そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第23章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行しました。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開しています。連載は、全36回予定。

本日は第23章を公開。

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『そして夜は甦る』(原尞)

23

 新宿百人町の裏通りの写真屋は、入口のドアの把手に〝昼休み中〟の札がさがっていた。私は構わずに中に入って、大きな声で沢崎だと言った。黒眼鏡の写真屋が口をもぐもぐさせながら奥から現われ、でき上がった写真を入れた封筒を手渡した。
「あまりよく撮れたフィルムじゃなかったな。シャッターが切ってあったのは十二枚のうちの四枚だけだった。断わっとくが料金は変わらない」
 私はネガをそのままにして写真だけを封筒から取り出した。サービス・サイズのカラー写真が四枚と、モノクロでキャビネ判に引き伸ばしたものが三枚入っていた。最初の二枚のカラー写真には、一昨日の朝、事務所を訪ねて来て海部と名乗った男が写っていた。一枚目は遠くてぼやけていたが、二枚目には彼の特徴がはっきり写っていた。あのときと同じコート姿で、両手をポケットに突っ込んでこっちへ向かって歩いている。背景の感じでは、男が佐伯のマンションを訪れようとしているところを撮影したものだと思われる。それぞれ、十一月十四日と十五日の日付がプリントされていた。
 被写体は写真を撮られることに気づいていないように見えた。彼が自分の正体に抱いている不安と慎重さから考えると、簡単に自分の写真を撮らせるとは思えない。だが、佐伯にしてみれば本気であの男の身許を突きとめるつもりなら、写真は必需品のはずだ。写真なしで誰かを捜したり、誰かの身許を確認することがいかに困難であるか、私はよく知っている。佐伯があの男を盗み撮りする──ありえないことではなかった。
 三枚目のカラー写真には、ごたごたした街並みにビルや看板がやたらと写っていて、一見何を撮ろうとしたのか不明だった。四枚目も同じときに同じ街で撮影したものらしいが、こちらにははっきりした被写体があった。画面の左端に青色の乗用車がほぼ正面を向いて写っている。その車のそばに立っている男が、運転席にいる誰かと話しているように見える。少し遠いのは、彼らに気づかれない位置で撮影したからだろう。この二枚には十一月十九日──八日前である──の日付があった。
 私は三枚のモノクロ写真をカウンターの上に並べた。
「もとが悪いからそれ以上は引き伸ばせなかった」と、写真屋が言って、丸い黒眼鏡をずりあげた。
 一枚目は、海部と名乗った男の腰から上の引き伸ばし写真だった。記憶をなくしているかどうかは写真には写らない。帽子でもなくしたような気楽な男には見えなかった。二枚目は、車のそばに立っている男のこれも腰から上の引き伸ばしだった。カラー写真でもおぼろげながら分かったが、黒っぽいコートの腕にコウモリ傘を掛け、頭には濃いグリーンのチロル・ハットをかぶっていた。もちろん口ひげのある小太りの男だった。一度も会ったことがない男なのに、初対面という気がしなかった。三枚目は、青色の乗用車の前部の引き伸ばしで、ナンバー・プレートが写っているが非常に不鮮明だった。登録地名は品川、足立、練馬、多摩の中から選ぶとすれば練馬に見えるが、東京以外の地名ならほかに何とでも読めそうだった。ナンバーは3か8らしい数字がいくつかあるようだが、はっきり読める数字は一つもなかった。だが、然るべきナンバー・プレートを横に並べたら、それとこの写真のプレートが同じかどうかは見きわめられるだろう。フロント・グリルは〝日〟という字を横にした犬の鼻面のようなお馴染みのデザインで、BMWのものに違いあるまい。カラー写真で見ると、立っている男と話している運転者の顔は黒い影にしか見えないが、明らかに左の座席に坐ってハンドルを握っていた。私は七枚の写真を封筒に戻した。
「引き伸ばしのほうはサービスだ」と、写真屋が私の顔色を見て言った。「気に入ってもらえたかい?」
「当然のことを自慢してるうちはプロとはいえない」私は写真屋がぶつくさ言うのを聞き流して、店を出た。
 大久保通りの脇道で、佐伯名緒子を乗せたまま待たせておいたタクシーに戻って、私は運転手に言った。「新宿駅の南口へ行ってくれ」
 タクシーが動き出すのを待って、私は封筒から写真を取り出した。海部と名乗った男の写りのいいカラー写真と引き伸ばしたモノクロ写真を選んで、名緒子に渡した。
「水曜日の夜、佐伯氏のマークⅡの助手席にいた男ですか」
「ええ、そうです。たぶん、間違いないと思いますわ」
 私はその写真と引き換えに、ビルの建ち並んだ街の写真を彼女に渡した。「これはどこを撮影した写真か判りますか。ご存知の建物か何か写っていませんか」
 彼女はしばらく写真を見つめていたが、首を横に振った。「いいえ、知っている所だとは思えませんけど」
 私はうなずいて、今度はチロル・ハットの男が写っているカラーとモノクロ写真を見せた。彼女は最初のうちは見知らぬ男を見るような眼で二枚の写真を交互に見較べていたが、やがて引き伸ばしたモノクロ写真に注意を集中させた。
「ひょっとすると──」と、彼女は言った。
「誰か心当たりのある人物ですか」
「二、三年前に東神電鉄を辞めさせられた重役によく似ているようですわ。名前は、思い出せないんですけど」
「ほう。で、辞めさせられた理由を憶えていますか」
「宣伝担当のポストにいて背任横領があったと聞いたような気がします。確か、惣一郎兄さんは社長として自分の監督不行届きでもあるから、閑職にでもつけて穏便にすまそうとしたはずですわ。相談役の父は賛成しましたが、母が先代の方針を楯に取って強硬に反対したんです。この会社では何をしても馘にならないなどという悪い風潮ができたら取り返しがつかないという母の意見が通って、結局その重役は辞めさせられたはずです。ちょうどその頃、東神の創立五十周年の式典があって、その人が酒に酔って式場に現われたのです。わたしの眼の前で母に泣きついたり食ってかかったりして、警備員に連れ出されたことがありましたの。だから、顔もよく憶えています」彼女は写真の男に視線を戻した。「あの頃はたぶんひげはなかったと思いますけど、とてもよく似ていますわ」
 タクシーは青梅街道を横断して、新宿駅の西口を走っていた。行き交う人々は誰もが自分の問題を抱えていて、何かに急かされるように歩いていた。子供たちですらそうだった。
「あなたは会長秘書の長谷川氏の車をご存知ですか。BMWという外車ですが」
「ええ、知っていますわ」彼女は写真の青い乗用車に眼をやった。
「どうです、彼の車に見えますか。カラー写真の色は当てにならないが、彼のBMWもダークブルーだという話だった」
「そんな感じもしますけど、わたしは車のことはよく分かりませんわ」
 私は彼女から写真を受け取って、封筒に戻した。代わりにフィルムのネガを取り出して、彼女に渡しながら言った。
「これを保管しておいて下さい。馘になった重役のことや長谷川秘書のBMWのことはこちらで調べます。決して、誰かに問い合わせたりしないように」
 彼女は硬い表情でうなずき、ネガをハンドバッグにしまった。私は写真を入れた封筒をコートのポケットに戻した。腕時計を見ると、一時までに十五分ちょっとあった。
「一時に会う約束の例の人物が、この写真の男である可能性が高いのです。彼がその馘になった重役かどうか確認するのを手伝ってくれますか」
「もちろんですわ」と、彼女はためらわずに言った。
 私はタクシーが南口のほうへ左折する前に、〝京王線〟の駅ビルの〈ルミネ〉の角で止めた。ルミネの二階にある喫茶店でサンドイッチをコーヒーで流し込みながら、私たちは簡単な打ち合わせをした。それから喫茶店の電話を使って、海部雅美に連絡を取った。彼女のアパートは返事がなく、昨夜泊まった同業の女友達のところで彼女をつかまえた。海部氏からはまだ連絡がないことを聞き、こちらもまだこれといって進展がないことを話した。まもなく昨夜の電話の人物に会うことを告げた。それによっては今夜もアパートに帰るのは危険になるかも知れないので、調布のバーで私の連絡を待つように約束させて、電話を切った。一時を過ぎてから、私たちは新宿駅の南口へ向かった。

 その男は一目で判った。電話で予告した通り、グレーのレインハットとレインコートにコウモリ傘を持った、口ひげのある小太りの男で、私のポケットに入っている写真の男と同一人物だった。彼は改札口の端の仕切りに背中をあずけて、新聞を読んでいた。彼のほかには帽子をかぶった男も口ひげのある男も見当たらなかった。見知らぬ人間を待っているので、あたりを見まわしても仕方がないと思っているのか、おとなしく新聞を読んでいるのがこちらには好都合だった。私たちは国電の切符を買って改札口へ向かった。名緒子はスカーフで半ば顔を隠し、私の腕をとって二人連れを装っていた。私たちはその男のすぐ前を通り過ぎ、改札を通って駅の構内に入った。男からは死角になる位置まで行ってから、立ち止まった。
「あの重役に絶対間違いないと思います」と、彼女が言った。「でなければ、瓜二つの別人ということになるわ」
 私はうなずいた。「久我山で連絡を待っていて下さい」
「気をつけて下さいね」と、彼女は言って、駅の雑踏の中へ歩み去った。腕をとられたときから匂っていた彼女の香水の匂いも遠ざかって行った。
 私はタバコに火をつけ、レインハットの男を監視しはじめた。約束の時間をすでに十五分過ぎていたが、私は約束を守るつもりなどなかった。彼が会いたがっている人物になりすますことはとうてい無理な話だし、彼に必要以上の不安や疑惑を与えれば、佐伯の身に危険が及ぶ恐れがあった。非常にまれにではあるが、私は警察の人間に勘違いされることがあるのだ。そういう危険を犯すよりも、私は彼の正確な身許や住所、あるいはアジトのようなものを突きとめたかった。
 彼は五十代の半ばで、帽子の下の髪と口ひげにはかなり白いものが混じっていた。レインコートの前からのぞいているツィードのスーツやシルクのタイは金のかかったものらしかった。帽子だけでなく、衣服にも気をつかう男なのだ。この年齢になると人生の浮沈が否応なく顔に表われるものだが、彼の場合はどこか掴みどころのない屈折した顔つきをしていた。東神電鉄を背任横領で馘になった元重役だという佐伯名緒子の言葉が正しければ、あまり平穏とはいえない人生に疲れているようでもあり、自分を負け犬だとは認めないしたたかさを備えているようにも見えた。
 彼の忍耐力の限度は三十分だった。しきりに腕時計を見るようになり、そのうちに新聞を読むのをやめてしまった。新聞をたたんでコートのポケットに入れ、しばらく改札口の内と外や駅の出入口を見まわしていた。最後にもう一度腕時計を見て一時半を過ぎていることを確かめると、その場を立ち去る気配を見せた。私はすぐにあとを尾けるようなことはせず、彼の動きを眼の隅で追った。彼は改札口の隣りにある売店の前をまわって、黄色い公衆電話に近づいた。私との距離がかなり近くなったので、気づかれないように用心しなければならなかった。彼は上衣のポケットから手帳を取り出してページを繰ると、私のほうに背を向けて電話をかけはじめた。幸いプッシュホンのボタンを押す指先が視界に入っていたので、私はとっさにその電話番号を憶えようとした。その必要はなかった。さっきかけたばかりの海部雅美のアパートの番号だった。彼は辛抱強く一分近く待ち続けたが、結局誰も出ないので受話器を戻した。それから、通路を隔てて向かい側にある切符売り場へ行って、自動販売機で切符を買った。改札口を通るときに、もう一度周囲を見まわした。しかし、頭を二、三度振り、私の前方を通り過ぎて、国電の十一、十二番ホームに通じる階段へ向かった。私は彼の首から下が階段の蔭に隠れるまで待ち、タバコを消してから彼のあとを追った。
 彼はそのホームに最初に入って来た〝山手線〟の外回りに乗った。車内は込み過ぎず空き過ぎず、尾行には理想的だった。私は同じ車両の離れた位置に立って、空席に滑り込んだ彼を眼の隅に置いた。男はまた新聞を読みはじめた。
 私は頭のなかで、少々荒っぽいが単純で効果的な手を検討していた。いきなり彼の腕を掴んで、この男はスリだと怒鳴る方法だ。彼を鉄道公安室か近くの交番に同行させることができれば、新宿署の錦織警部を呼んでこの男を料理することもできる。だが、問題はそういう方法を取ったときに佐伯にどういう影響があるか、ということだった。楽観できるような保証は何もない。探偵には、警官のように都合よく振りまわせるような社会正義はなかった。いかに大きな犯罪を摘発できようと、捜し出すべき依頼人の夫が被害者になってしまえば仕事は失敗だった。まして、私自身がその引き金になるようなことは許されない。〝あなたさえ雇ったりしなければ、彼は無事だったのに……〟私はその方法を頭から追い払った。
 電車は新大久保の駅に停車したが、彼は降りなかった。この尾行には自信がなかった。もし、私を事務所にいるようにしむけてレイ・バンのサングラスの男に尾行させようとした張本人がこのレインハットの男なら、今は自分が同じ立場に置かれていることを承知しているはずだ。尾行を警戒している人間に気づかれずに尾行することは、ほとんど不可能だった。
 電車が高田馬場の駅の構内に入ると、彼は新聞をしまってホームへ降りた。私はしばらく車内にとどまって、彼の様子をうかがった。ドアが閉まる瞬間に電車に戻るような手を使うつもりはなさそうで、彼はホームの中央を階段のほうへ歩いて行った。私も電車から降りて、彼のあとを追った。駅の構内はいつものように学生たちで混雑していたので、尾行には好都合だった。彼は階段を降り、改札を出て、東側の出口を出ると右に折れ、〈ビッグボックス〉のほうへ向かった。ビッグボックスはその名の通りコンクリートで固めた大きな箱のようなビルで、正面の壁に裸の男がランニングしているような巨大なイラストが描かれていた。彼はビルの手前の歩道沿いに一ダースばかり並んでいる電話ボックスの一つに入った。私はそのまま電話ボックスの前を通り過ぎ、ビッグボックスの一階の催し物広場まで行って、彼を振り返った。彼はこちらから三番目の電話ボックスの中でダイヤルをまわしていた。私は催し物広場の〝古本市〟に紛れ込んで、彼から眼を離さなかった。
 彼はたっぷり十分間電話で話し続けた。電話ボックスを出ると、駅前のロータリーを迂回するような形で私の前を通り、横断歩道を渡って眼の前の七階建のビルに入った。エスカレーターで三階へ昇り、そのフロア全体を占めている本屋に入った。彼はそこでもかなりの時間を費やして本や雑誌を見てまわった。レインハットにコウモリ傘、口ひげのある顔で本を手にした彼の恰好は、大学の講師か助教授といった風情だった。店内をあちこち動きまわる彼の、つねに死角にいるようにするためにはこちらも同じように動いていなければならなかった。彼は文庫本を一冊買ってから、下りのエスカレーターに乗った。腕時計を見ると、すでに二時を過ぎていた。彼は二階に降りると、〈ジァンナン〉という名前の喫茶店に入った。その喫茶店には他に出口がないことを知っていたので、私は外で待つことにした。彼がそこで誰かと会う可能性もあるので、私は一度店の中に入り、人を探すようなふりをして店内を見渡した。彼はひとりで、買ったばかりの文庫本に眼を通していた。私は彼に気づかれないうちに店を出て、彼が出て来るまで約十五分待った。
 そのビルを出た彼は、早稲田通りを右に折れて大学のある方角へ向かった。三百メートルほど尾行すると、〈早稲田松竹〉という映画館があり、彼は入場券を買ってその中に入った。看板を見ると〝松竹〟とは名ばかりで、二本立ての洋画を上映していた。私は、彼が何かを企んでいることにまったく気づいていないわけではなかった。しかし、ここは敢えて彼の胴でサイコロを振ってみることにした。他に適当な方法もなかった。
 私は入場券を買って館内に入り、狭いロビーを横切って、尾行の相手が入ったのと同じいちばん近いドアから場内に入った。暗がりに眼が慣れないうちに、男と女が両側からぴたりと寄り添って来た。右側の女が私の腕を取った。左側の男は私よりも少し背の高いがっしりした体格で、コートのポケット越しに何か小さくて尖ったものを、私の脇腹に押しつけて来た。眼が慣れると、私の眼の前にレインハットの男が立っていた。彼は帽子のひさしに人差し指を当てて挨拶し、にっこり笑った。「一時間以上も遅刻したことになる」
「お待たせ」と、私は言った。

次章へつづく

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