれが発生した。その土砂が千曲川をせき止めて広い水面が一時的にできたが、10ヵ月後の888年6月20日に決壊して佐久平や長野盆地に大洪水を引き起こした(平安砂層)。右端の青い水面が松原湖。白い着雪が崩壊した壁。

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1888年7月15日に北に向かって崩壊した磐梯山。山頂(左)は崩壊を免れた。

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崩壊凹地と土砂がせき止めてつくった檜原湖、小野川湖、秋元湖。磐梯山頂に大勢の登山者が見える。

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島原市の眉山は、1792年5月21日の地震で崩壊して土石なだれを発生させた。有明海を挟んだ対岸を津波が襲って1万5000人の死者が出た。島原大変肥後迷惑としてよく知られる。有明海に浮かぶ九十九島(つくもじま)はそのときつくられた流れ山である。眉山の背後は平成新山。

この地震の3ヵ月前の2月10日、雲仙岳が噴火して新焼溶岩をゆっくりと流し始めた。桜の季節には住民が新焼溶岩の前で花見を楽しんだという。このため眉山崩壊は火山災害として語られることが多いが、じつは地震災害である。新焼溶岩とその噴火口は崩壊していない。

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1640年7月31日、北海道駒ヶ岳が南東方向に崩壊して土石なだれが海に入り、津波を発生させた。沿岸で700人以上が死亡した。大沼公園に見られる島々はそのときにできた流れ山である。

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箱根山の芦ノ湖をせき止めている姥子扇状地は神山の(一回の大規模な)山体崩壊で生じたと説明されることがあるが、山体崩壊による土石なだれ堆積物が扇状地をつくることはない。姥子扇状地は、大雨のたびに神山から何度も発生した土石流が砂礫を積み重ねてできた。ただし、神山から流れ下った溶岩の末端崖が部分的に埋め残されている。

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