見出し画像

「ゲノム編集」で生まれたデザイナーベビーは、人類に何をもたらすのか?ーー科学ノンフィクションの名著『遺伝子‐親密なる人類史‐』冒頭試し読み②

試し読み①はこちら

プロローグ――家族(続き)

 私が子供だったころも、そして大人になってからも、モニとジャグとラジェッシュは私たち家族の想像力の中で途方もなく大きな役割をはたしていた。十代の不安をもてあそんでいた六カ月間、私は両親と口をきくのをやめ、宿題を提出するのをやめてゴミ箱に捨てた。父は言葉では言い表せないほどの心配に駆られ、ジャグに診断をくだした医師のもとへ私を引っぱっていった。「今度はうちの息子の頭がおかしくなったのだろうか?」一九八〇年代初めに記憶力が衰えてくると、祖母は、私をまちがってラジェッシャー(ラジェッシュ)と呼びはじめた。初めのうちは恥ずかしそうに顔を赤らめ、まちがいを直すことができたが、現実との最後のつながりが断ち切れてしまったあとは、まるでファンタジーという禁断の喜びを発見したかのように、ほとんど意図的に呼びまちがえをしているかのように見えた。私は、いずれ妻となるサラとの四度目か五度目のデートのときに、いとことふたりのおじの精神の病について話した。未来の妻には警告状を見せておくのが公正だと思ったからだ。

 そのころには、遺伝、病気、正常、家族、アイデンティティは家族の会話の中に繰り返し登場するテーマになっていた。多くのベンガル人と同じくうちの両親もまた、感情の抑圧や否定を芸術の域にまで高めていたが、それでも、モニ、ラジェッシュ、ジャグという三人の人生がさまざまな精神疾患によって壊されてしまったという歴史について疑問を投げかけないわけにはいかなかった。この家族の歴史の裏に遺伝的要素が潜んでいることを否定するのはむずかしかった。モニは精神疾患にかかりやすくなる遺伝子を、あるいは遺伝子の組み合わせを受け継いだのだろうか? ふたりのおじに影響をおよぼしたのと同じ遺伝子を受け継いだのだろうか? 家族の中にはほかにもべつのタイプの精神疾患を患った者はいなかったのだろうか? 私の父は少なくとも二回、解離性遁走を発症しており、いずれの場合もバングー(すりつぶした大麻の芽をギーで溶かしてかき混ぜた飲み物で、宗教的な祭りで出される)を飲んだことが誘因となった。それもまた、同じ家族の歴史の傷に関係しているのだろうか?

 二〇〇九年に、スウェーデンの研究者が、何千もの家系の何万人もの男女を対象とした大規模な国際的調査の結果を発表した。調査によれば、複数の世代にわたって精神疾患の患者が存在する家系を分析した結果、双極性障害と統合失調症には強い遺伝的な関連があるという驚くべき証拠が見つかった。例として挙げられている家系の中には、私の家系にとてもよく似た精神疾患のパターンが見られるものがあった。兄弟のひとりが統合失調症を患い、もうひとりが双極性障害を患い、甥または姪が統合失調症を患っているといったようなパターンだ。二〇一二年、いくつかのさらなる調査によって、そうした初期の結果の正しさが裏づけられ、ふたつの精神疾患と家系の関連性がより確かなものになると同時に、病因、疫学、誘因、刺激因子についての疑問がいっそう深まった。

 コルカタへの旅から二カ月後のある冬の朝、私はニューヨークの地下鉄の中でそうした研究についての論文をふたつ読んだ。通路の向こうでは、グレーの毛糸の帽子をかぶった男性が息子にグレーの毛糸の帽子をかぶせようと悪戦苦闘していた。五九丁目で、母親が双子を乗せたベビーカーを押しながら乗り込んできた。双子は私にはまったく同じに聞こえる声で叫んでいた。

 こうした研究の結果を読んで、私の心は不思議と鎮まった。父と祖母をずっと悩ませていた疑問のいくつかが解決したからだ。だがその一方で、新たな疑問が次々と生まれていった。モニの病気が遺伝的なものだとしたら、なぜ彼の父と姉は発症しなかったのだろう? どのような「誘因」がこうした素因の覆いを取ったのだろう? ジャグとモニの病気はどの程度が「生まれ」(精神疾患の素因となる遺伝子)によるもので、どの程度が「育ち」(社会的激変、仲たがい、トラウマなどの誘因)によるものなのだろう? 私の父も素因を持っているのだろうか? 私もその遺伝子のキャリアなのだろうか? 原因となる遺伝子の欠陥がどういったものなのか知ることができたら? 私自身は遺伝子検査を受けるだろうか? ふたりの娘に検査を受けさせるだろうか? その結果をふたりに伝えるだろうか? ふたりのうちひとりだけが原因遺伝子を受け継いでいたら、どうすればいいのだろう?

 精神疾患の家族歴がまるで越えてはならない一線のように私の意識の中に存在しつづけているあいだ、腫瘍生物学者としての私の科学研究もまた、遺伝子の正常と異常という点に集約していた。がんというのは、遺伝子の性質が極度にゆがめられた結果、もたらされる病だと言っていいだろう。すなわち、自らを複製することに病的なまでに取り憑かれたゲノムによって生み出されるのだ。自己複製マシーンと化したゲノムは細胞の生理機能を利用し、次々と形を変える病をもたらす。治療法の大きな進歩にもかかわらず、いまだに完治させようとするするわれわれの努力をいとも簡単にはねつける病だ。

 しかしがんを研究するということは、その反対の現象を研究することでもあるのだと私は気づいた。がんの旋律(コーダ)によって改悪される前の正常な遺伝コードとはどんなものなのだろう? 正常のゲノムは何をしているのだろう? ゲノムはわれわれ人間の画一性をどう維持し、その一方で、多様性をどう維持しているのだろうか? ついでに言えば、画一性と多様性、さらには正常と異常はゲノムの中でどう定義され、どのように書かれているのだろうか?

 もしわれわれが意図的に遺伝暗号を変えられるようになったら、どうなるだろう? そのような技術が手に入るようになったら、誰がそれを管理し、誰がその安全性を確保するのだろう? 誰がその技術の持ち主になり、誰が犠牲者になるのだろう? 人類がそうした知識を獲得し、管理するようになったなら、そして、その知識がわれわれの私生活や公的生活に避けがたく影響をおよぼすことになったなら、社会や、子供や、自分自身についてのわれわれの考え方はどう変わるだろう?

ビルゲイツと本書をめぐって対談する著者(英語)

 本書は、科学の歴史上最も強力かつ危険な概念のひとつである「遺伝子」の誕生と、成長と、未来についての物語である。「遺伝子」とは、遺伝の基礎単位であり、あらゆる生物情報の基本単位だ。「危険」という最後の形容詞を、私は完全に意図的に使っている。世界を根本から揺るがすような三つの科学的概念が二〇世紀を三等分した。原子と、バイトと、遺伝子だ。どれも一九世紀にはすでに予示されていたが、二〇世紀に入ってからいきなり脚光を浴びるようになった。どれも初めはかなり抽象的な科学的概念として誕生したが、やがてさまざまな議論の中に入り込んでくるようになり、その結果、文化や、社会や、政治や、言語を変えた。しかし三つの概念の最も重要な類似点はその考え方だ。いずれもより大きな全体を構成する基礎的要素であり、原子は物質の、バイト(ビット)はデジタルデータの、遺伝子は遺伝と生物学的情報の基本的な最小限の単位である【†1】。

 大きな全体を構成する最小単位であるという特徴によって、こうした概念はなぜこれほど力強い影響力を持つのだろうか? 簡単に言えば、物質も、情報も、生物学も本質的には階層構造だからであり、全体を理解するにはその最小の部分を理解することが不可欠だからだ。詩人のウォレス・スティーヴンズは言語の深い構造的な謎について「部分の総和の中には、部分しかない」と書いている。ある文の意味を理解するには単語ひとつひとつを残らず理解するしかないが、ひとつの文には単語の総和よりも多くの意味が含まれている。それは遺伝子にもあてはまる。個体というのはもちろん、その遺伝子以上のものだが、個体を理解するには、まずはその遺伝子を理解しなければならない。オランダの生物学者フーゴ・ド・フリースが一八九〇年代に遺伝子という概念に出会ったとき、彼はとっさに、遺伝子という概念は自然界についてのわれわれの理解を変えるにちがいないと悟った。「生物の世界全体が実のところ、それほど多くはない因子をさまざまに組み合わせたり、並べ替えたりした結果なのである……ちょうど物理学や化学が、もとをたどれば分子と原子に行き着くのと同じように」

 原子も、バイトも、遺伝子もそれぞれのシステムについてのまったく新しい科学的、技術的な理解をもたらした。物質の原子の性質を引き合いに出さなければ、なぜ金は光るのか、なぜ水素は酸素と混ざると燃えるのかといったような物質のふるまいを説明することはできない。デジタル情報の構造を十分に理解しなければ、アルゴリズムの性質や、データの記憶や破壊といったコンピューティングの複雑性を理解することはできない。「錬金術はその基本単位が発見されないかぎり化学にはなりえない」とある一九世紀の科学者は書いている。同様に、遺伝子という概念をまず最初に念頭に置くことなしに、生物や細胞の生物学や病理学、さらには行動、気質、病気、人種、アイデンティティ、運命といったものを理解することはできない。

 ここで二番目の問題が生じる。原子科学を理解するということは、物質を操作するために(さらには、物質を操作することによって原子爆弾を発明するために)不可欠な前段階だった。遺伝子を理解したことで、われわれはこれまでにないほど巧妙かつ強力に生物を操作できるようになった。遺伝暗号の実際の性質というのは驚くほど単純だということが判明している。われわれの遺伝情報を運ぶ分子はたったひとつであり、暗号もひとつしかない。「遺伝という現象が根本的には非常にシンプルだと判明したことで、われわれは、自然を完全に理解できるという希望を得た」と著名な生物学者であるトマス・モーガンは書いている。「これまでずっと、自然というのは不可解だと言われつづけてきたが、今度もまた、それが幻想だということが判明した」

 われわれはすでに遺伝子を非常に詳しく、深く理解しており、今ではもう試験管の中ではなく、ヒトの細胞の中という本来の場所で遺伝子を調べたり、変化させたりできるようになった。遺伝子は染色体上に存在している。染色体とは細胞の核の中にある長い線状の構造体で、そこには鎖状につながった何万もの遺伝子が含まれている【†2】 。ヒトの染色体は全部で四六本で、父親と母親から二三本ずつ受け継いでいる。生物の持つ全遺伝情報はゲノムと呼ばれる(ゲノムとは、脚注、注釈、情報、参考文献などがついた全遺伝子の百科事典のようなものである)。ヒトゲノムにはヒトをつくり、修復し、維持するための主な情報を提供する二万一〇〇〇から二万三〇〇〇個の遺伝子が含まれている。過去二〇年のあいだに遺伝子を操作する技術が急速に進歩した結果、われわれは今では、遺伝子が複雑な機能をはたすために時間と空間の中でどのように働いているのかを理解できるようになった。そしてときには、いくつかの遺伝子を意図的に変化させることによってその機能を変化させ、その結果、ヒトの状態や、生理機能や、本質を変化させられるようになった。

 説明から操作へと向かうまさにこの移行によって、遺伝学という分野は科学の領域をはるかに超えた広範囲にわたる影響力を持つに至った。遺伝子がヒトのアイデンティティや性的傾向や気質にどう影響を与えているかを理解しようと努めることと、遺伝子を改変させることでヒトのアイデンティティや性的傾向や行動を変化させることを想像するのはちがう。最初の考えに夢中になるのはおそらく、心理学部の教授や、その隣の神経科学研究部の研究者たちだけかもしれないが、将来性と危険性に満ちた二番目の考えは、われわれ全員に関係しているのだ。

 本書を執筆しているあいだにも、ゲノムを持つ生物が、ゲノムを持つ生物の遺伝的特徴を変化させる方法を手に入れようとしていた。つまりこういうことだ。二〇一二年から二〇一六年という短い期間のあいだに、われわれはヒトのゲノムを意図的かつ永久に変える技術を生み出し(「ゲノム工学」というこの技術の安全性や精度については今後も慎重に調べる必要がある)、それと同時に、ゲノムをもとにして個人の運命を予測する能力を飛躍的に進歩させた(とはいえ、この技術がどの程度の予測能力を持つかはいまだに正確にはわかっていない)。われわれは今ではヒトのゲノムを「読む」こともできるし、三、四年前には想像もつかなかったようなやり方でヒトのゲノムを「書く」こともできるようになった。

 分子生物学や、哲学や、歴史学の博士号など持っていなくても、このふたつの出来事が重なれば、人類がいきなり危険な時代に突入するはずだということに気づくはずだ。人間ひとりひとりのゲノムに書かれているのがどんな運命なのかがわかるようになり(たとえそれが確実なものではなく、単なる可能性だったとしても)、われわれがその可能性を意図的に変える技術を手に入れたなら、人類の未来は根本的に変わる。「人間という言葉を使うたびに、批評家はたいていその言葉を無意味なものにする」とジョージ・オーウェルは書いている。私はひょっとしたら大げさすぎるのかもしれないが、われわれが人間のゲノムを理解し、操作する能力を手に入れたなら、「人間」とは何を意味するのかというわれわれの考えは変わってしまうはずだ。

 原子は現代物理学の原理的な体系を提供し、物質とエネルギーを支配できる未来がやってくるかもしれないという可能性をわれわれに突きつけた。遺伝子は近代生物学の原理的な体系を提供し、人間の身体と運命を支配できる未来がやってくるかもしれないという可能性を突きつけた。遺伝子の歴史に埋め込まれているのは「不老の探究、運命の突然の逆転というファウスト的な神話、完璧な人間に対する今世紀のわれわれの関心」だ。しかしそれと同時に、自分たちの仕様書を解読したいという欲求も埋め込まれており、その欲求こそが、本書の中心テーマである。

 本書は経時的かつテーマごとに書かれているが、全体的に見れば歴史書である。われわれはまず一八六四年、モラビア地方の小さな町にある、世界から隔離されたような修道院内のメンデルのエンドウマメの庭から出発する。「遺伝子」はそこで発見され、そしてすぐに忘れ去られた(「遺伝子」という言葉が登場したのはそれから何十年もたってからのことだ)。やがて物語はダーウィンの進化論と交差し、イングランドやアメリカの改革論者が遺伝子に夢中になる。彼らが望んでいたのは、ヒトの遺伝を操作することによって、進化と解放を促進することだった。そうした考えは一九四〇年代、ナチスドイツの時代に不気味な頂点に達し、グロテスクな人体実験を正当化するために優生学が利用され、最終的に、強制収容、断種、安楽死、大量殺戮へと至った。

 第二次世界大戦後の一連の発見によって、生物学の革命が始まった。遺伝情報の源であるDNAが発見され、遺伝子の「働き」が解明された。「遺伝子は生物の形や機能を生み出すタンパク質をつくるための化学的なメッセージをコードしている」という働きだ。ジェームズ・ワトソン、フランシス・クリック、モーリス・ウィルキンズ、ロザリンド・フランクリンがDNAの三次元構造を解明し、二重らせん構造という象徴的なイメージを生み出した。そして、三文字からなる遺伝暗号が解読された。

 一九七〇年代にはふたつの技術によって遺伝学に変革が起きた。遺伝子塩基配列決定とクローニング、つまり遺伝子を「読む」技術と、「書く」技術だ(「遺伝子クローニング」とは、生物から遺伝子を取り出し、試験管の中で操作して遺伝子のハイブリッドを作製し、生きた細胞の中でそのハイブリッドの無数のコピーをつくり出す技術全般を含む)。一九八〇年代、人類遺伝学者はこうした技術を用いて、ハンチントン病や嚢胞性線維症などの病気に関係する遺伝子の染色体上の位置を突き止めたり、遺伝子を同定したりしはじめた。病気に関係する遺伝子が同定されたことは、新時代の到来の前兆となった。親が胎児の遺伝子を調べ、胎児に有害な遺伝子変異があるとわかった場合には、堕胎することが可能な時代だ(ダウン症候群や、嚢胞性線維症や、テイ・サックス病の出生前診断をすでにおこなったことのある人や、BRCA1、BRCA2遺伝子の検査を受けたことのある人はすでに、遺伝子の診断、管理、最適化の時代に足を踏み入れたのである。これは遠い未来の話ではない。われわれの現在にすでに埋め込まれている話なのだ)。

 ヒトのがんでは多数の遺伝子変異が見つかっており、がんを遺伝子レベルでより深く理解できるようになってきた。こうした努力は、ヒトゲノムの全塩基配列を解析する国際的なプロジェクトであるヒトゲノム計画という形で実を結び、二〇〇一年には、ヒトゲノムの下書き版(ドラフト配列)が発表された。ヒトゲノム計画をきっかけに、ヒトの多様性や「正常な」行動を遺伝子レベルで説明するための研究が活発化した。

 遺伝子は人種や、人種差別や、「人種の知能」という話題の中に入り込み、政治や文化の最も重要な問題に対する驚くべき答えを提供する。遺伝子はさらに、性的傾向、アイデンティティ、選択についてのわれわれの理解を根本から変え、そうすることで、個人にとって最も差し迫った問題の中心にまで切り込んでくる【†3】。

 こうしたそれぞれの物語の中にはさらにいくつもの物語が含まれている。だがそれと同時に、本書はきわめて個人的な物語でもある。私にとってなじみ深い歴史についての物語なのだ。遺伝の重みは私にとって、単なる抽象概念ではない。ラジェッシュとジャグは死に、モニはコルカタの施設に収容されている。だが三人の男の人生と死は、科学者としての、人文学者としての、歴史学者としての、医師としての、息子としての、父としての私の考え方に想像以上に強い影響をおよぼしてきた。大人になってからは、遺伝や家族について考えなかった日は一日もない。

 ここでどうしても言っておかなければならないのは、私には祖母に恩義があるということだ。祖母は長年、遺伝のもたらす悲しみを味わいつづけた。結局、悲しみを乗り越えることはできなかったが、子供たちの中で最も弱い者を抱擁し、強者の意志から守った。歴史の荒波を精神的な回復力で乗り越えた。しかし祖母が遺伝の荒波を乗り越えられたのは、精神的な回復力以上の何かがあったからだ。そう、寛大さだ。祖母の子孫である私たちは、祖母のようになれることを願うしかない。本書を祖母に捧げる。


【†1】 ここでいうバイトとはかなり複雑な概念を指している。馴染みのあるコンピューター・アーキテクチャのバイトだけではなく、より一般的かつ神秘的な概念のことだ。すなわち、自然界のあらゆる複雑な情報というのは、「オン」と「オフ」の状態についての情報だけを含む個々の情報の総和として描写することができる、あるいはコードされているという概念だ。この概念のより詳細な説明と、それが自然科学および哲学におよぼす影響については『インフォメーション 情報技術の人類史』(ジェームズ・グリック/楡井浩一訳、新潮社)を参照されたい。この理論は一九九〇年代に物理学者のジョン・ウィーラーによって最も強力に提唱された。「あらゆる粒子、あらゆる力の場、さらには時空そのものすら、その機能と、意味と、存在そのものをイエスかノーの答え、二値選択、ビッツから引き出している。要するに、あらゆる物理的なものは理論上、情報理論的なのだ」バイト(ビット)は人が考え出したものだが、その根拠となるデジタル情報の理論というのは美しい自然法則なのだ。

【†2】 細菌では、染色体が環状をなしている。

【†3】 遺伝子組み換え生物(GMO)、遺伝子特許の未来、新薬の発見や生合成への遺伝子の利用、新たな遺伝子を持つ種の創造といった話題については、それぞれが一冊の本に値するものであり、本書の範囲を超えている。

(「プロローグ――家族」了。続きは本をご覧ください)

監修者・仲野徹先生の解説はこちら

著者紹介 シッダールタ・ムカジー Siddhartha Mukherjee
医師、がん研究者(血液学、腫瘍学)。コロンビア大学メディカル・センター准教授を務める。1970年、インドのニューデリー生まれ。スタンフォード大学(生物学専攻)、オックスフォード大学(ローズ奨学生。免疫学専攻)、ハーバード・メディカル・スクールを卒業。
デビュー作『がん‐4000年の歴史‐』(2010年。邦訳は早川書房刊。旧題『病の皇帝「がん」に挑む』)は、ピュリッツァー賞、PEN/E・O・ウィルソン賞、ガーディアン賞など多くの賞を受賞し、《タイム》誌の「オールタイム・ベストノンフィクション」にも選ばれた。本書『遺伝子‐親密なる人類史‐』(2016年)も《ニューヨーク・タイムズ》ベストセラー・リストの「ノンフィクション部門」1位を記録し、32カ国に版権が売れている。

TEDトークで語る著者(英語・日本語字幕あり)

(画像はアマゾンにリンクしています)

シッダールタ・ムカジー『遺伝子-親密なる人類史-』(上・下、仲野徹・監修、田中文・訳、本体各2,500円+税)、『がん‐4000年の歴史‐』(上・下、田中文・訳、本体各920+税)は、早川書房より好評発売中です。

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!