そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第1章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作それまでの明日を上梓します。

その刊行に先駆けて早川書房公式noteにて、シリーズ第1作そして夜は甦るを平日の午前0時に1章ずつ公開。連載は全36回予定です。

ひょんなことから行方不明のルポ・ライターの調査に乗り出すことになった沢崎は、やがて東京都知事の狙撃事件に巻き込まれていく……。
いきのいい台詞と緊密なプロット。日本の風土にハードボイルドを定着させた記念すべきデビュー作をぜひこの機会にご一読ください。

そして夜は甦る

1

 秋の終りの午前十時頃だった。三階建モルタル塗りの雑居ビルの裏の駐車場は、毎年のことだが、あたりに一本の樹木も見当たらないのに落葉だらけになっていた。私は、まだ走るというだけの理由で乗っているブルーバードをバックで駐車して、ビルの正面にまわった。鍵のかからない郵便受けの中のものを取り、一人しか通れない階段を昇り、決して陽の射さない二階の廊下の奥にある自分の事務所へ向かった。なにしろ東京オリンピックの年にマラソンの未公認世界記録なみの早さで建てられた代物なのだ。
 待合室の代わりに事務所のドアの脇に置いてあるベンチに、カーキ色のコートに身を包んだ男が坐っていた。眼の前の何もない空間をじっと見つめている彼の様子は、催眠術にでもかけられているように無防備に見えた。足音を立てて近づくと、彼はようやく私に気がつき、減量に失敗したライト級のボクサーのようにゆっくりと立ち上がった。私より少し年下の三十代後半という年齢で、私と同じ一メートル七十五センチ前後の背恰好だった。うっすらと無精ひげの伸びた顔がどこか病み上がりのような印象を与えた。彼は両手をコートのポケットに突っ込んだまま、途方に暮れたような表情で私を見つめた。
「あの……この事務所の方ですか」
 私は返事の代わりに、はげかかったペンキで〈渡辺探偵事務所〉と書かれたドアの鍵を開けてみせた。
「渡辺さんですね?」と、コートの男は重ねて訊いた。
「彼に用がおありなら、少なくとも五年前においでになるべきだった。渡辺は昔のパートナーで、いまこの事務所には私一人しかいない。私の名は沢崎です」
 男は戸惑った。「いや、そういうことじゃなくて……この事務所の人に会いに来たのです」
 私はドアを開けて事務所の中へ入った。彼はドア口にたたずんだままで言った。「先週、ルポ・ライターの佐伯という人がこちらへ訪ねて来たはずです」
 私は自分の記憶をたどった。思い当たることは何もなかった。「とにかく、そこでは話にならない。中へ入ってくれませんか」郵便受けから取って来たものをデスクの上にほうり、デスクの背後にまわって窓のブラインドを上げた。部屋の中がいくらか明るくなった。
 コートの男は仕方がないというように最小限度だけ事務所の中へ入り、ポケットから左手を出してドアを閉めた。私は自分のデスクの椅子に腰をおろし、彼にもデスクを隔てて置いてある来客用の椅子をすすめた。
「いや、ここで結構。佐伯さんがこちらへうかがったと思われる先週の木曜日以来、彼と連絡が取れないのです。彼は自分のマンションにも戻った様子がない。ぼくは早急に彼に会う必要があるんです」
「申しわけないが、あなたのお役には立てないようだ」
「どうして?」彼は思わず二、三歩前へ出た。「彼がここへ来たのかどうか、それが知りたいだけなのに」
「口数が多いほど探偵の信用は少なくなるそうだ。もっとも、依頼人に対しては別ですが──」
 私は上衣のポケットからタバコを取り出して、紙マッチで火をつけた。〝ピース〟という間の抜けた名前の両切りのタバコだった。
 コートの男は何かを企んでいるようにゆっくりと来客用の椅子に近づき、椅子の背に左手をかけた。彼はかすかに口許を歪めて言った。「では、あなたの依頼人になろうじゃないですか。一日分の料金でも、先週の木曜日以来の料金でも請求すればいいでしょう。その代わり、ぼくの知りたいことを教えてもらいたい」
 私はタバコの煙を吐き出した。煙の輪が彼のコートの胸に当たって顔のまわりで壊れたが、彼は身じろぎもしなかった。
「お断わりだ」と、私は言った。「きみは私を買収しようとしているにすぎない」
 コートに包まれた彼の両肩に言い知れぬ疲労感が漂った。彼は来客用の椅子を引き寄せると、倒れ込むように腰をおろした。
「いったい、どうすればいいんだ」と、彼はつぶやいた。
 その科白は私に言ったようには聞こえなかったが、私は答えた。「まず、自分の名前を名乗ることから始めたらどうです。ルポ・ライターの佐伯氏は何のためにここへ来たのか、それも聞かせてほしい」
 彼は困惑しきっていた。名前を告げていなかったことに驚いているようでもあり、名前を知られることが不都合なようでもあった。確かなことは、彼がいつまでも素人探偵のような下手な質問を続けている限り、私の依頼人にはなりそうもないということだった。
 彼はずるくて子供っぽい笑みを浮かべた。「佐伯さんがここへ来たのなら、彼が何のために来たかということも、そしてぼくの名前も、あなたは聞いているはずですね」
 私も負けずに笑みを返した。「すると結論は一つ──佐伯氏はここへは来なかった。それで納得がいったなら、早々にお引き取り願いたい。私も一服したところで、郵便物の整理にでも取りかかりたいのでね」私はタバコの吸いさしを、Wの形をした黒いガラスの灰皿でもみ消した。
 彼は私の背後の窓に視線を注いだまま、しばらく考え込んでいた。彼の位置からは、裏の駐車場を隔てて建っている、同様に古ぼけた雑居ビルの灰色の壁しか見えないはずだった。あらためて彼の顔をじっくり見ていると、スポーツマンとして通用しそうな体格のわりには、何かもっと繊細な神経を要求される仕事をしているのかも知れないと思った。他の部分に較べて細く通った鼻筋が多少バランスを欠いているが、全体としては感じのいい好男子だった。
 彼には、口をきく前に自分の気持が顔に出てしまう子供っぽい癖があったので、今度も彼の話のだいたいの方向を察することができた。「こちらの知りたいことを教えてくれたら、現金で二十万出そう。もし、佐伯さんがここへは来なかったのなら、はっきりそう言ってくれればいい。ぼくはこんな所で手間取っていたくないんですよ」
 彼は左手でコートのポケットから白い封筒を出して、私のデスクの上にほうってよこした。表に〈東京都民銀行〉と印刷されたサービス用の封筒だった。
「たぶん二十枚以上の一万円札が入っているはずだ」
「お役には立てないな。それ以上自分をつまらない人間に見せる必要はない」私はうんざりしていた。
「佐伯さんの身に危険があるのかも知れないんですよ」と、彼は感情的な声で言った。だが、すぐに自分の態度を恥じるように私から視線をそらしてしまった。
「順序立てて話してみたらどうです」と、私は言った。「断わっておくが、買収も脅迫も泣き落としも一切なしで」
「それは……できない。いや、佐伯さんと相談してからだったら……フン、その佐伯さんの行方が分からないというのに、一体どうすればいいのか、ぼくには分からない」
 この男は、佐伯という人物の行方とは別に、何か彼自身の大きな悩みを抱え込んでいるようだった。彼の疲労と焦燥の原因となっていることは、もっと深刻な問題なのではないかという気がした。
「ゆっくり考えたまえ」と、私は言った。タバコを一本抜き取ってくわえ、そのパッケージを彼のほうへ投げてやった。右手で掴まざるをえないところを狙って投げたのだが、彼は心理状態に似合わぬ反射神経で上体をひねり、見事に左手でキャッチした。彼は私のもくろみに気がついて、にやりと笑った。そして、あくまでも左手だけで器用にタバコを抜き取ってくわえ、パッケージを投げ返した。彼は見かけよりも案外したたかな男なのかも知れない。私は紙マッチで二人のタバコに火をつけた。
 私たちはしばらくタバコの煙の中で沈黙を守っていた。彼は私の両切りのタバコをまったく苦にしなかった。これに慣れない者は、フィルターのない吸口の始末に困ったり、強く吸い過ぎて咳き込んだりして、閉口させられるものだ。彼はそういう要領を心得ていた。やがて、換気の悪い事務所の中にタバコの煙がたちこめた。
 煙の向こうから、彼が初めて平静な声で言った。「もう少し、自分で佐伯さんを捜してみるつもりです。案外、今ごろは彼のマンションに戻っているかも知れない……いずれにしても二、三日のうちには、またここへ来ることになると思う。そのとき、佐伯さんも同行できれば問題はないんだが……」
 彼はタバコを消して、立ち上がった。最初に廊下で見かけたときの無防備な印象は跡形もなく消えていた。
「それまで、その封筒は預かって下さい。くどいようだが、もし佐伯さんと接触があれば──これから、ということもあるから──ぼくが連絡を取りたがっていたことを伝えていただきたい。では、これで失礼」彼はかすかに頭を下げると、ドアのほうへ向かった。
 私は彼の背中に訊いた。「きみのことは何と言えばいい? 右手を見せない男か」
 彼はドア口のところで振り返って、苦笑した。「海部と言えば分かりますよ。タバコをありがとう。口は悪いが、タバコの趣味は悪くない」
 彼は事務所のドアを閉めて立ち去った。彼を引き止めようとしてもむだなことは判っていた。彼の問題はおそらく探偵の手に負えるようなものではあるまい。ルポ・ライターの佐伯という人物を見つければすむようなことなら、彼があれほど切迫した態度を取ったのが解せなかった。デスクの上の封筒を手に取ると、確かに現金の厚みが伝わって来た。にもかかわらず、私は海部と名乗った男が再びこの事務所に戻って来るという気がしなかった。

第2章へつづく

※以下の書影は2月下旬から展開予定の、新装版文庫の装幀。書影はアマゾンにリンクしています。

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