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祝『カート・ヴォネガット全短篇』完結! 大森望×柴田元幸スペシャルトーク採録

カート・ヴォネガット全短篇』が全4巻で完結しました。これを記念して、昨年10月に1巻刊行記念で開催された監修者・大森望さんと、4巻訳者のひとり柴田元幸さんのスペシャルトークをSFマガジン2019年2月号より再録します。

■ヴォネガットとの出会い
大森 柴田さんとこういうところでお話をするのは初めてですね。実は柴田さんとはふたりとも卒論をヴォネガットで書いているというたいへん深い因縁があるんです。
柴田 あっ、大森さんもそうなんですね。僕が卒論を書くことになったのは大学六年生のときなので、1978年です。フォークナーやヘミングウェイみたいなメジャーな作家は他の人がやるだろうから、誰も書いていないような作家はいないかなと思って探していたんです。そうしたら洋書店で『スラップスティック』の原書を見つけて、買って読んでみました。
大森 翻訳ではそれまでもぜんぜん読んでいなかったんですか?
柴田 はい。すごくスノッブな大学生で、「翻訳では文学のよさはわからない」と思っていたので(笑)。何が翻訳されているのかも当時はわからなかった。ヴォネガットの名前も知らなかったんです。で、『スラップスティック』を読んで面白かったので、ヴォネガットの本を二作三作と買っていって。この作家でやろうと決めました。
大森 僕のヴォネガット初体験は、SFマガジン1974年11月号の「ナンセンスSF特集」に載ってた「ビッグ・スペース・ファック」(『全短篇』第4巻収録)という短篇です。特集を企画した伊藤典夫さんが翻訳されてるんですが、ヴォネガットにとっては、SFに向けたイタチの最後っ屁みたいなひどい話で。人類存続のために精子を積んだロケットを宇宙に打ち込むという(笑)。ヴォネガット自身は短篇扱いしてなくて、『パームサンデー』収録のエッセイの中に参考作品として入れてる。
柴田 でも、それが響いたと。
大森 そうです(笑)。こんなにムチャクチャな人がいるのかと思って、そこから、翻訳されている長篇をぜんぶ読んだ。
柴田 僕はいまだに、ヴォネガットの翻訳は一冊も読んだことがないんです。
大森 そうなんですか!
柴田 何冊か原書を読んで、ヴォネガットは論ずるに値する作家なんだということを知って安心して、当時東大の英文科にいらした大橋健三郎先生のところに、卒論は何を書くか報告しに行きました。ヴォネガットで書きたいといったら、「ヴォネガットか、こ……」と、止まってしまったんです(笑)。「困ったな」の「こ」だと思いますね。大橋先生は現代文学もフォローされてましたけど、ヴォネガットまではたどり着いていなかったと思う。
 それで、先生にいわれたのは、ヴォネガットという作家は全然知らないのだけど、君の論文を読んで勉強になったと。ただ、ヴォネガットが言っている「人を愛さなきゃいけない」ということは、マラマッドやボールドウィンも言っていることじゃないのか、ヴォネガットは何が違うのかね? と言われました。当時はかたちで考えるということができなかったので、メッセージに還元して読んでいたんです。確かにそう言われてみれば、メッセージ時点ではどこが新しいとは言いにくいのかもしれないと思いました。今、僕がヴォネガットで論を書きたいという学生にアドバイスをするとしたら、かたちのことを書いた方がいいんじゃないかと言いますね。とくに長篇の枠ぐみの作り方。
大森 僕が最初に原書で読み通したヴォネガットの長篇は、『チャンピオンたちの朝食』でした。当時まだ翻訳が出てなくて、1977年、高校二年の夏休みに東京に遊びにきたとき、銀座のイエナで買った本ですね。その5年後、卒論を書く段になって、新しい本を探すのも面倒だし、もうこれにしようと(笑)。鏡明さんが早稲田の英文学専修で、卒論がヴォネガットだったという話を聞いたことがあったんで、じゃあ京大でも大丈夫だろうと。『チャンピオンたちの朝食』にはいっぱいイラストが入っているんですが、ハンバーガーを食べるシーンに牛の絵が描いてあったり、セックスの話になるとヴァギナの絵が描いてあったりするんですね。性器とはこういうものであると、非常に簡略化された絵が描いて非常にストレートに本質を絵で表現しているといって、わざわざイラストをコピーして貼って書いたら、指導教官の青木次生先生がしみじみと僕の顔をみて、「キミは童貞ですか? 女性の性器をじっくり見たことがありますか? これは単純化というものであって、本質というものではない。こんなところに女性器の本質はないのです」と、こんこんと諭されました。その話を飲み会の持ちネタにしていたんですけど、『はい、チーズ』(河出文庫)を出したとき、ついにチャンスが来たと思って、訳者あとがきに書いたんです(笑)。そんなところで青木先生の下ネタ好きをバラしちゃいかんと、先輩の若島(正)さんに叱られましたけど(笑)。
柴田 教師になってから──80年代後半ぐらいかな──、〈ユリイカ〉で「トラルファマドールとインディアナポリスのあいだで」というヴォネガットの紹介文を書きました。トラルファマドールという、人生に意味はないという前提から人間を完全に外から見るという宇宙人の視点と、人間をなかから見る、インディアナポリスの1930年代の不況の頃に育った、貧しかった昔をセンチメンタルに懐かしむヴォネガット。ヴォネガット作品の中にはその二人がいるということを書きました。僕がヴォネガットを見る目というのは、そこで固まっていて、そこからあまり動いていないですね。
 ただ、たいていの学者からは「アーヴィングなんて」「オースターなんて」と同様に「ヴォネガットなんて」と言われちゃいますね。でも日本の場合は、この十年ぐらいを見ても、川上未映子さんや円城塔さん、太田光さんがヴォネガットのよさを伝えているので、日本でのヴォネガットはけっこう幸福じゃないかなと思います。

■いま、ヴォネガットを読むということ
柴田 この全短篇がアメリカで出たのは去年ですよね。これをいち早く四分割で翻訳するというのは、たぶん他の国ではそうないことだと思いますね。
大森 日本でのヴォネガット人気はほんとうに根強いですね。うまい具合に機が熟していたということかもしれませんが。
柴田 ヴォネガットの短篇集というと『モンキー・ハウスへようこそ』がありますよね。
大森 何十年もずっと、あれ一冊だけでしたからね。ヴォネガット・ファンを自称していても、短篇は他に読んでいないという人が多いかもしれません。
柴田 あの短篇集でいちばん本人の気合が入っているのは後期の、独特のSF的なものだ、というのはよくわかったんだけど、50年代に女性誌に売るために書いたセンチメンタルな作品が案外印象に残っているんです。第1巻に入っているこの「孤児」という、難民の男の子にまわりの大人たちが親切にしてあげる話とか、「永遠への長い道」(第2巻収録)などの愛の物語。案外、記憶に残ったのはそっちですね。
大森 没後に発表された短篇を読んでも、SFより、人間の情や恋愛を描いた作品のほうが印象が強いですね。『全短篇』には98篇入っていますが、生前発表されたものはその半数。短篇作家としてのヴォネガットは、没後に作品数が倍増したわけで、まとめて読むとけっこうイメージが変わってくるんじゃないでしょうか。『ザ・サークル』のデイヴ・エガーズが、『人みな眠りて』の序文に書いてますが、いま、大学の創作講座で叩き込まれる鉄則は、“短篇小説に教訓やメッセージを込めるな” だと。そういう時代だからこそ、それと正反対の道を行くヴォネガットの短篇が新鮮に見えるのかも。
柴田 それについては僕も最近けっこう考えますね。50年代、60年代までは短篇小説は一種の商品だった。売れたから、それでかなりの作家が食べることができた。短篇は商品だと割り切っている。みんな今みたいにクリエイティヴ・ライティングの大学に通うというようなことは一切なく、周りも誰も小説なんか読まない環境の中で書いて、郵便で雑誌に送ってキャリアを築いていた。ヴォネガットもそういうひとりだった。52年に『プレイヤー・ピアノ』というシリアスな長篇を出したけれど、あれが売れていたらそんなに短篇は書かなかっただろうと思います(笑)。
大森 長篇を書いても売れなかったことに加えて、当時の短篇の原稿料が法外に高かったこともありますね。1950年代は、スリック雑誌と呼ばれる家庭向けの高級誌の黄金時代で、百万部以上売れているものもあったんですが、そういう雑誌がヴォネガットの短篇を買ってくれた。駆け出しのころの原稿料は一篇あたり千ドルぐらいだったそうですが、最後は2700ドル。今なら何百万円にも相当する金額で、短篇を一本売れば、家族を養えた。おかげで、それまでつとめていたゼネラル・エレクトリックをやめて、専業作家にもなれたわけです。
柴田 短篇小説はかつて商品で、オチや教訓がセットのように要求された。別に文学好きではなくても、とっかかりがあるものだったんですね。これは自分がやっている雑誌〈MONKEY〉でも村上春樹さんとしゃべったことですが、短篇というのは、50年代まではジョン・チーヴァーのようなカッチリしたストーリーが中心だったのが、60年代に入ってドナルド・バーセルミのような前衛的なものになっていく。で、ポストモダンが終わって80年代になって、今度はレイモンド・カーヴァーのような新しいタイプの短篇が出てくる。そこでは実験性も、オチももちろんない。
大森 ストーリーもほぼないと。
柴田 だけど、文体の精緻さのような、すごく淡いところで勝負するということになってくる。それはそれでもちろんいいんだけど、短篇小説が失ったものはけっこう大きいなとは思います。
大森 研ぎ澄ました文章で現実を写しとるタイプのリアリズム全盛時代が続いた反動で、ストレンジ・フィクション的な非リアリズム短篇が勃興しましたが、教訓やメッセージがあるような普通小説はほとんど死滅したままです。だからこそ、1950年代のヴォネガットが書いていた未発表短篇を初めて読むと、新鮮な驚きがある。
柴田 そうなんですよね。〈MONKEY〉でチーヴァーを何本か掲載すると、この十数年ほとんどチーヴァーは読まれていないので、この古風さがかえって新鮮に見えるみたいです。そういう古さの新しさみたいなものは、けっこういまの日本では認めてもらえるんじゃないかなという気がします。

■スペシャルゲスト、小川哲さん登場
柴田 やっぱり、いいなと思う作家は、世間的には駄作と言われているようなものでも、何か光るものがありますよね。
大森 『チャンピオンたちの朝食』も当時はクソミソにいわれていましたしね。
柴田 僕のころは『スラップスティック』が最新作だったけど、あまり評判がよくなかったですね。『タイタンの妖女』『スローターハウス5』『チャンピオンたちの朝食』は当時から好きでした。フェルトペンで描いたイラストもすごく印象的だったので、村上春樹さんが『風の歌を聴け』で出てきたとき、あのTシャツのイラストを見て、僕だけじゃなくて周りもみんな「ヴォネガットみたいなのを書いているヤツ」という言い方をしたものね。
大森 僕もそうでした。とうとう日本にもこういうのを書く作家が出てきてくれたかと思って、すごく新鮮でした。
柴田 ヴォネガットとブローティガン……ブローティガンはもうちょっとシュールですけど、短篇小説が商品から芸術になっていくなかで、それとはちょっと違うところにいたのがヴォネガットとブローティガンという気がします。
大森 高橋源一郎さんの『さようなら、ギャングたち』にもそういう空気を感じましたね。ヴォネガットに影響を受けたり、大好きだと広言したりしている作家は、日本には他にも大勢います。今日はその代表として、『ゲームの王国』の小川哲さんに来ていただいています。お招きしましょう。


小川 『カート・ヴォネガット全短篇2』の解説を書いたので、本日呼んでいただきました。ヴォネガットのなかでは僕は『スローターハウス5』がベストですね。さきほどの話にもありましたが、短篇では「永遠への長い道」が一番好きです。読み直して、当時と違った感覚を得たりしています。
柴田 「永遠への長い道」はセンチメンタルな話ですよね。
小川 そうですね。読み始めたのはたぶん高校生の時ですね。基本的にSFは父の本棚から読んでいたんですけど、父はすごく神経質で、中の本を汚さないように書店のカバーの上から文字でタイトルを背表紙に書いて、それを本棚に入れているんです。読み終わった本には「小川」という印鑑が捺してある。SFやハードボイルド、スパイものが大好きで、早川書房や東京創元社から出たものは全部そろえていて、僕は印鑑を押している確率が高い作家を読んでいました。ヴォネガットとブラッドベリは圧倒的に確率が高かった。家では本の話はまったくしなかったので、勝手にとっていって。『モンキー・ハウス』を読んだあたりで、父にベストは何かと聞いてみたら、『屠殺場5号』だというので、気が合ったなと(笑)。
大森 「僕もだよ、お父さん!」と握手を求めたりしなかったの?(笑)
小川 僕は、今はタイトルが『スローターハウス5』になってるよね、面白いよねあれ、みたいな感じで返しました(笑)。父は柴田先生とほとんど同い年で、若い時にはけっこう読書家だったのかなと。ヴォネガットの短篇を再読してちょっとだけ驚いたのは、僕が思っていたのとオチが真逆だったものがけっこうあったんです。
大森 けっこう身もふたもないオチをつけたりね。
小川 絶対これはバッドエンドだろうと思っていたらハッピーエンドにもっていったり。当時はそこまで意識しないで読んでいましたが、いまになってみるとヴォネガットのやり方は、同業者の端くれとしてなるほどなと思うことがけっこうありますね。
大森 セクション2の「女」には、現代ではポリティカル・コレクトネス的に絶対に書けないタイプの作品もけっこう多い。口述筆記のタイピストが出てくる「FUBAR」(2巻収録)では、彼女は会社のシステムの中で完全にモノ扱いされていて、作者もそれを肯定している。若手社員と結婚させるために採用するみたいな。所属先が決まる前の新人タイピストは、ガール・プールというたまり場にいて、彼女たちは、男性社員なら誰が使ってもいいみたいなシステムになっていたり。今だと完全に炎上案件です(笑)。
 あと、ドーナツチェーンの全国展開とか男性誌のピンナップガールとか、当時の最新風俗がたくさん出てくる。口述筆記用録音装置のディクタフォンみたいに、ゼネラル・エレクトリックが導入していたであろう最新テクノロジーが、いちはやく小説の道具としてとりいれられています。
柴田 さきほどからお話をうかがっていて思ったんだけど、カッチリとストーリーにオチや教訓があって、風俗をいちはやくとりいれているというと、それはオー・ヘンリーにも当てはまるんだけど、かなり違いますよね。
大森 そうですね。オー・ヘンリーのほうがオチがわかるというか。
小川 ヴォネガットはスタイルが新しいというか、オー・ヘンリーと比べると雑なものは多いですね。
柴田 オー・ヘンリーはフォーマットがカッチリしているから、最低の出来は保証される。そう言ってしまうと、ヴォネガットは保証されないのか、となるけど(笑)。
大森 されないですね(笑)。
小川 本当によくできているものもあるし、いい加減なものもあるという感じですね。ただ、ヴォネガットの場合は独特のスタイルを持っているので、そのスタイル自体はどんなにくだらない短篇にもあるので、べつにオチがなくても読んでしまうというのがありますね。
柴田 そうですね。それをつねにシンプルな文章でやっているというのはえらいよね。外国人読者としてはとてもありがたい。
大森 ただ、50年代特有の言い回しはけっこう出てきますね。こんな表現読んだことない、さすがヴォネガット、突拍子もない比喩を使うなと思って、念のため調べてみると、当時実際に使われていた言い回しだったり。

■質疑応答~ヴォネガットとディック
質問者 アメリカではヴォネガットはバカにされがち、という話が先程出ましたけれども、いったいどういう理由でアメリカで二流作家といわれるんでしょうか。
柴田 まずヴォネガットはSF作家だと思われている。SFというと一段低くみられるような傾向がまずあります。そのなかでもフィリップ・K・ディックあたりはかなり評価が高いですけど、ヴォネガットはディックに比べてわかりやすいので、ジュヴナイルという言葉が良く使われます。青少年向け、みたいな。大人になったら卒業するものというのでとらえられることが多いと思います。僕が卒論を書いていたころは必ずしもそうでもなかったんです。ロバート・スコールズという研究者が、ピンチョンやバースといった70年代の新しい前衛作家たちを本格的にとりあげたとても影響力のある本を書いているんですけど、そのなかでもヴォネガットはしっかりと一章を割いて取り上げられていて、非常に高く評価されている。ポストモダン、前衛こそ文学だという空気が終わったときに、一緒にヴォネガットも、かなりの部分が忘れられてしまった。それは、60年代のヒッピー文化の熱さが冷めたときにブローティガンも一緒に忘れられたことと呼応している気がします。
 いわゆるインテリ読者からすると、やや低く見下すのがデフォルトということでしょうね。わかりやすいものは見下されるという傾向の一環だと思います。
大森 ヴォネガットは、『猫のゆりかご』以降、すごい有名人になって、ご意見番的なかたちでメディアに露出する機会も多かった。その分、作品については、やっかみも含めて、軽視されがちだったのかもしれませんね。
柴田 現代のマーク・トウェインと呼ばれていた時期があるんですよね。トウェインとヴォネガットってたしかに良く似ていて、人類に絶望しているところと、けっこうセンチメンタルに人間に希望を持たせようとするところの両方があって。トウェインは白いスーツがトレードマークだったんですけど、ヴォネガットもそれを真似て白いスーツを着ていた時期があって、それで失笑を買ったりもしました。一時期読まれ過ぎたということもあるんでしょう。
大森 SFの世界でも微妙な立場で、僕はSF作家だと思って読んでいたし、日本ではわりとSFのイメージが強いと思いますが、アメリカではSF作家とは思われていないし、SFファンにとっても遠い存在になっている。いちばん大きかったのは、ブライアン・オールディスがSF研究書『十億年の宴』の最後で、「ヴォネガットは、ガソリン代が手に入ったとたん、フルスピードでSF界から走り去ってしまった」と書いたこと。このフレーズがすごく有名になって、ヴォネガットはSFを踏み台にしてベストセラー作家になった、みたいなイメージがついてしまった。でも、オールディスはそのすぐあとで、「しかし彼自身、いまなおSFを書いていることに気づかぬはずはない」と書いてて、実際、最後の長篇になった『タイムクエイク』まで、ヴォネガットは断続的にSFを書き続けています。だからSFを見捨てたみたいに言うのは不当なんだけど、でも明らかにジャンルSFの作家ではないよね……というややこしいポジションです。
柴田 ──先ほどのご質問に補足しますと、ポール・オースターは、ヴォネガットの文章はちょっと物足りないというんですよね。でもレベッカ・ブラウンは、あのシンプルさであれだけ深いことを言えるのはえらいと言っている。この二人だけで決めるのは乱暴だけど、東部のインテリの方がヴォネガットをやや見下すというか、割とカウンターカルチャーっぽい人の方が、ヴォネガットを支持しているんじゃないかという気がするなあ。もともと、『猫のゆりかご』に出てくる「アイス・ナイン」は、グレイトフル・デッドが音楽出版社の名前に使っていたりしていて、西海岸のヒッピー文化とヴォネガットは本人の意図にかかわらず結びついているところがありますよね。
大森 そこも、ある意味ディックと近いですよね。
柴田 ディックはディープなウエストコーストですよね。サンフランシスコがヴォネガットで、ロサンゼルスあたりの病んでいる感じがディックという感じですかね。
大森 ディックも、地元はサンフランシスコ周辺なんですが……おっと、ディックの話をしている場合じゃなくて、そろそろ時間ですね。柴田さん、今後の翻訳や、〈MONKEY〉のご予定は?
柴田 来年2月に出る〈MONKEY〉では、心理学者の岸田秀さんによるフロイト翻訳・解説と、僕から岸田さんへのインタビューが掲載されます。また、ブライアン・エヴンソンがレイモンド・カーヴァーについての長篇評論を書いたので、それを一本まるまる入れます。
 僕が訳するヴォネガットは3月発売の4巻『明日も明日もその明日も』に収録されますね。訳すのが楽しみです。
大森 次は11月で、そのあと1月、3月と出て、全4巻完結となります。一巻のカバーイラストは和田誠さんでしたが、2巻は100%ORANGEさん、3巻は長崎訓子さん……と毎回変わります。みなさん、ぜひ、全巻そろえてください。
(2018年10月5日/於・ブックファースト新宿店)

柴田元幸さん翻訳短篇を含む『カート・ヴォネガット全短篇4 明日も明日もその明日も』は本日、3月20日発売です!


『カート・ヴォネガット全短篇1 バターより銃』

『カート・ヴォネガット全短篇2 バーンハウス効果に関する報告書』

『カート・ヴォネガット全短篇3 夢の家』

『カート・ヴォネガット全短篇』についてはこちらをどうぞ!

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