そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第12章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行します。

その刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開いたします。連載は、全36回予定。

本日は第12章を公開。

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そして夜は甦る』(原尞)

12

 佐伯直樹と私のあいだの距離は少しも縮まっていなかった。私の仕事は、佐伯という人間について知ることではなく、彼を捜し出すことだった。佐伯名緒子の依頼を受けて八時間、カイフマサミという名前だと思われる男に会ってから一日半、佐伯自身が私の事務所の名前をメモに書きつけてからすでに五日半が経過している。時間が経つにつれて、むしろ佐伯は私から遠ざかっているというのが偽らざる感想だった。
 私は切れる前の点滅を繰り返している外灯に照らされて、花園南公園の湿っぽいコンクリートのベンチに坐っていた。都心の夜の喧騒は遠くかすかで、人影もなかった。かなり冷え込んで来たので、私はコートの襟を立ててタバコを喫っていた。園内の木々の大半はすでに葉を落として、足許でも枯葉が夜風に吹かれていた。寒いのさえ我慢すれば、ちょっとした逢曳き気分と言えないこともない。足音が近づいて、私の前で止まった。足音は一つではなかった。
 顔をあげると、三人の若い男が私を取り囲むようにして立っていた。若い男というより、高校生かその年頃の少年たちだった。三人とも黙ったまま、大人も顔負けの性質のよくない眼つきで私を見つめていた。正面にいるジーンズの上下を着た少年がリーダー格らしかった。背丈は私と同じ位だが、痩せていて神経質そうな顔立ちをしていた。左にいる少年は背が低くて体力もなさそうだった。一人前に流行のゆったりした厚地のスーツを着こんでいるが、それがかえって彼の顔を幼くしていた。右にいる革ジャンパーを着た少年は要注意だった。私より上背があって、体重も十キロは多い。しかも、三人の中では一番暴力を好むタイプに見えた。ただ、少し血のめぐりが悪くて反射神経が鈍そうだった。三人とも前髪を逆立て、横の部分をポマードで固め、額の両脇を剃り込んだ、そろいの髪型をしていた。
「よう」と、ジーンズの少年が口をきいた。「タバコをよこしなよ」
 私は平静を装って、黙ったままタバコを喫い続けた。
「こいつは耳が聞こえないのか」と、ジーンズがスーツを着たチビの少年に訊いた。
「怖くて口がきけないんじゃないの」と、彼は答えた。革ジャンパーの少年が嬉しくてたまらないというように笑った。
「怖がることはないんだぜ」と、ジーンズが言った。「タバコをよこせと言ってるだけなんだから」
「まず、手始めにな」と、チビが付け加えた。革ジャンパーがまたくすくすと笑った。
 私は半分になったタバコをもう一度喫ってから、それをジーンズのヘソのあたりをめがけて指で弾きとばした。彼は慌ててとびのき、甲高い声で「何すんだよ!」と叫んだ。他の二人も一瞬たじろいだ。彼らは人を攻撃することには慣れているが、反撃されることには慣れていないのだ。
「そのタバコを拾って喫え」と、私は言った。
 三人はすばやく顔を見合わせ、瞬時に進むべきか退くべきかの選択をした。そして、いつものように選択を間違えた。彼らは私に向かって怒声を浴びせたが、三人の言葉が重なってわけの分からぬ騒音にしかならなかった。ジーンズの細い鼻筋が苛立ちに震えた。
 私はその瞬間をとらえた。ベンチから立ち上がって、もう一度「拾え!」と、怒鳴った。頭に血がのぼったジーンズがしゃにむに私に襲いかかろうとした。チビは一瞬遅れをとり、革ジャンパーはまだ突っ立ったままだった。私はとっさに右に走って、革ジャンパーの無防備な喉もとをこぶしで一撃した。殴りかかるジーンズの手首を払いながら掴んで、後ろ手に捻じ上げた。いつの間にかナイフを手に、まとわりついてくるチビの膝をめがけて思いきり一蹴りした。
 それで終わりだった。一人は私に逆手を取られ、残りの二人は地面に転がって呻き声をあげていた。私はチビが落としたナイフをベンチの下に蹴り込んだ。革ジャンパーが息を詰まらせて、完全に戦意を喪失しているのを確かめた。
「そこのチビ、おれのタバコを拾え」と、私は言った。彼は膝をさすりながらぐずぐずしていた。
「こいつの腕をへし折ってもいいのか」私は掴んでいるジーンズの腕を一段と捻じ上げた。
「痛ぇ! ヤスオ、タバコを拾え!」と、ジーンズが哀れな声を出した。チビが慌ててタバコを拾った。火はまだ消えていなかった。
「タバコをくれと言ったな。こいつの口にくわえさせろ」
 チビは膝をかばいながら立ち上がった。雨でできた水溜まりに倒れて、せっかくのスーツが泥だらけになっていた。彼は震える手でジーンズの口にタバコを突っ込んだ。ジーンズは激しく咳き込み、タバコの煙が眼にしみて涙を流した。あるいは、腕の痛みのせいかも知れないし、屈辱感のせいかも知れない。彼はタバコを吐き捨てた。
「おまえがこいつらのリーダーだな?」と、私はジーンズに訊いた。腕を少し捻じると、彼はうなずいた。
「では、おまえを警察に連れて行く。おまえが一人で責任を取るんだ。ほかの二人は勘弁してやる。それで文句はないな?」
 ジーンズがうなずいたので、私はチビに言った。「おまえたちはうちへ帰れ」彼が何か抗弁しようとしたので、私は大きい声を出した。「こいつの腕が折れてもいいのか。おまえも警察へ行きたいのか」
「ヤスオ、さっさと帰っちまえ!」と、ジーンズが叫んだ。
 チビは足を引きずりながら革ジャンパーに近寄って、助け起こした。革ジャンパーはまだ呼吸が苦しそうな顔で、のろのろと立ち上がった。二人はこっちに背を向けて歩きはじめた。
「待て」と、私は彼らを呼び止めた。二人はびくっとして立ち止まった。
「一緒じゃない。それぞれ反対の出口から出るんだ。そして、まっすぐうちへ帰れ。警察では、おまえたちはここにはいなかったことにする。いいな?」
 彼らはうなずいて、右と左に小走りに去って行った。私は一分間待って、ジーンズの少年の腕を放した。彼は顔をしかめて、感覚を失っている腕をさすった。私は元のベンチに腰をおろした。私は疲れていて、気分が悪かった。子供に暴力を振るって嬉しい人間はいない。
「どうするんだよ? さっさと警察へ行こうぜ」と、少年が年相応の声で言った。
「行きたけりゃ、勝手に一人で行け」と、私は言った。もう、うんざりだった。おそらくこの連中は、次はもっと楽に勝てそうな相手を見つけて、今夜の屈辱を倍にして晴らすだろう。「もう帰ってくれ。おれの気が変わらないうちに」
 少年はまだぐずぐずしていた。「あんたはサツの人じゃないのか。それとも、どっかの組の人?」
「馬鹿なことを言うな。おまえたちは、ただの中年男にやられたんだ」
 少年は納得のいかない顔だった。「でも、何か格闘技かトレーニングのようなことをやってんだろう?」
 私は苦笑した。「違う。おまえたちは三人いたから負けたんだ。もし、あの革ジャンパー一人だったら、おれはいまごろ大怪我をしてるさ」
 少年はしばらく考えていたが、やがて他の二人とは別の出口に向かって歩いて行った。
「何かあったんですか」
 辰巳玲子がベンチの横に立って、公園を出る少年と私を見較べていた。彼女は紺色のサージのコートをはおっていた。
「いや、大したことじゃない。タバコをくれと言うんでね」
「まあ、まだ高校生くらいでしょう? あげたんですか」
「ええ……でも、口に合わなかったようだな」
「そう?」
「そんなところです」私はベンチを移動して、彼女の坐るスペースを作った。
「どうも、遅くなって申しわけありません」と、彼女は言って、私の隣りに腰をおろした。「錦織さんは、あなたと至急連絡を取りたがってらしたそうですよ。父がそうお伝えしろって」
 私はうなずいた。「警部はほかに何か言ってましたか」
「佐伯さんのことを父にいろいろ訊ねてらしたようです。沢崎さん、一つお訊きしたいことがあるんですが、構いませんか」
「どうぞ」彼女が何を訊きたいのか、私には判っていた。
 彼女はそれを訊いた。「佐伯さんは警察の追及を受けるようなことをしているのでしょうか」
 点滅する外灯のせいで、私の返事を待つ彼女の顔が、秒読みでもしているように暗くなったり明るくなったりした。佐伯のマンションに転がっていた死体のことを考えると、答えはイエスだが、佐伯がその死に責任があるかどうかは何とも言えなかった。
「それは判りません。少なくとも今のところは、そうだと言えるようなことは何もない」
「そうですか……」と、彼女は小さな声で言った。「名緒子さんもご心配でしょうね」その言葉には、年下のライバルに対する同情がこもっているように聞こえた。
 私はこの逢曳きの目的を彼女に思い出させた。「それで、私に何か──?」
 彼女は話のいとぐちを探すように、自分の両手を見つめた。やがて、顔をあげて言った。「先週の木曜日に、佐伯さんと会ったときのことを話しておくべきだと思ったんです。わたしが中野に住んでいることはご存知でしょうか」
「いや」
「佐伯さんのマンションから十分足らずの所で、少し国電の中野駅寄りのアパートなんです。以前は両親と一緒にお店の上のマンションに同居していましたが、自分だけのスペースが欲しくなって、去年から一人住まいを始めたんです。佐伯さんのマンションのすぐ前に〈ルナ・パーク〉という喫茶店があるのをご存知ですか」
「確か、黄色い日除けのある、ガラス張りの──」
「ええ、そうです。わたしは自分のアパートを出て丸ノ内線の新中野駅へ行くのに、いつもちょっと回り道をして、そのルナ・パークの前を通ることにしています。そうすると、月に三、四回、そこでコーヒーを飲んでらっしゃる佐伯さんに会うことができるんです。父が申したかも知れませんが、わたしは佐伯さんに好意を持っています。ルナ・パークや両親の店で、そうやって佐伯さんの相手をしているときが、わたしの一番幸せな時間なのです。おかしいでしょうか」彼女はあとのほうを挑むような口調で言った。
「おかしいときは笑いますよ」と、私は穏やかに言った。
「そうですわね」彼女は表情をやわらげた。「わたしは名緒子さんに直接会ったことはありません。でも、佐伯さんのお話で聞くかぎりはとても素敵な奥様だと思っています。だから、ときには自己嫌悪に陥ることもありますけど、佐伯さんとわたしのあいだは決してそれ以上の関係ではありません……こんな前置きは退屈ですわね」
「いや。しかし、先を聞きましょう」
 彼女は話を続けた。「先週の木曜日は、遅めのお昼をすませてアパートを出ましたから、ルナ・パークで佐伯さんに会ったのは二時に近い頃だったと思います」
 私に分かっている佐伯の行動は、その日の一時に新宿署の錦織に電話を入れたのが最後だった。
「あの日のことは、いつもと違うことばかりでよく憶えています」と、彼女は言った。「まず、佐伯さんのほうが先にわたしに気づいて、店の中からわたしに合図してくれたんです。いつもは、たいてい本や新聞を読んでらっしゃるところへ、わたしのほうから声をかけるというパターンなんですけど。それから、三十分ほど普段と同じような話をして、最後に佐伯さんはわたしたちに何かプレゼントをしたいとおっしゃったんです。いろいろと世話になっているお礼に、父と母とわたしの三人に。近くちょっとした収入があるんだ、とおっしゃいました。もちろん、わたしはお断わりしたんですが、佐伯さんはすっかりその気で、わたしの言うことなんか聞き入れてもらえません。結局、今度会うときまでに、父と母には何がいいか、二人の欲しいものを探り出しておくように約束させられました。わたしへのプレゼントはもう決めているけど、まだ内緒だとおっしゃいました。そんなことは初めてのことですし、わたしがどんなに嬉しかったか……女にとって、好きな人からプレゼントをいただくって気持は、男の方には想像もつかないでしょうね。でも、もしかしたらその収入というのが今度の佐伯さんの失踪と関係があるかも知れないと思うと、居ても立ってもいられなくて、あなたにお話ししておこうと決心したんです」
「なるほど。その収入がどこからどういうわけで入るのか、彼はあなたに話しませんでしたか」話すはずがない。訊くまでもないことだった。
「いいえ……でも、その金額をおっしゃったんですけど、冗談なのか本気なのかよく分からなくて──」
「ほう、いくらだと言ったんです?」
「それが、五千万円だそうです……まだ、皮算用だと笑ってらっしゃったけど」
 その夜、佐伯が手に入れる予定だった離婚の慰謝料と同じ金額だった。園内がいっそう静まりかえったような感じで、外灯の点滅する音までが聞こえて来そうだった。彼女は落ち着かない様子で、コートの襟もとをかき合わせた。
「いつもと違うことが、もう一つあったんです」彼女は無言でいることを恐れるように、口早やに言った。「今日はいろいろと忙しいんだとおっしゃって、佐伯さんのほうが先に喫茶店を出られたんです。わたしは学生時代の友達との待ち合せまで時間があったので、もう少し残ることにしました。それで、ルナ・パークを出てマンションのほうへ戻られる佐伯さんを見送っていると、ちょうど青梅街道のほうから走って来た車が、クラクションを鳴らして佐伯さんを呼び止めたんです。佐伯さんは車のところへ引き返してくると、車の後ろの座席にいる人とちょっと言葉を交わしました。そして、佐伯さんがその人の隣りに乗り込むと、その車はスタートして走り去ったんです」
「どんな車だったか憶えていますか」と、私は訊いた。
「ええ。濃い紺色の大きな外車で、あれはたぶん──」
「メルセデス・ベンツですか」
「──だと思います」
「後部座席に乗っていた人物の顔を見ましたか」
「ええ。スタートするときに、こっち側の窓に顔を近づけて外をごらんになったので」
「では、誰だか分かりましたね」
「ええ。新聞や雑誌でよくお見かけしますから。たぶん、名緒子さんのお母さんだったと思います」
〈東神グループ〉の相談役・更科頼子、更科修蔵の妻だ。
「それ以後、佐伯さんには会っていないのですか」
「ええ」と、彼女は力のない声で言った。彼女の不安な気持が、公園の夜気を通して伝わってくるようだった。
 私は彼女の話が終わったことを確かめ、用心のために彼女を店まで送ることにした。彼女に気づかれないように、ベンチの下から三人組のチビが残していったナイフを拾うと、たたんでコートのポケットにしまった。
 私たちは公園を出て、往来の絶えた通りを〈サウス・イースト〉の見えるところまで歩いた。彼女が別れ際に言った。「佐伯さんを捜していただくために、父とわたしであなたを雇うことはできないでしょうか」
 私は頭を振った。「同じ仕事で、別の依頼人をもつわけにはいかないのです。だが、あなたが依頼人に負けないくらい佐伯氏のことを心配していることは解ったつもりです。とにかく、あなたの話は大変役に立った」
「是非、佐伯さんを捜し出して下さい。お願いします」
 辰巳玲子はお寝みと言って、サウス・イーストのほうへ駈け去った。
 私はタバコに火をつけて、新宿駅のほうへ歩きはじめた。事務所に着くのは九時頃になりそうだった。真面目で、熱心で、信用できて、腕のいい探偵だったら、今頃は自分のベッドでぐっすり眠れていたろうに。

次章へつづく

次回は2月20日(火)午前0時更新

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