そして夜は甦る2018

原尞、14年ぶりの新作『それまでの明日』本日発売!伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第20章。

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに本日2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行します。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開いたします。連載は、全36回予定。

本日は第20章を公開。

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そして夜は甦る』(原尞)

20

〈ハリー・ライム〉の店内では、中野署の二人の刑事はチェス盤の中に迷い込んだ二個の将棋の歩のように目立った。インテリア雑誌のグラビアに載せるためにデザインしたようなこの店の客層は、ファッション雑誌から抜け出たような男女ばかりなのだった。なにしろ、コーヒーと注文するだけで、生クリームだのシナモンだのナッツだのと頼みもしないものがついて来て、ウィンナー・コーヒー一杯五百円也を徴収されることになっているからだ。あわててメニューを見直しても、それより低予算ですませたければ無銭飲食しか方法はなかった。ぶらさがりの背広に千円均一のネクタイ、着古したスリー・シーズン・コートに擦り減った模造皮の靴、すこぶる短い髪にいかつい顔の男の二人組は、開店以来の珍客に違いない。しかも、彼らは尾行のセオリー通り出入口にいちばん近いボックスに陣取っていた。
 目立つという点では私も彼らにひけを取らなかったが、こちらは優雅な連れのお蔭で、刑事たちのようにうつむいて場違いな雰囲気に耐える必要はなかった。彼女は店の奥の、若き日のオーソン・ウェルズが人を食った微笑を浮かべている壁一面の拡大写真の前に坐っていた。午前十時過ぎだと言うのに、店内は七分の入りでざわついていた。
「どうも。昨夜は眠れましたか」私は彼女の向かいに腰をおろした。
「ええ、何とか」と、彼女は言って微笑した。昨日の装いとはがらりと変わって、ライムグリーンのVネックのセーターと黒いスラックスに、緑と黒のヘリンボンの上衣をはおっていた。濃い緑色の珠をつないだ首飾りをしていたが、それよりもVネックからのぞいている色白の肌のほうが輝いて見えた。ハンドバッグも黒に変わっていた。
「入口のそばにいるコートの二人連れがそうですね」と、私は訊いた。
 彼女は彼らのほうを見ないで、うなずいた。蝶ネクタイをしたウェイターが注文を取りに来たので、五百円のコーヒーを頼んだ。レイ・バンのサングラスの男が入って来て、私たちと刑事たちのちょうど中間に空席を見つけた。腰をおろすより早く、〝清原、西武入り濃厚〟という赤い大きな見出しのスポーツ紙を広げて、顔を隠した。店内にはギター独奏の音楽が流れていたが、思いのほか『第三の男』のテーマではなかった。
「初めに──」と、私は言った。サングラスの男に聞こえないように声を低くした。「佐伯氏のマンションで別れてからの調査経過を報告しておきます」
 佐伯の郵便受けから持ち出した府中第一病院の手紙のこと、海部と名乗った男が預けた封筒に入っていた伝票のこと、佐伯の先輩記者の辰巳と娘の玲子のこと、事務所に忍び込んだ侵入者のこと、海部雅美という女から訊き出した記憶喪失の男のこと、そして彼と佐伯との関係、最後に佐伯の行方を知っているらしい人物から電話があったことまでを、私は彼女に話した。彼女は聞いたことをよく理解しようとするように、しばらくオーソン・ウェルズの口許を見つめて考えにふけっていた。私は話の途中で届いたコーヒーを飲んだ。
 やがて彼女は私に視線を戻した。ここへ来る前に、銀行に寄って一週間分の探偵料を払い込んだと言った。そして、不安そうな顔で続けた。「主人の行方を知っているらしい人にお会いになる件ですけど……あの、危険ではないのでしょうか。つまり、警察に知らせなくてもいいのでしょうか」
 佐伯直樹の妻としては当然すぎる反応だった。
「方法は二つです」と、私は言った。「一つは、これから中野署へ出向いて知っていることを全部話し、警察の手にすべてを任せること──私の仕事は事実上、それで終わりです。警察は記憶喪失の男が再び私を訪ねてくる可能性を考慮して、おそらく張り込みの刑事と一緒に私を事務所に缶詰めにするでしょう。私が捜査の指揮を取っていればそうします。問題はご主人の身の安全という点でどうするのが最善かということです。警察に任せれば、私の責任は軽くなって大いに結構だが、果たしてそれが最善かどうかは誰にも判りません。もう一つの方法は、すべてを私に任せることです……あなたはその両方は望めない」
 彼女はすぐに心を決めた。「分かりました。あなたにすべてお任せしますわ」
 私はうなずいた。「では、これまでの調査で何か気づいたことはありませんか」
「佐伯が調べていたという、記憶喪失の人が関わった〝夏のある事件〟というのは何でしょうか」
「正確なことは分からないが、有力なのは七月の都知事選で起こった狙撃事件ではないかと思われます」
「やはり、そうですか。一つ思い出したことがあるのです。あの選挙のとき、〈東京新聞〉の遊軍記者として勤務している大学の同窓生の方から、佐伯に一緒に働かないかという話があったんですの」
「ほう……話して下さい」
「確か投票日の十日ほど前に、向坂候補を陥れようとするスキャンダルの怪文書が出て大騒ぎになりましたわね。あれで、自社のスタッフだけでは少々手薄になったから応援を頼むという電話がその方からかかって来たのを、わたしが受けたのです」
 私は佐伯の同窓だという記者の名前を訊いて、手帳に控えた。
「佐伯は記者に戻れるチャンスかも知れないと言って出かけました。でも、二、三日後にはすっかり気分を害して帰って来て、あの仕事は断わったと言うんですの。彼としては都知事選の取材に参加できるつもりだったのが、実際はスキャンダルの女性の、そのまた昔の愛人らしい男の住居を一晩中見張るようなことをさせられたらしくて……その話はそれきりになったと思っていたんですけど」
 向坂候補を陥れようとしたスキャンダルについては、昨夜読みかえした当時の新聞でも触れていた。ただし、噂の出所が発行者不明のいわゆる怪文書だったので、その扱いは簡略かつ慎重だった。騒ぎ立てたのは専ら写真週刊誌、三流芸能誌の類いだったはずである。怪文書の内容は、溝口敬子という未婚の母の生後九カ月になる男の子の父親は都知事候補の向坂晨哉氏で、彼はその子の母親のせめて認知だけはしてほしいという願いを頑なに拒否している、というものだった。その未婚の母は、向坂候補や彼の実弟で映画俳優兼プロデューサーの向坂晃司らの銀座の行きつけの高級クラブのママだった。向坂候補は、怪文書の内容は全く身に憶えのないことであるという声明を発表した。三大新聞やテレビはこのスキャンダルをまともに取り扱わなかったし、八百七十万人の選挙民の大勢もまともに受け取らなかったが、そこが怪文書の怪文書たる所以だった。その時点までは、向坂候補と三選を狙う革新系の対立候補・矢内原氏との情勢は五分と見られていたが、これでわずかながら後者が優位に立ったと判断した識者も少なくなかった。怪文書の発行者は所期の目的を果たしたわけで、祝杯を用意して選挙戦の大詰めを見守っていたに違いない。だが、思いがけない伏兵が登場して予想もしない逆転劇が起こったのだ。問題の銀座のクラブのママには、溝口宏という二十四、五才になる弟がいた。自衛隊、右翼団体、暴力団などを転々としたあげく、当時は多額の借金のために暴力金融に追われて行方をくらましていた彼が、自衛隊時代に扱いをおぼえた拳銃を手に入れて、立川駅頭で演説中の向坂候補を狙撃したのだ。「姉貴を侮辱した向坂という野郎にはおれがオトシマエをつける」と騒いでいたのを、彼の遊び仲間たちが耳にしていた。溝口が逃走の果てに死亡してしまったので、彼の犯行の背後関係の有無は不明のままだった。姉の溝口敬子は、怪文書の内容についても、弟の起こした狙撃事件についても沈黙を通したので、警察は何の確証も掴めなかった。彼女は弟の事故死のショックで入院したあと、マスコミの攻勢を逃れてどこかへ身を隠している、と新聞は報道していた。
 佐伯名緒子は、優雅な花模様のついた外国産の白磁のポットから、紅茶をカップに注いだ。私たちはこれまでの調査で判ったことについて、さらに二、三話し合ったが、これといったことは何も出て来なかった。
 私はタバコに火をつけて言った。「一つお願いがあります。ここでお話ししたことは、しばらく誰にも内緒にしていただきたい」
 彼女の顔にかすかに当惑の色が浮かんだが、佐伯の安全のために何を優先させるべきかはわきまえていた。「分かりました」と、彼女は答えた。
「昨日の電話で、ある人物に会うのに同行してもらいたい、と言ったのを憶えていますね」
「ええ、もちろんですわ」
「これから副都心の〈東神ビル〉へ行って、あなたの義理の母上に会います。相談役の更科頼子女史です」
 名緒子は思いがけない様子だった。佐伯直樹が更科頼子のベンツに乗車したという辰巳玲子の話は伏せていたので、彼女の驚きは当然だった。
「母上のオフィスへ電話を入れて諒解を取って下さい。佐伯氏の失踪に関する大事な用件だと言ってもらいたい。十一時にうかがうことにしましょう。東神ビルへは十分もあれば着ける。ただし、私が同行することは内密にして下さい」
「母のオフィスに電話することは滅多にありませんの」彼女はハンドバッグの中を探って、小さな電話帳を取り出した。「もう、問題は佐伯とわたしだけのことではなくなっているのですね」
「いつだってそうなのです。二人だけで生きていたわけではない。順調なときはそういうものは眼に入らないのです」
「そうですわね……ことさら、つらい気分になることはやめますわ」と言って、彼女は微笑んだ。「母に電話してきます。この対決はちょっと見逃せませんからね」
 彼女は席を立った。この弾力性のある心を持った女が、愛する夫とのあいだに何らかの確執を生じるようになった理由が、私にはもう一つ理解できなかった。この女に愛されていながら、幸せにできないと考える男──それが私の捜し出すべき男だった。
 二人の刑事とレイ・バンのサングラスの男が、名緒子を眼で追っていたが、行先がレジの後方にある電話ボックスだと分かると、さっと顔を伏せた。私は上衣のポケットから名刺を一枚とペンを出し、名刺の裏に急いで数行のメモを書きつけた。
〝私の身許は表記の通り。佐伯名緒子と私はこれから東神ビルへ行き、彼女の義母に面会する。逃げも隠れもしないし、彼女が佐伯直樹に密会することもない。それより、店の中央でスポーツ紙を読んでいる、紺のジャンパー、サングラスの男の身許を洗ってもらいたい。彼は私を尾行中で、佐伯直樹の行方についての手掛りを持っている可能性がある。不審があれば新宿署の錦織警部に問い合わせられたし〟
 このメモをどういう方法で中野署の刑事たち──彼らがそうだとして──に渡すか。刑事の一人がその問題に答えを出してくれた。彼女の電話が長引いているので安心したのか、若いほうの刑事が店の奥にあるトイレに立ったのだ。私は適当な時間をおき、タバコを消してトイレに向かった。
〝化粧室〟と書かれたドアの中は洗面所で、奥にさらにもう一つドアがあった。刑事はその向こうで用を足していた。まもなくドアが開いて彼が出て来たが、そこに私がいるのを見てぎょっとなった。三十代前半の童顔の男で、背は私より低いが柔道の軽量級三段といった体格だった。彼は「失礼」と言って、私の脇をすり抜けようとした。
「ちょっと待ってくれ」と、私は彼を呼び止めた。「きみらは中野署の刑事だね」
「いや、違いますよ。何か勘違いしてるよ」彼はどぎまぎして、眼をそらした。
「ほう、そうかね。それでは、二人組の怪しい男が妙齢のご婦人を自宅から尾けまわしていると、一一〇番したほうがいいのかな?」
 彼は童顔の奥で、この状況をどう切り抜けたらいいのか思案した。結局、尾行が失敗している以上騒ぎを大きくしないほうが無難だと判断したらしい。「分かったよ。その通り、われわれは中野署の者だ。それがどうしたと言うんだ?」
「警察手帳を見せてくれ」と、私は言った。「もっとも、近頃は警察手帳を所持しているから警察官であるとは限らないらしいが」
 彼の顔色が変わった。「あんたは何者だ?」
「まず、警察手帳だよ」と、私は催促した。
 彼は観念して上衣の内ポケットから警察手帳をちょっとのぞかせ、奪われることを恐れるかのように急いで引っ込めた。私は用意しておいた名刺を出して、最初にその表を彼に読ませた。それから、裏返しにして彼に渡した。「そこに書いたことを、同僚と相談してもらいたい。もし、オーケーなら……そうだな、あんたのコートを脱いでくれ。それが合図だ」
 彼がメモを読みかけたので、私は出口を指差して言った。「急ぐんだ。二人でここにいる時間が長過ぎる。それに、尾行中に小便しようなんてとんでもない料簡だぜ」
 彼は私を睨みつけると、名刺をポケットにしまって出て行った。私は三十秒待ってから、洗面所を出た。
 名緒子は電話を終えて席に戻っていた。「やっと母の承諾が取れたんですけど、どうしても挨拶をしておかなきゃいけない来客があるので、十一時十五分にしてくれって言うんですの。構いません?」
「もちろんです。一時間は待たされる覚悟でしたから」
「母は会長を辞めてからはそんなに忙しくはないんですよ。いまは会長の惣一郎兄さんがすべてを切りまわしているので、母はお飾りみたいなものらしいわ」
 私たちはどちらからともなくタバコを出して口にした。年配の刑事が席を立って電話ボックスに入った。レイ・バンのサングラスの男は周囲で何が起こっているのかも知らずに、相変わらずスポーツ新聞に首を突っ込んでいた。これだけ熟読すれば、今日の紙面に発表されている〈ダイヤモンドグラブ賞〉の十八人の選手とその得票数をそらで言えるに違いない。依頼人に視線を戻すと、昨日と同じ細身のライターで私のタバコにも火をつけてくれた。
「辰巳さんのお嬢さんて、どんな方かしら?」と、彼女が訊いた。
 私はゆっくりと煙を吐いた。「独身、三十才前後、背恰好はあなたと同じくらいで中肉中背、髪はかなり長く、明るい顔立ち、服装は商売柄少し派手め、しかし、落ち着いたしっかりした女性らしい」
 彼女は苦笑した。「いかにも探偵さんらしい報告ですわね。分かってらっしゃるでしょうけど、そういうことが知りたくて訊ねたのではありませんの」
「彼女は佐伯氏の失踪を非常に心配しています」
「佐伯に好意を持ってらっしゃるんでしょうか」
「彼女の心をのぞいてみたわけではないので、私には分かりませんね。しかし、彼女と彼女の父親が口にしたことなら伝えることはできる。聞きたいですか」
「ええ」と、彼女は恥ずかしそうに言った。
「これは料金外のサービスということにしましょう。辰巳玲子は佐伯氏が好きだと言いましたよ。彼女の父親も、娘は佐伯君に好意を持っているのではないかと言いましたね」
 彼女は複雑な顔をしていた。自分の亭主を好きな女がいると聞けば、嫌な気持が半分でいい気持が半分というところだろうか。顔は自然複雑にならざるをえない。
 電話ボックスの年配の刑事は一つ電話をかけ終えると、またダイヤルをまわしはじめた。おそらく最初は中野署で、次ぎは新宿署だろう。
「沢崎さんは、結婚なさっているんでしょう?」と、彼女がタバコを消しながら訊ねた。
「いや、独り者ですよ」と、私は答えた。
「まァ、どうしてですの? 独身主義なのですか」
「そんなことはない」
「どうして、結婚なさらないの?」
「プロポーズの仕方を知らないのです」と言って、私は笑った。「それに、私は女性の好みはうるさくないほうですが、一つだけ、探偵と結婚したがる女はあまり好みではないようですね」彼女も笑った。
 年配の刑事が二つめの電話を終えると、自分の席へ戻りながら同僚に耳打ちした。若い刑事は不服そうな顔をしたが、すぐにコートを脱いだ。
 私はタバコを消し、伝票を掴んで名緒子に訊いた。「誰があなたに私の身上調査を依頼したのです?」

次回は3月2日(金)午前0時更新

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