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夏に男子が〈いちゃいちゃ!?〉、いや、〈わちゃわちゃ!!〉する青春小説 3章分試し読み

14歳、中学2年の男子が5人も集まれば、当然いちゃいちゃするもの――いえ、わちゃわちゃするものですよね。助け合い、励まし合い、ふざけ合い、語り合い、一方で…嫉妬し合い、けなし合い、足を引っ張り合い……良いことも悪いこともいつも一緒、それが中2男子の「THE 青春」ですよね。

それぞれ個性際立つ5人の中学生が、広島で出逢い、そしてともにすごす。純粋でとっても濃い友情に心うたれる、『別れ際にじゃあのなんて、悲しいこと言うなや』(黒瀬陽/著)の第1章、第2章、第3章を、noteにて公開いたします。わちゃわちゃ男子たちの活躍をお楽しみください。


1 小林、第一志望のヤンキーグループに合格するの巻

 一九九六年、ぼくは中学二年の十四歳で、当時、鏡に映る自分のオッパイとにらめっこするのを日課としていた。たいてい闘いは長時間に及び、寝る直前までパジャマの裾をたくしあげ洗面台に立っていた。鏡の前でさまざまに角度を変え、両腕で谷間をつくったり、寄せてあげて、流れでなぜか乳首をつまんで激痛に悶絶した。事態は深刻だった。
 このころ、ぼくの乳輪の下には一円玉大のしこりができていたのだ。指で押さえると痛みが走り、Tシャツに擦(す)れただけでもだえるほど過敏になっていた。オッパイのしこりは乳癌の前兆として知られていた。ぼくは男子なのに、それも十代半ばの若さにして、「婦人特有」の「成人病」にかかり、はかなくも死んでしまう運命なのか。
 厭世観(えんせいかん)にかられ、ぼくは涙と鼻水を垂れ流しながら身辺整理をはじめていた。自分の死後に発見され、遺族たちの同情心に水を差してはならないので、秘蔵のアダルトビデオはぜんぶ処分することにした。
「えっ? 乳房のしこりなら俺もあるけど」
 眼鏡をキラリと光らせ友人が言った。
「よくお前、そんな平然としとるのう」
「いや、あれは思春期に性ホルモンのバランスが崩れてなる〝女性化乳房症〟ってやつで」
「ハッ? 乳癌じゃないんか!?」
「違うわい。俺らの年の男子の半数以上はなるみたいじゃし、放っとけば自然に治るそうで」
 ぼくの長らくの悩みをたやすく片づけてみせたのが祐介だった。こういうとき便利なやつなのだ。
 出会いは一年生のときで、祐介はクラスメイトの一人だった。当時、とくに仲が良かったわけでもないが、二年生に進級したとき、前の学年から知っているのは彼しかおらず、ほかに友達が見当たらなかった。
 ぼくらは二人でいろんなグループの間を転々とした。あか抜けていないがクラスで一目置かれる野球部のグループや、クラスで影は薄いが『ポパイ』のスナップに載ったおしゃれ二人組など、二軍狙いでもどこも敷居は高かった。
 なかでも祐介が興味を示したのは、肥満児のTKと天然ボケのジョーのグループだった。TKとは小室哲哉を意識しての自称だが、楽器ができるわけでもなく見た目は正反対だった。ジョーのほうはジェフ市原の城彰二に顔が似ているからジョー。こちらは誰がつけたのか知らない。ぼくは小学校高学年のとき彼と同じクラスだった。
 タイ人のクルンもこのグループにいた。ぼくはクルンとも同じ小学校の出身だったが、これまであまり話したことはなかった。そもそも彼が転校してきたのは九三年で、米不足の時期にタイ米とともに来日してきたのだった。彼はとなりのクラスだった。
 クルンの第一印象は、小柄なからだにドングリまなこ、小麦色の肌にまっ白な八重歯、そして『サザエさん』のタラちゃんみたいな独特のかりあげヘアーだった。このころ彼は、唯一知っている日本語だったのか、「ぼくドラえもんです」(ⓒ大山のぶ代)という言葉をなににつけても連呼していた。手を合わせ、担任のふくよかな中年女性まで「ドラえもん」と呼んで、顰蹙(ひんしゅく)を買ったくらいだった。
 ところが三年後、中学二年になった彼は、「汎用人型決戦兵器・人造人間エヴァンゲリオン」という単語をスラスラ操るほど語彙力が向上していた。ブレンド米と違って、すっかり日本に溶けこんでいた。
 花形のバスケ部を辞めたとはいえ、こんな三軍グループに入ろうとする祐介が理解できなかった。ジョーなどはカバンにおびただしいほどのお守りをぶら下げている。ぼくはそのなかに「安産祈願」を見つけ、
「おい祐介、こんなダサいとこやめようで。こんなイケとらんグループ入ったら、俺らの中二もう終わりじゃあや。頼むけ、もっと高望みしてくれ」
 と、無理やり〝ヤンキーグループ〟に引っ張っていった。こちらは言うまでもなく、女子にも大人気のもっとも〝イケとる〟グループである。
 眼鏡にセンター分けのいかにも優等生風の祐介は、二の足を踏んだが、強引にヤンキーたちのたむろするストーブ界隈に連れだした。季節柄使われていないストーブの上の特等席には、リーダー格の丸ちゃんが股をおっぴろげて腰かけている。五、六人の男子が丸ちゃんを囲うように黒い人垣をつくっていた。
「こいつ『びしばし』のハガキ職人らしいよ。冷凍庫にヴェルデのラザニアめっちゃあった」
「なんやマジか! リングネームなんて言うんや?」
「イヤ、それは恥ずいけ、マジ勘弁。っていうか、一文字さん『パパたいむ』の放送作家らしいよ」
「ウソつけ。一文字弥太郎は謎の覆面ラジオDJで」
「それがマジ。本名でクレジットされとるらしい。アニキが元〝らんスタ〟の友達から聞いたって言いよった」
 最初のうちぼくらは、後ろでただ無言のまま身をよせる人垣GおよびHに過ぎなかった。しかし、そのうち彼らに合わせて笑ったり、相づちや合いの手も入れたりするようになった。彼らがぼくたちを邪魔者扱いする様子もなかったので、やがて意を決して、会話の隙間を見つけては「ふ~ん、そうなんじゃ~」「へぇ~、スゴ~い」以外の長文も、ぼくは発してみたりした。祐介はというと、相変わらず優等生面を引きつらせながら愛想笑いに終始していた。
 丸ちゃんの取り巻きの一人が、以前、小学校で流行っていた「キューピッドさん」の話題を持ち出したとき、ぼくらにこれ以上ないチャンスがめぐってきた。というのも、ぼくは小学生のころ、クラスでたびたび「キューピッドさん」を主宰していたからだ。
「今からやってみようで」
 さっそく乗り気の丸ちゃんに対し、言い出しっぺの三田村くんは、ふだんの太鼓持ちぶりにしては珍しく、なんだか浮かない顔をしていた。どうやら肝心のやり方を忘れていたようで、細い目をしきりに泳がせている。渡りに船とはこのことだった。
「三田村くん、キューピッドさんなら俺もできるよ。図も描けるし」
 と言って、祐介に紙を一枚よこしてもらった。そしてつぎのような図柄を描きだす。

「ほんなら、お前やってみいや」
 丸ちゃんに言われて、ぼくは椅子に腰かけた。コックリさんと同様、キューピッドさんは二人でやるものなので、
「じゃあ、三田村。相手してやれや」
 丸ちゃんに指名された三田村くんと、ぼくは机をはさんで向きあった。二人で一本のシャーペンを握りしめる。シャーペンの芯はハートの真ん中でキリキリと踏ん張っており、ぼくらの親指はボタンの上で鏡もちのように重なっていた。
「キューピッドさん、キューピッドさん来てください」
 丸ちゃんの合図でぼくらは同時に唱えた。
「キューピッドさん、キューピッドさん来てください」
 また繰り返す。
「キューピッドさん……」
 と、三田村くんが独唱したとき、とつぜんシャーペンが独りでに動きだし、なんとハートから左のほうへ進んで、「は」と「い」の中間でピタリと動きを止めた。……というのは嘘である。じつはぼくが自分で操作していたのだった。
 そうとは知らず、ヤンキー一同はいっせいに野太い歓声をあげた。三田村くんにも疑う素振りはなく、一緒になって驚いていた。それから、好奇心いっぱいの丸ちゃんのリクエストに応え、ぼくはいくつかの質問をキューピッドさんに投げかけた。
「体育のポッキー先生のチンポは羽賀研二並みですか?」
「丸ちゃんはキックフリップに成功しますか?」
「丸ちゃんと白田くんはどっちが最強ですか?」
「リサさんは丸ちゃんに今年じゅうにヤラせてくれますか?」
 ……いずれも場が盛り上がるよう的確な回答をしておいた。「今日、帰りにゴム買いに行くで」と丸ちゃんは上機嫌である。ぼくは背中に祐介の心配そうな視線を感じた。やがて、丸ちゃん以外のメンバーも次々と質問をはじめた。
「将来、俺はJリーグの選手になれますか?」
 サッカー部のイケメン・カジ君のリクエストである。もちろん、空気を読んで「はい」にシャーペンを走らせた。
「じゃあ、俺はどこのクラブの所属ですか?」
 また続けてカジ君。「サンフレッチェ」と言っておけばいいものを、ぼくは持ち前のサービス精神を発揮して、「カリント香川」とおもわず新たなクラブを創作した。
「すげえ、まだできとらん未来のクラブじゃ」
 まんざらでもない様子のカジ君である。
「おっ、じゃ俺もJリーガーになれますか? もしなれたら、どこのクラブですか?」
 と今度は三田村くん。彼もカジ君と同じサッカー部だった。むろん「はい」に移動してから、「ヴィクトリーニ神戸」とまたもや悪癖をさらしてしまった。
「俺は、神戸の新クラブかあ……」
 三田村くんは目を輝かせている。
「三田村の神戸のクラブは、どんなマスコットですか?」
 唐突に丸ちゃんが口をはさんだ。一瞬、ドキリとして、背中に悪寒が走る。だが、そこは機転を利かせ、まだJリーグのマスコットに使っていない動物を探して、図の余白に一筆がきに描いた。
「マジすげえ、キューピッドさん絵も上手いんじゃ!」
 ぼくにしては、そこそこリアルなワニができた。たまたま廊下を通りかかったポッキー先生の、ラコステのポロシャツが目に飛びこんできたのだ。不自然な動きをするシャーペンにも、三田村くんは怪しむ気配はなかった。
「じゃあ、俺のカリント香川のマスコットは?」
 カジ君にせがまれ、またしても追いつめられた。悩みながらシャーペンを走らせていると、気づけば「かりんとう」の絵を描いていた。たちまち先ほどの興奮が嘘のように静まり返り、みんな絶句していた。
「なんやこれ、ウンコか?」
「……かりんとうじゃない?」
 丸ちゃんの言葉に、ぼくはあわてて訂正した。
「それ、動物じゃないだろ……」
 丸ちゃんの冷静なツッコミに、バレたら殺されると肝を冷やした。もっとも、「俺は将来なんになるんや? 天下取れるんか?」との丸ちゃんの質問に、「アメリカ大統領」と答えたことで、どうにか事なきを得たようだったが。
「ヴィクトリーニ神戸」に入団が決まった三田村くんも満面の笑みで、これを機にぼくはすっかり彼のお気に入りとなった。そして晴れて〝ヤンキーグループ〟の一員として認められた。入れ替わりするトップよりも、むしろナンバー2を押さえておくことは、クラスの処世術における定石である。
 ところで、この翌年「ヴィッセル神戸」がJリーグに加盟したが、マスコットは〝ワニ〟ではなく、神戸牛の〝牛〟だった。ちなみに後年、香川にも「カマタマーレ讃岐」ができたが、マスコットは〝うどん〟である。ぼくの〝かりんとう〟は当たらずといえども遠からず、といったところだった。
 ──チャイムが鳴り、ぼくはあわてて祐介をみんなに紹介した。
「こいつマジメそうに見えるけど、俺の友達でなかなかイイやつじゃけ、仲良くしてやってや」
 祐介はぎこちない笑顔で会釈した。
 
「なんでクルン、乳首に絆創膏はっとん?」
 クルンが逆上がりしたとき体操服がめくれ、思わずぼくは突っこんだ。体育のポッキー先生は、ポロシャツの裾をきちんと収めたジャージーのズボンを、乳首のあたりまでグイグイと押し上げてはき、自慢の股間を誇示しながら生徒に手本を見せている。
「いや、なんか乳首にイボができとって、服がすれて痛いんよ」
 鉄棒から降りると、少し恥ずかしそうにクルンは言った。彼と会話するのは久しぶりだった。
「ああ、それなら〝女性化乳房症〟つって、俺もなっとるで」
「それ、俺が教えたんじゃん。大丈夫、半年から一年くらいで治るらしい」
 ぼくとクルンが話していると後ろから祐介が加わった。クルンはホッとしたように、矢継ぎ早に祐介に質問をする。ぎこちないながらも三人の輪ができたところに、丸ちゃんが現れた。とたん、クルンはそそくさと離れていった。
「あ~、かったりい。俺、体力落ちとるけ、マジ体育なんかやっとれんわあや」
 体操服の短パンを腰ばきし、悪趣味なトランクスを半分以上みせ、丸ちゃんがぼくに言った。この場から引き剥がすように、ぼくを鉄棒から離れたところに連れていく。一方、クルンはポッキーに連れもどされ、後方支持回転を連続でやらされていた。
「コバ、ほら見てみい。歯も黄色くなっとるだろ。お前、なんでかわかるか?」
 丸ちゃんは大股開きでしゃがみ込むと、先生を横目で気にしながら馬のようにニッと歯茎をさらした。
「歯磨き粉とまちがって、今朝、生姜チューブで歯を磨いてきたんでしょ?」なんて冗談を言えるような間柄ではなく、嫌な予感を覚えながら「何でなん?」と恐るおそる尋ねた。
「俺ら、ヤニやっとるんで」
 丸ちゃんが誇らしげに告白した。となりに腰を下ろしたカジ君も、煙草を吸うジェスチャーをして、誇らしげな笑みを浮かべていた。
「コバっち、スケボーとか興味ない?」
 三田村くんが背中から親しみをこめ、両肩に手をおいた。ぼくは二本の指をそろえて口もとにあてる。
「三田村くんも、これ吸っとん?」
「もちろん」
 細い目をもっと細くして会心の笑顔でいった。「俺らいつもスケボーのあと、広大(ひろだい)跡地でヤニやっとるけど、コバっちも来るでしょ?」
 振り返ると、距離をとって独りぼっちの祐介が立っていた。微笑みかけても彼は真顔を崩さない。
「もちろん行くよ」
 ぼくは三田村くんに視線を戻してそう告げた。
 放課後、四人で千田公園に行ってスケートボードの練習をした。三田村くんとカジ君はサッカー部員だが、部活には参加しないようだった。ぼくの予言どおり、無事Jリーガーになってくれればいいのだが……。ともあれ、初心者でボードも持っていないぼくは、三人の練習を手持ち無沙汰に見学していた。
 三人とも華麗なスケート・テクニックなど見せてはくれず、ひたすらピョンピョンと地味にジャンプしていた。丸ちゃんはもっと派手な〝キックフリップ〟という、空中でボードを横一回転させる技を練習していた。いちばん経験者のカジ君は、ボードで小さな段差に跳び乗ったりもしている。
 退屈そうなぼくを見かねてカジ君がボードを貸してくれた。彼の指導で、ブレーキやターンなど基本動作を教えてもらった。緩やかな傾斜地をスケボーで風を切って進むのは爽快だった。ところがブレーキに失敗して、ボードだけが公園の生垣に沿って滑走し、ぼくはあわててあとを追って、ツツジの蜜を吸う子供たちの前をトコトコと横切った。
 最後にカジ君が大技を見せてくれた。四段もある段差をボードで跳び降りるというものだった。一回の挑戦で着地してみせた彼には、初心者のぼくならずとも歓声を上げていた。その後、三田村くんが段差に跳び乗ろうとしてズッコケた。春の夕焼け空にぼくたちの笑い声がこだました。
 スケボーのあとぼくらは、昨年移転が完了した千田町の広島大学跡地に向かった。そして取り壊し中の旧校舎に忍びこんで煙草を吸った。薄暗闇にポツリと三つ小さな炎が浮かんでいる。
「コバっち、ヤニ吸うのはじめて?」
 三田村くんがさかんに唾を吐き捨てながら、ぼくに尋ねた。
「いや、お父さんの煙草こっそり吸ったことぐらいあるよ」
 ……嘘をついた。父は嫌煙家でぼくは煙草なんて吸ったことはない。
 また唾を吐き出しながら、三田村くんがぼくに煙草をすすめた。彼のジッポーで火を点(つ)けて、初体験なのがバレないよう、慣れた手つきを演じながら口に煙を含んだ。
 緊張で火を小刻みに揺らさぬよう気を配っている間、ほかの三人はなにやら煙草の話に夢中である。「マルボロ」「マイセン」「セッタ」といった専門用語が飛びかって、理解に苦しみつつもぼくが訳知り顔で頷いていると、
「なにコバ、金魚じゃん」
 カジ君に指摘された。みんなドッと吹き出し、工事現場に丸ちゃんのバカ笑いが響いた。またもや専門用語の登場である。
「金魚」のぼくが無理に合わせて笑っていると、肺に煙を入れる方法を三田村くんが教えてくれた。むせ返ったぼくを見てみんなドッと吹き出す。頭がクラクラしながらも照れ隠しで一緒に笑った。それから「輪っか」の作り方を教えてもらった。ちなみに、ぼくの煙草は「マイセン」で、「マイルドセブン」の略だそうである。
「コバもデッキ(ボードのこと)買ってもらえば?」
 カジ君がいった。
「あー、俺もDCシューズが欲しいのう。でも母さん、サッカーのスパイクは買ってくれても、スケボー関係はなかなか買ってくれんけえの」
 三田村くんがこぼし、煙の輪っかを飛ばした。
「うちの母さん、買ってくれるで」
 カジ君が煙草の灰を落とし、新品のスケートシューズで散らす。
「うちのオフクロ、禁煙しろって超ウザイんじゃいの。あいつマジくたばりゃええのに。家でヤニ吸っとると怒りまくるし」
 丸ちゃんが唾をたらす。
 彼らのやり取りに動揺を隠し切れなかった。煙草やスケボーではなく、「お母さん」のことである。ぼくは家ではふだん「お母さん」と呼んでいるのに、三田村くんやカジ君は「母さん」と言っていた。丸ちゃんなんて「オフクロ」という始末である。「オフクロ」なんて言葉は、紅白の森進一の口からしか聞いたことがない。
 だが、ぼくも反抗期の男子である。勇気を振りしぼり、
「じゃあ、俺デッキ買ってくれるか、母さんに訊いてみるわ」
 と言い慣れた感じを装って口にした。が、口をすぼめて頬っぺたをトントンしていると、肝心なことを思い出した。先ほどぼくは、「いや、お父さんの煙草こっそり吸ったことぐらいあるよ」と発言していたのである。
 なのにいま「母さん」と言ったわけで、これではじつは家で「お母さん」と呼んでいるのに、途中でまわりに合わせて「母さん」と呼び名をかえたことがバレバレである。とたん顔がまっ赤になるのがわかった。
 電子音が鳴った。
「あ、ピッチじゃ」
 丸ちゃんはポケットから(本通りでタダでもらったと思われる)PHSを取りだすと、「ちぇ、オフクロか」着信画面を見るなり電話を切った。ぼくは見逃さなかった。薄闇に浮かぶディスプレイに「お母ちゃん」と表示されていたことを。
「よし、帰るで」
 煙草の火を携帯灰皿でもみ消すと、丸ちゃんが立ち上がるのを合図にぼくらは解散した。
「体育でポッキーにひたすら後方支持回転やらされたわ。手のマメつぶれまくって、めっちゃ痛い……」
 帰り道、家の近所でクルンとジョーを見かけた。クルンが両手を広げて確認している。
「それじゃ、俺んちで〝超機動大将軍〟つくれんじゃないか」
「なんやそれ?」
「武者頑駄無(ガンダム)のBB戦士じゃい」
 ぼくも小学生のころ、SDガンダムのプラモデルやカードダス、ガン消しでよく遊んでいた。懐かしさとともに、中学生でもまだやっているのかと呆れた。ぼくは今のいままで丸ちゃんたちと煙草を吸っていたというのに……。彼らが急に幼く思えてきて声をかけるのもためらった。
 ぼくが煙草を吸ったことを知ったら、祐介はどう思うのだろうかと少し気になった。正義感の強い彼のことだから、きっと怒るんだろうな。いや、悲しむかな。
 
 二年生の新しいクラスにも慣れてきたある日のこと。夕方、学校から帰ってくると、母から一通の手紙を渡された。
「女の子からよ。ラブレターじゃない?」
 嬉々とした顔を退けながら、ぼくは自室にこもり手紙の封を切る。消印はなく直接うちのポストに投函されたようだった。
 差出人は同じ小学校(オナ小)の幼なじみで、中学では隣の隣の隣のクラスのミミちゃんからだ。小学校低学年のころはよく彼女の家で、『カトちゃんケンちゃん』とかのテレビゲームやバーコードバトラーで一緒に遊んだ記憶がある。だが、小学校も高学年になってからは、廊下ですれ違っても言葉もかわさぬ関係が続いていた。だから突然のことで驚いた。
 実用的な封筒の無味乾燥な便箋には、お世辞にもうまいとは言えない鉛筆の文字が並んでいた。「小林くんのことが好きだから付き合ってほしい」といった内容が綴られている。ところが、その「ラブレター」からは、ファンシーなレターセットに蛍光色のラメ入りペンで丸文字といった、〝女子的な〟要素がひとつも見当たらなかった。
 そこでぼくは勘づいた。これは誰か、ぼくとオナ小だった男子による幼稚な悪戯ではないかと。丸ちゃんたちは別の学区だから、おそらく一年のときのクラスメイトによる仕業だろう。いまや一軍の〝ヤンキーグループ〟に合格したぼくに対し、こんなドッキリを仕掛けるなんていい度胸である。
「なんて書いてあった? 女の子から告白されたん?」
 ドアの外から声がした。ぼくは思わず頭にきて、
「うるせーババア!」
 と叫んでいた。ドラマで目にする反抗期の不良息子っぽくて、われながら実にさまになっていた。すると、ついに来るべきものが来たと察知した母が、オロオロと泣き崩れながらドアに物をぶつけてくる。
「あんたは夜泣きがひどかったから二時間おきに起こされてオッパイあげて……」
 ごめんなさい、お母さん。
 子供じみたドッキリを頓挫(とんざ)させ、仕掛け人を落胆させようと日々学校で構えていると、一週間後、差出人当人から家に電話があった。先日の件を引きずりつつも、したり顔の母から電話を引きとる。
「もしもし……替わったけど」
 スピーカーから聞こえる声はまぎれもなく、ミミちゃん本人だった。悪戯だと思い違いをしていたのはぼくのほうだった。母に会話を聴き取られぬよう受話器を手で覆いながら、
「……どしたん?」
 と白々しく電話のわけを尋ねた。すると案の定、この間の手紙は彼女自身が送ったもので、ぼくから返事が来ないので電話をかけたということだった。母はいっこうに電話台から離れる気配がない。
「……もし、あたしのこと嫌いになっとらんかったら、あたしと付き合ってほしいんじゃけど」
 ミミちゃんが告白した。耳に届く彼女の声は、激しく脈打つぼくの鼓動に消え入ろうとしていた。ぼくは初めての経験でパニックになっていた。受話器の手はプルプルと震えるし、ひときわ大きな心音は電話線を通って、彼女の耳にまで伝わっているのではないかと心配だった。
 ──日没いつものように見慣れた街を、ひとり鼻歌混じりに歩いている。すると、いつの間にか知らない街に迷いこんでいて、まわりの景色は様変わりしている。ぼくは心細くて、胸を締めつけられるような不安感に襲われる。ところが、背後の街角からはよく知った懐かしい影が、ぼくの足もとまで細く長くのびていた。遠く民家のテレビからは、幼いころミミちゃんとよく耳にした『おどるポンポコリン』が流れてくる。
 そんな心象風景が迫ってきて、大人みたいに男女交際を求めるミミちゃんが怖くなった。一刻もはやく断って電話を切ろうとぼくは決めた。しかし初めてのことで、なんて断ったらいいのか見当もつかない。口をついて出たのは「やだ」という言葉だった。たちまち電話口のミミちゃんの声は悲しそうにひび割れていった。もしかしたら、ぼくより何倍も張りつめていたのは彼女だったのかもしれない。
 自分がとても悪いことをした気分になって、受話器を置いてからも彼女のことがずっと気になった。ろくに食事も喉を通らなかった。ぼくはきっとミミちゃんをひどく傷つけてしまったのだ。大好物の豆腐ハンバーグも泥だんごのような味がした。ひとの心を傷つけることで、ぼく自身まで一緒に傷ついてしまったかのようだった。
「なんて言っとった? 告白されたん?」
 母はからかい口調で、ことの成りゆきを詮索してくる。
「うるせーババア!」
 ……ごめんなさい、ミミちゃん。
 
「やっぱ、丸ちゃんのグループはモテるわ」
 といって隣に腰を下ろしても、祐介は教科書を机に収めながら生返事をするばかりだった。しかたなく、
「……いや、実はね」
 とぼくの側から〝告白された話〟を切りだす羽目になった。祐介と二人きりの会話は久しぶりだった。ぼくが丸ちゃんたちと喫煙しているのを知ると、彼は怒ることもなく、黙ってぼくから距離を置くようになった。
 もともと祐介は丸ちゃんのグループに馴染めず、教室で孤立することも少なくなかった。〝煙草の話〟を聞いて以降は、名実ともにTKのグループに収まったようだった。ぼくがこうして引き留めている最中も、彼はチラチラとTKたちの机を気にしている。
「──そんだけ? もう行ってええ?」
「えっ、いや……」
 会話に間ができると、祐介はぼくのもとを離れTKのところに逃げていった。
「なに話しとったん? あんなダサいやつ放っといて俺らとUNOやろうや」
 三田村くんに手を引かれ、ストーブ界隈の丸ちゃんたちのところに連れていかれた。何度も振り返ったが、祐介は見向きもせず、楽しそうにTKたちと談笑していた。
〝イケとる〟グループは、やはりモテるようだった。ミミちゃんをふってしまった数日後、またしてもぼくは女子から告白された。お相手は、女子の〝イケとる〟グループのリーダー格、リサさんの親友の吉川さんだった。
 丸ちゃんはリサさんと付き合っていて、スケボーをしない日は二人で一緒に帰ったりしている。カジ君はぼくらより女子グループと会話するほうが多いくらいだ。だから二つのグループの間に交流がないわけではないが、ぼくはこれまで吉川さんと話す機会はあまりなかった。
 金曜日の夜のことである。ぼくの家にふたたび電話をかけてきた女子は、吉川さん……ではなく、茶髪に細マユの色黒のアムラー、そうリサさんだった。
「あーコバっち、オッスぅ。いま、だいじょーぶ? あの大事な話があるんじゃけど、イイ? あっ、そ。あのね、ヨッシーがね……っていうか、ヨッシー知っとるよね? よ・し・か・わ。ふふ、ウケる。んで、そのヨッシーがねぇ……ぶっちゃけ、あんたのこと好きなんだって。よかったね、おめでとー。いま、カノジョおらんよね? なら、決まりだね。付き合っちゃいなよ、応援してあげるからさ。でも、あんた聞いたけど、九組のミミ子ふったらしいね。カワイソ。なんで? ブスだから? はは、ウケる。でも、ヨッシーはかわいいから。あたしが推薦します。チョベリグです。だから、マジ付き合いなよ。はい、じゃあ、ヨッシーに替わりまーす。(……ほら、吉川でなよ。ガンバレって)」
 ──と、ぼくが一言も発する間もないまま、吉川さんがぼくを気に入っていることを伝えられ、洪水のような一人トークののち、吉川さん本人と話す運びとなった。そもそも、どうしてミミちゃんをふったことを知っているのか? 恐るべき女子ネットワークである!
 ぼくは以前のごとく手がふるえて……というより、あまりの展開の早さに頭が追いつかず、電話の子機を握ったままパニックとなって、股間をモミモミしながら自分の部屋を歩きまわっていた。電灯のひもにつけた姫路城のキーホルダーがぼくのおでこを直撃した。
「……っていうか、ヨッシー恥ずいから電話でないって。まあ、そういう子だから。でも、顔はあたしが保証するよん、悪しからず。で、付き合うの? 付き合わないの? 答えによっちゃ殺すけど、ハハ。……え? え? ナニ? ちょっと聞こえないんだけど。声ちいさい。お前、男だろ? チンチンついとんだろ? ハハハ、ちょーウケる。こんどヨッシーに見せてやって。(イタッ、ちょっと痛いヨッシー。冗談だって)……んで、返事は?」
「……いや、あのぅ。俺、女子と付き合ったこととかないし……服とかもあんま持っとらんよ」
「ふっくぅー?? ハハ、まじウケるんだけど。しょうがない、服くらいあたしが買ってやるよ。……って、なんであたしが買わなきゃなんねーんだよ!! ヨッシーに選んでもらいな。(……ハハ、よかったねヨッシー。コバっち、ぜんぜんオッケーだってさ。だから、最後くらいちょっと話しなよ。……あっ、受話器に耳へばりつけんと聞こえんよ。あいつ、声チョーちっちゃいから)あっ、小林キュン、ちょっと待っててね。きみのハニーに替わるから」
 いつの間にかOKしたことが既成事実化しているこの展開に、ぼくはますます混乱してきて、先ほどの一・五倍速の足どりで部屋を歩きまわっていた。途中、子機にあたって跳ね返った姫路城が、振り子の要領で勢いよく戻ってきて後頭部を直撃した。
「……あ、あのぅ、替わりました。よっ……吉川です。ど、どうも、ありがとう。……いや、オッケーしてくれて。……ハイ、こちらこそ、よろしくお願いします(敬語ッ! ウケる!!)……ハイ、じゃあ、また月曜日に。……はい、おやすみなさい」
 ガチャ。こうして、どういうわけだか吉川さんと交際することになった。
 次の日の日曜日、ぼくはさっそく今後予想される彼女とのデートに備えて、洋服を買いに繁華街に出かけた。これまで服を買ったときとは違って、母親と一緒ではなく、自分ひとりでの買い物である。といって、洋服代は母からもらったわけなのだが……。
 目当てのファッションビルが近づくと、緊張のあまりすぐには建物に入れず、その周辺を無意味にも三周歩きまわっていた。意を決して内部に突入してからも、目的地の四階メンズフロアは素通りして、三階から五階の間をエスカレーターで二度ほど往復していた。なにぶん初めてのことで勇気がいるようである。
 ようやく洋服を選び始めてからも、機会を見ては店員が接近してくるので、つねに周囲を警戒しながら、〝敵〟が一歩でも動くとすぐさま二メートルの距離をとり、結局レジに商品を持っていくのに一時間を要した。
 なにを選んでいいかわからなかったが、最終的に購入したのは、デニムのシャツ一九九五円とベージュのチノパン三九九〇円、そしてレジ待ちの間に売りつけられた、鋲が打たれたドクロのバックルの革ベルト五九八五円の三点だった。先にもらった一万円では足が出て、残りはお小遣いから出費した。試着を拒絶したためサイズも合わず、後日、母に頼んで店で交換してもらった。
 
 付き合いはじめて二週間が経っても、一緒に下校することもなければ、交換日記なんて古風な交際さえすることなく、いまだ顔をあわせても会釈する程度の、進展のないぼくらを見かねて、イケメンのカジ君が吉川さんをデートに誘うようアドバイスをくれた。
 彼はすでに四人の女子と付き合った経験があり、「まだCまではいっとらんけどBまではいった」恋愛の有段者である。手すら握ったことのないぼくは、最高の先生を得て心強く感じていた。が、先生がぼくに下した評価はきわめて辛辣(しんらつ)なものだった。
「告白っつーのはの、フツー男から女にするもんなんで。コバは逆に女からされとる時点でアウト」だそうである。そんなルールがあるとは知らず、大変な衝撃を受けたのだが、その後、先生の口から出たデートのルールの数々は、ぼくをいっそう追いつめた。
「コバ、ええか? デートではつねに男が主導権を握って、女をリードしていかんにゃいけん。コバは女に告られとるんじゃけ、むしろリードされとるんじゃけ、これから頑張らんといけんのんで。
 まあ、デートの基本中のキホンとして覚えてほしいのは、デートの費用は全額男が負担すること。これは常識じゃの。間違っても女に財布なんか出させちゃいけんで。ワリカンとかする男は最低じゃけえの。つぎにデートで並んで歩くときは、男が必ず車道側のポジションを取ること。これもキホン。危ない車道側を男が歩いて女を車から守らんにゃいけん。あと、女の荷物はぜんぶ男が持つこと。
 結局、男のほうが力があって女は弱いんじゃけ、強い男が女を守ってリードしていかんといけんのんで。わかったか? もちろん、デートのあとは女を家まで送るのも忘れんなよ」
 先生のお言葉を一字一句聞き逃さぬよう、ぼくはノートにメモをした。しかし授業中、心のなかで復唱するうち、しだいに疑問点も浮かんでくるのだった。
 たとえば、デートの費用に関してである。ぼくのほうが彼女より圧倒的に収入が多いのであれば、男子が全額負担するのもうなずけるが、ぼくのお小遣いが月三千円なのに対し、吉川さんの家は歯医者なのだから、彼女のほうがお金持ちに思えてしかたない。
 とはいえ、デートは昔から男が奢るものと決まっているようなので従わざるをえない。ちょうど郵便局に小学校時代から貯めてきたお年玉があるので、帰りに寄り道して定期の解約をしようと決めた(母の許可がいるが)。
 また、新婚で子供が生まれた男の先生に、「先生、夜がんばったんですか? 気持ちよかったですか?」と質問し、先生を困惑させるリサさんを見るかぎり、女子が弱いなんてことも想像できない。
 並んでみるとぼくより吉川さんのほうが少し背が高いし、帰宅部のぼくに対し彼女はバドミントン部なのだから、彼女のほうが筋肉があるように思えてならない。女子を守るために男子は車道側を歩けとのことだが、車が突っ込んできたらぼくは死んでしまうし(まだ死にたくない)、彼女を守るどころか二人とも死んでしまうだろう。だが、これも昔から決まっていることなので諦めるほかない。
 どうやら男子をやるのもけっこう大変なようだ。メモの最後には先生からの宿題が記してあった。「初回のデートで手をつなぐこと」──男子赤点のぼくにそんな芸当できるのだろうか?
 デートの前夜、ぼくは下見のため学校に足を運んだ。待ち合わせの校門から目的の映画館までの道で迷わぬよう、歩道のない危険な道路を確かめながら最短ルートを探った。なぜなら、誤ることなく男らしく吉川さんをリードしなければならないからだ。よし、完璧である!
 待ち合わせ場所を校門にしたのはわかりやすいと思ったからだが──日曜の午前中にもかかわらず、部活の生徒の出入りがたえず、ドクロのベルトをしたぼくをチラチラ見ていく。別の場所にするべきだったと後悔した。昨夜は人気(ひとけ)もなく、物静かなところだったが……。
 財布のなかは郵便貯金を崩した二万円が収まっており、経済的には万全である。二万円は、一万円札、五千円札、千円札、五百円玉、以下一円玉まで細かく両替してあるので、ぼくは男らしいスマートな会計を実現するだろう。
 ところで、約束の時間の三十分前に現れた吉川さんが、どんなお洒落な春の装いをしていたのかほとんど記憶にない。
「ゴメン、あたし遅刻した?」
 ぼくを見つけると彼女は言った。
「いや、俺もいま着いたところ」
 これは鏡の前の練習どおりである(右斜め四十五度が男前)。一時間前には着いていた。
 思えばこの日、彼女の顔を正面から見た覚えはない。というのも、映画館までの道順を案内しながら、彼女の身に危険が迫らぬようずっと気を張っていたからだ。
 道を曲がり彼女が車道側に位置すれば、SPのような俊敏さで彼女と場所を入れ替わった。だから目的地までの道のりで彼女と会話した記憶もない。彼女はもしかしたら、ぼくに何度も話しかけていたのかもしれないが、繁華街の通りは十時台でもひとで賑わっており、金髪でロン毛のチーマーも見かけて気が気でなかった。とはいえ、初めてのデートで会話が続かなくても平気なように、先生が映画デートを推奨してくれたので、デート中、無言でもなんら問題はない。
 先月、ブラピの『セブン』を観てトラウマになったから、今度は怖くない映画がいいと彼女が言うので、ぼくたちは『ベイブ』という子豚が主人公のコメディを観ることになった。チケットを購入するさい、中学生二枚を注文すると生徒手帳の提示を求められた。ぼくらはふだん生徒手帳など携帯しておらず、不当ながら高校生料金を支払うはめになった。二人で三千円、千円の余分な出費である。完璧な計画に早くも狂いが生じた……。
 上映中、左半身に極度の緊張を感じながら、スクリーンの巨大な子豚を眺めていると、ふと先生に課された宿題の存在に思いいたった。本日のデート中に彼女と手をつなぐというもので、そのことばかり考えていたら、ろくに物語に集中できなかった。
 豚のベイブが牧羊犬コンテストに出場するころ、上映時間の終わりを悟って、ぼくは勇気をふるい起こした。羊の群れを導く豚そっちのけで、左手で彼女の温もりをちょこちょこ探った。ところが、手と手がかすかに触れあった瞬間、彼女はスクリーンを直視したまま素早く右手を引っこめたのだった。
 そこで、ぼくの心はすっかり折れてしまった。指がポップコーンの油と手汗でベタついていたのかもしれない。暗闇のなか、ぼくは思わず泣きそうになった。彼女の横顔をうかがえば、彼女はベイブの活躍に感動して涙を流しているところだった。賢いベイブは観衆から温かい拍手をもらっていた。ぼくは豚に嫉妬を覚えた。
 映画のあとはデパートのレストラン街でランチをすることになった。ぼくは意気消沈しながらも、ここは率先して男らしく店を決めなければ! 彼女に相談もせず、目についた店へ先頭きって踏み出した。振り返ると、彼女の表情が一変している。その正義感あふれる瞳にはうっすらと涙が光っていた。
「小林くん、豚は人間に食べられるために飼われとるって猫に聞かされたときの、あのベイブのショックの受けようを観とらんかったん?」
 間の悪いことに、ぼくが踏んでいたのは〝とんかつ屋〟の敷居だった。彼女は豚の映画に感化されていたのだ。ぼくは自分の軽率さを恥じて平謝りにあやまった。そのさまは男らしさからは遠のくばかりで、紳士的なベイブとの差は開くいっぽうだった。
 自分の不甲斐なさに涙がこみ上げてきた。だが男子たるもの、女子の面前で泣くなどもってのほかである。結局、彼女は許してくれたが、気を弱くしたぼくは代わりの店も選べず店頭でオロオロしていた。
「じゃあ、ここにしよっか?」
 そんな挙動不審なぼくを見て、彼女が気を利かせて洋食屋に決めてくれた。
 テーブルに案内されてからも、気落ちしたぼくは持病のユージューフダン病を発症して、メニューの選択もままならなくなった。彼女が「パスタ」を選んだので、とりあえずその見知らぬメニューに便乗する。
 忙(せわ)しなく動きまわる働き蜂のホール係は、先ほど水とメニューを持ってきて以来、ぼくらのテーブルを見向きもしなかった。店員に声をかける必要に迫られたが、自分の置かれた大人みたいなシチュエーションを冷静に意識したとたん、例の緊張がぶり返してきた。
 彼女が見つめるなか、女子みたいな「すみませーん……」というか細い声は、店員にはまるで届かない。「……すみませーん」と何度も繰り返すうち、だんだんと涙声になってきた。
すみませーん!!
 すると彼女が、体育会系のよく通る声で、赤子の手をひねるように店員を呼んでくれた。
 その後、料理を待っている間、彼女は「面白かったね」「ベイブかわいかったね」と、話題を探して積極的に話しかけてくれた。ぼくは立て続けの失態と緊張感で、ただ「……うん」としか答えられなかった。
 二時間が経過して(体感時間である)ようやく運ばれてきた皿は、なんの変哲もないミートソーススパゲッティだった。「パスタ」とは「スパゲッティ」のオシャレネームだったのである。ぼくはフォークさばきに苦戦して、パスタをうまく巻き取ることができなかった。ベージュのチノパンにミートソースが飛び散って、ベルトのドクロに血しぶきが加わった。口に入れるときもつい下品な音を立ててしまう。
 たび重なる失敗に鼻水まで出てきた。会計のとき料金を告げられ、鼻からパスタも飛び出そうになる。「スパゲッティ」一人前が千円なのである。ぼくは絶句したが、思えばずいぶん前から喋った記憶もなかった。
 食事が終わり、その後のデートプランも用意していなかったぼくは、途方に暮れて、繁華街の通りを右往左往していた。
 すると彼女が、ぼくに服を選んでくれると言って、「BEAMS」という洋服屋に連れていってくれた。小洒落た店内は、客だか店員だか区別できない私服のスタッフが歩いており、ぼくが商品を広げたまま棚に戻すと、すぐに駆けつけて慣れた手つきで畳みなおした。彼女は「シンプルだけどセンスがいい」としかぼくには言い表せない、「ボタンダウンシャツ」と「カットソー」なるものを見立ててくれた。
 彼女にお礼をいい、緊張気味にカウンターの列の最後尾についた。レジ周辺はベルトや財布がならぶ地雷原で、ふたたびドクロの鋲ベルトを売りつけられやしないかと肝を冷やした。だが何事もなく、ほどなく会計の順番がまわってくる。
 店員から金額を告げられ、ぼくはレジの五桁のデジタル数字の色味以上にまっ青となった。「¥9975」「¥7140」値札にはそう嘘偽りなく記してある。今朝の二万円の感触が、値段を確かめるという買い物のイロハを怠らせていた。
 オレンジ色のロゴ入りビニール袋に収められたボタンダウンシャツの価格たるや、ぼくがそのとき身につけていたデニムシャツのぴったり五倍の額だった。そんな五倍もの品質差があるとは思えず、キャッシュトレイの前でしばらく棒立ちになった。
「お客様?」
 店員に急かされ、ふるえる手で財布を開けば、案の定いくら計算しても二千円以上不足している。青ざめた顔からさらに血の気が引いていくのを、まざまざと実感できた。
 結局のところ、吉川さんから二千円あまりを借りることになった。
 カジ先生からデートは男子が全額負担するものときつく言われていたのに、よりによって奢る対象である彼女から借金するだなんて、名実ともにぼくは男子落第である。おちんちんを没収されても文句をいう資格もない。男子としての誇りを失ったぼくは、彼女の忠実な僕(しもべ)として、英語の授業よりも長い彼女の買い物に付き添った。
 正直、その後のことはよく覚えていない。
 せめて男らしく彼女の荷物くらいは持とうと、運動部の彼女の筋肉質な腕で選びとった商品を、帰宅部の青白いか細い腕で力いっぱい抱えた。途中、重さに耐えかねて荷物をひっくり返し、膝をついて拾っていると新婚夫婦のベビーカーに手を踏まれた。自分の部屋に帰って意識が戻ってからも、腕には赤い紙袋のあとが残っていた。
 きちんと男らしく、彼女を自宅とは正反対の家まで送り届けられたのかどうか、正確なところはわからない。紙袋を手渡したあと、帰り道で流した涙がすべて忘れさせてしまった。目の前にあるのはただ学習机に転がった手つかずの宿題ばかりだった。これでは……先生に叱られてしまう。
 
 始まりと同様、別れを知らせてきたのはリサさんからの電話だった。
「ごめん、チョベリバなんだけど。あんねヨッシーがねぇ、コバっちつまんないから別れたいって」
 それだけだった。
 会話の続かなかった初回のデートを反省して、ぼくは電話機の横にネタ帳を用意してから、何度か彼女に電話していた。が、毎度テンパってしまい、三十分は続くはずの話題を、わずか三分あまりで消化してしまうのだった。
「知っとる? 人間は豚とは違ってひとつの種しかおらんけど、三万年前までは共通の祖先から生まれたネアンデルタール人っていう別の種がおって、現生人類と一万年間共存しとったんだって」
 と話したときには、「ごめん興味ない」で一蹴された。ぼくと一緒にいても退屈で面白くない(というか退屈で死にそう)──これが彼女にふられた理由だった。むこうから好きだと告白してきたのに、どうして告白された側がふられるのか理解不能だった。一方的に付き合おうといわれて、一方的にふられるのだから混乱するばかりである。
 女子の気持ちがわからない。このときぼくは、女子というのは自分とは別の種類の人間、いわば〝ネアンデルタール人〟なのだと気づいた。自分とおんなじ男子同士のほうが気は楽だし面白いし、〝ネアンデルタール人〟の女子との付き合いはもう懲りごりだと思った。
 結局、吉川さんと別れるだけにとどまらず、ぼくは丸ちゃんのグループからも脱退することになった。丸ちゃんとリサさんが付き合っているばかりでなく、二人を中心とするクラスの頂点にある男女〝イケとる〟グループは、最近は校外でも一緒に遊んだりするので、吉川さんと居合わせることも少なくなかった。要するに、とても気まずいのだ。また、厚底ブーツにへそ出しルックのミニスカという、マゴギャル化する吉川さんが恐怖でもあった。
 とはいえ、ゴールデンウィークも明けたこの時期では、教室のグループ相関図もほぼ定着しており、元一軍グループの出身といえども、容易には新たな受け入れ先も見つからない。旧友の祐介を頼って、三軍のTKたちのグループに身を寄せるほかなかった。屈辱を押し殺し「へぇ~、スゴ~い」と彼らのそばで言ってみたが、すぐさま「お前、ぷよまん食ってへんやろ?」「それよりOVAの『08MS小隊』観てみい」と受け入れてくれた。
 こうして一軍から三軍の〝イケとらん〟グループへと、ぼくはクラスのスクールカーストの坂を転がる石のように堕ちていった。二年生での快適な学校生活はもはや諦めざるを得なかった。


2 イケとらんグループ、イケとる誓いを立てるの巻

 梅雨に入ってまもなく、みんなの祐介の呼び名が「湊(みなと)くん」から呼び捨ての「祐介」にとっくに変わっていたころ、TKがアニメの下敷きで厚顔を扇(あお)ぎながら、ジョーとマニアックな会話を繰り広げていた。
 ぼくや祐介、クルンは彼らのアツい話に入っていけず、かといって新しい話題をふろうにもつけ入るスキがなく、三人でうつむいたまま時間をやり過ごしていた。とはいえ、ただ会話に耳を傾けているうちにも、二人の話題がTKの下敷きに描かれたロボットアニメだとわかった。
 ロボットアニメ=『新世紀エヴァンゲリオン』とは、九五年から九六年にかけ、テレビ東京系列で放映されたテレビアニメで、九七年に劇場版が公開されたころより社会現象と化した。だが、ぼくらの街にテレビ東京のネット局はなく、これまでその名前すら聞いたことはなかった。TKやジョーはレンタルビデオで何話か観ていたようで、彼らの口を通してその存在を知ることになった。
 はじめは、中学生にもなってロボットアニメにハマるなんて、オタク連中だと軽蔑していた。ところが、東京での反響を受け、ぼくらの街でも放送がはじまると、ぼくは一転すっかり虜になって、下敷きをホワンホワンさせながらエヴァ談義に花を咲かせた。〝エヴァ〟という共通の話題が生まれたからこそ、ぼくらの距離は縮まったのかもしれない。
 ぼくらはエヴァの張りめぐらされた伏線と謎解きの数々に熱中し、キャラクターの内面を描く鮮烈な映像に圧倒され、哲学や心理学の学術用語、聖書からの引用に魅了された。「汎用人型決戦兵器・人造人間エヴァンゲリオン」をはじめ、クルンは難解な言葉をどんどん吸収していった。
 
「ねえ夏休みのプールじゃけど、TKもやっぱ誘おうや」
「誘わんでええわい、あんなブタ。どう見てもあいつ泳げる体型じゃないだろ」
 祐介とクルンは顔を見合わせることなく、テレビ画面をにらんだまま会話していた。格闘ゲームのキャラクターを追う眼球と、コントローラーのボタンを叩く親指だけがせわしなく動きまわる。終業式の日の午後、TKを除く〝イケとらん〟グループはジョーの家にたむろしていた。
「だいたい、あいつが来たらプールに脂浮くけえの。ダイヤモンドプールが豚骨プールんなるで。ハハハハ」
 クルンは自分で言って自分で笑いながら、ピザポテトを一枚つまんで口に入れた。ぼくもつられて手を伸ばすが、誰も見ていなかったのでこっそり二枚いただいた。
「おいクルン、お前ひとの脂より自分の油気にせえや。ポテトチップス食ったら、ちゃんと一回ごとに手えふけや。コントローラーが油でベトベトになるじゃろうが」
 ジョーに注意されると、ぼくとクルンは同時にじゅうたんで手を拭いた。
「おいコラ、じゅうたんで拭くな! お前ら、俺んちだと思ってめちゃくちゃしやがって。ホラ、ちゃんとこれで拭け」
 ジョーはティッシュ箱をブラウン管に投げつけた。箱が画面をかすめた瞬間、クルンは祐介の放った〝真空竜巻旋風脚〟をまともに食らい、ゲーム画面には“You are lost”の文字が大きく映し出された。
「アホかジョー、お前のせいで負けただろうが!」
 クルンが唾を飛ばす。ぼくはかまわず『金田一少年の事件簿』のページをめくった。
「ねえ小林、お前もTKが来たほうがええじゃろ?」
 祐介は転がったティッシュ箱を元の場所にもどした。
「イヤ、俺はべつに来てくれんでええけど。っていうか、あいつムカつくんじゃいの。ほら、関西人でもないのに関西弁話すとことか。クルンも前なんか言っとったじゃん」
「ああ、TKあいつ。お笑いが好きじゃけ、芸人の番組、何回も観ながら関西弁の勉強しよるんで。俺もあいつんち行ったとき、よう観さされたわ」
 ぼくらはTKの家によく足を運んでいた。TKの母は繁華街のはずれでラーメン店を営んでおり、一家は店舗のむかいのマンションで暮らしていた。
 彼の家を訪ねると、決まってお笑い番組の録画ビデオを、彼の解説つきで繰り返し観せられるので、ぼくらはウンザリしていた。ようやく『攻殻機動隊』のLDや『Xファイル』のビデオに突入しても、思い出したように、「グレチキあんなん芸人ちゃうでアイドルやで」「ボキャブラの金谷ヒデユキとか歌ネタも邪道やな」などと、わかったふうなお笑い論をぶつのだった。それでも足しげく通ったのは、彼の姉が目的だった。
 眼鏡で太った弟とは対照的に、彼の姉は息をのむような透明感と年上の女性の美しさがあった。気持ちを伝えようというつもりはなく、ただ彼女をガラスケースの中の美術品のように、指紋のつかない距離で眺めているだけで充分だった。それでも吹奏楽部でいそがしい彼女に、お目にかかれる機会はあまりなかったが。
 夕方、ビデオの観過ぎで目をショボショボさせながら、ぼくらは風に当たりによくマンションの屋上にあがった。そして橙色に染まっていく雑多な街並みを、給水タンクのてっぺんから見渡した。上からのぞくネオンの街は、うらぶれた光景として広がっていた。
 派手な看板の商業ビルや電飾に彩られたパチンコ店も、屋上は灰色のコンクリートが続くばかりだった。華やかな通りはスモッグの下に沈んでいた。ぼくらの先の見えない未来をのぞき込んだようで足がすくんだ。
「まあ、とにかくTKは誘わんけえの」
「クルンわかったけ、負けたんならはよ順番かわれや」
 ジョーに急かされると、クルンはコントローラーをぼくに渡した。
「バカ、つぎは俺の番じゃろうが!」
 ジョーはまっ赤になり、コントローラーを奪おうと立ち上がる。クルンは残ったピザポテトを平らげようとじかに袋に口をあてた。ジョーは立ちあがった拍子にリモコンを踏みつけ、ブンッと音がしてテレビの電源が切れた。
「なにやっとんやジョー!」
 まっ暗なブラウン管にクルンの険しい顔が映っていた。
「ぬあああああああっ!!!」
 パニックになったジョーは奇声を発し、ピョコピョコと変な動きをはじめた。〝セクシーコマンドー〟みたいで、クルンは口からピザポテトを吹き出してしまう。飛び散ったポテトチップスのかけらがゲームの説明書に付着して、その部分が油で変色した。
「お前らそんなことより、TKもプール誘ってやろうや」
 祐介はまだ言っている。だが、そのうち愛想を尽かし、本棚から『スラムダンク』の一巻を引っ張りだした。まだバスケに未練があるのだろうか。さいきん連載が終わったばかりだったが、一巻のページを開くと細かなほこりが宙を舞った。
「ねえ、『スラダン』のキャラで誰が好き? 俺は断然、木暮じゃの」
 祐介が眼鏡を外しレンズのほこりをチェックする。
「木暮ってお前、たんに眼鏡に真ん中分けで自分に似とるけえだろ」
「じゃあ、クルンは?」
「俺はやっぱ花道かのう。っていうか、フツー流川(るかわ)とか花道だろ」
「じゃあ、TKは?」
「わしは安西先生やな」
 ぼくらは不意をつかれ、恐るおそる振り返る。すると、背後には憮然(ぶぜん)とした黒髪の安西先生が立っていた。TKは祐介に眼鏡ふきを渡す。
「わし、さっきからずっと居てんのに、祐介以外だーれも気づかへんねん」
 TKはこめかみの汗をTシャツの袖でぬぐった。ぼくのとなりに腰を下ろす。
「はじめてジョーの家ひとりで来たんやけど、相変わらずさびれた神社やね」
「うっさいデブ」
 ジョーが言った。TKはタオルで顔をぬぐった。
「神社だけやったら食えへんから、オトン、サラリーマンもやって大変やわ」
「ほっとけデブ」
 ジョーが言った。TKは祐介から眼鏡ふきを受けとる。
「宗教法人じゃけ、ジョーんち税金払っとらんらしいで」
 ぼくが言った。
「払っとらデブ」
「いやいやいや、ボク言ったんとちゃいますやん」
 ジョーの言葉に、TKがつっこんだ。眼鏡ふきで汗をぬぐう。それから彼は腹の肉の間からベビースターの小袋を取り出し、一口つかんでボリボリすると、床に転がっていたコントローラーを手に取った。
「あれ、テレビ消えてもうてるやん。わし、まだゲームしてへんのに」
「アホか、つぎは俺の番じゃい。っていうか、手ふけ!」
 ジョーがそう言ってTKの腕をつかんだ。が、ビクともしない。
「ジョー、俺のあとはTKのはずだろ」
 クルンがテレビのスイッチに手をのばす。
「なんでや、このデブ、もともと居らんかったじゃろうが!」
「お前、さっきからデブデブ、どたまだんじりカチ込んだろか?」
「ほらっ」
 すると、祐介が別のコントローラーをジョーによこした。
「俺、もうゲームやらんけ、これ使ってええで」
「おお、さすが祐介じゃ。すまんのう。おい、見たか? お前らと違ってやつは大人なんじゃい。このガキどもが、ガキ! ガキ!」
「ガキはお前だろうが、まだチン毛も生えとらんくせに」
 クルンが言った。
「うっさいガキ、お前も生えとらんじゃろうが!」
「生えとるわい、ボーボーじゃい。お前と一緒にすんなバカ」
「ウソつけ。じゃあ、見してみいや」
 ジョーはそう言うとクルンのズボンに掴みかかった。
「やめえやジョー、チャックさげんな! お前、泣かすで」
 ジョーは気にとめずクルンのベルトに手をかける。
「夏休みのプール、TKも行くだろ」
 祐介は黄ばんだページから顔をあげると、割りばしでピザポテトを一枚つまんだ。
「おう、もちろんわしも行くで」
 TKはおもむろにジョーの股間を握ると、腕を振りあげながら立ち上がった。「しょーりゅーけん!!」
 クルンの助っ人にTKが加わったところで、ぼくは巻き込まれないようベルトを固く締めなおした。甲高いジョーの悲鳴が響く。
「兄ちゃん、俺のプレステ勝手に使うなや!」
 中学一年のジョーの弟が帰ってきた。兄とは違い、すでに声変わりしている。
「ちょいタイム、タイム。それどころじゃないわい」
 ジョーが股間を押さえ、弟に気を取られている隙に、クルンはシャツの裾をズボンのなかに仕舞った。
 
 夏休みとはいえ、午前中のゲームセンターは客もまばらだった。八月初旬のある日、ぼくは三階メダルフロアのスロットコーナーから、繁華街の通りをいつものように眺めていた。壁一面の窓ガラスからは、家電量販店や大型書店の建ち並ぶストリートの様子が見渡せた。
 スーツ姿のサラリーマンは足早に、私服の学生はのんびりと街を歩いていた。中高生が店頭で駐輪しようとペダルを止めれば、すかさず中高年の警備員が赤いライトセイバーで追い払う。たまに通りに車両が進入しても、ティッシュ配りのお姉さんはボンネットの前をのびやかに通り過ぎた。
 騒がしい街路の光景が巨大な一枚の絵画のように映って、ラッセンのイルカの絵のようにキラキラと輝いていた。ぼくを取り巻く空間は不思議な調和に充ちていた。世界を白黒にもパステルカラーにも塗り替えるのはぼくの心だった。ぼくは穏やかな気持ちでいられる、この時間のこの場所がたまらなく好きだった。
「祐介、昼飯はTKんちでラーメンにしようや」
「また?」
 ぼくと祐介は競馬ゲームのスツールに並んで座っていた。ファンファーレが鳴りやむと、おもちゃのサラブレッドがいっせいに競馬場のジオラマを駆け出した。パタパタと脚を前後にふるが、蹄(ひづめ)は宙をかき、腹のガイドが人工芝のレールを走っている。それでも疾走する足音だけはリアルだった。
「だってTKのお姉さんに会いたいだろ?」
「行ってもどうせ会えんじゃん」
「ええの。そんで昼からカラオケね」
「……ええけど、お前。クルンとまた喧嘩すんなよ」
 クルンとは先日、カラオケボックスでやり合ったばかりだった。クルンは一度もまともに歌わない。ぼくが『ロンバケ』の主題歌の『LA・LA・LAラヴソング』を歌っていると、めちゃくちゃなマーク・パンサーの合いの手で彼が乱入してきたのだ。TKが自分の股間を握って、「♪女なら感じろ~」と渾身(こんしん)のつんくでおどけたが、空気は険悪なままだった。
 ゴール直前、オグラキャップがハナ差で決めた。祐介の予想は的中したが、彼はメダルを賭けていなかった。ジオラマをはさんだ向こうの席では、大学生が薄ら笑いでメダルを拾いあげていた。穴馬を当てたらしく、機械はものすごい音でメダルを吐き出している。一方、ぼくのメダルカップは空っぽだった。
「だって、あいつマジむかつくじゃん。ひとが歌っとったら邪魔してくるし。っていうか、何であいつだけちゃんと歌わんのん?」
「外人じゃけえだろ」
 二階で『バーチャロン』をしていたジョーが、戻ってくるなり横に座ってそう言った。
「ガイジン?」
「クルンは外人なんじゃけ、日本の曲くらい歌えんでもしょうがないだろ」
 がいじん、ガイジン、GAIJIN……しばらく頭のなかで転がしてみたが、その音が「外人」に結びつくまで時間がかかった。クルンは東南アジアのタイ王国からやってきた、正真正銘の百パーセント純粋な外国人だが、「外人」という言葉にはどこか〝よそ者〟の響きがあって、それがいつも一緒に遊んでいるあのクルンを意味するとは、頭ではわかっていても感覚的にピンとこなかった。だって、ぼくらとクルンでは違う点などまるで見当たらないのだから(むしろジョーのほうが宇宙人なくらいだ)。
 ジョーに遅れて、クルンもビデオゲームフロアから戻ってきた。ジョーのとなりに腰をおろす。
「おうクルン、まだTK二階におるんか?」
「ああ、ブタなら脱衣麻雀にハマっとるで」
 カラオケでの一件以来、ぼくはクルンと口を利いていなかった。別に嫌いだからそうしているというより、意識するあまりギクシャクしてしまうのだった。お互い仲直りしたいのは感じつつも、こうして今日まで引きずっていた。
「祐介、まだ山のようにメダル残っとるじゃん。使わんのん?」
 ぼくは左隣の祐介に話しかけた。右側にはクルンがいて、顔を合わすのが怖かったのだ。あいだにジョーが居てくれることで、どうにか空気をたもっていられた。
「う~ん、もう昼じゃし。今日のぶんはキープしとく。どっか隠しとこう」
 祐介は立ち上がり、メダルの隠し場所を探しはじめる。スロット台の隙間、両替機の裏側、観葉植物の物陰など、人目につかないところを物色するが、なかなかメダルカップの置き場は見つからない。
 ぼくも競馬ゲームの陰を覗いてみると、筐体(きょうたい)の側面に見慣れない小さな写真が貼ってあった。爪を立てて剥がしてみれば、ド派手なフレームにコギャルが三人写っている。全員ピースサインの腕を前面にのばし、遠近法で小顔にみせていた。
「なんなんこの写真?」
「知らん」
 ぼくが尋ねると、ジョーは興味なさげに首をひねった。結果、ぼくの質問は宙に浮いてしまった。答えが見つからないこの状況で、話を閉じてしまうのは不自然だった。ジョーにだけ訊いてクルンに訊かないというのは、彼を無視しているだとか、誤ったメッセージを送りかねない。
 クルンに視線を向けると、ジョーと話すぼくに気がねしてか、うつろな顔でジオラマのサラブレッドを眺めていた。出走後も目線はゲートに固定されたままだった。声をかけても、生返事で一蹴されるだけかもしれない。そう思うと怖かったが、それでも仲直りできるチャンスかもしれないと思いなおし、ぼくはクルンに震える声を投げかけた。
「……クルンは……知っとる?」
「………」
 彼は無言のまま、相変わらずジオラマのゲートをにらんでいた。ぼくを無視したというより、自分に話題がふられたと思っていないようだった。スピーカーの歓声や蹄の音に紛れていた、ぼくとジョーの会話が途切れたとき、クルンははじめて自分に話しかけられたと気づいたようだった。彼はゆっくりと振り返り、ぼくと目を合わせる。そして閉じかけたドアを掴むように、慌ててかすれた声を発した。
「……この……写真?……〝プリクラ〟って……言うらしいで。うちのクラスの女子も……手帳とかに貼って……集めよった」
「……へぇ~、プリクラ」
「このゲーセンにも……あったと思う。俺らも帰り……試しに撮ってみるか?……俺がおごるけ」
「うん……ありがと」
 実のところ、ぼくは「プリクラ」なるものに興味はなかったが、願ってもない仲直りの機会だったので、クルンの厚意をありがたく受け入れた。彼が誰かに奢るなんて奇跡と言っていいのだから。
「ダメじゃ、メダル隠すとこなんかないわ」
 祐介がため息まじりに戻ってきた。席に着くなり、力なく首を振ってカップを筐体においた。カップからはずっしり金属の重みが伝わってくる。「マジどうしよう」
 三分後、オグラキャップを当てたあの大学生が近づいてきた。
「中学生、これやるよ」
 彼はそう言うと祐介の前にカップを並べた。どれもメダルで一杯で、両隣の席までカップがはみ出している。満足そうに大学生が立ち去ってからも、祐介は宝の山を前に途方に暮れていた。
 
 カレンダーをにらんで夏休みの残りを指おり数える。そして日曜日を二つ通り過ぎたところでいつも投げ出した。八月の第三週に入ってからは、カレンダーは撤去して押し入れの闇に葬った。日中は相変わらず三十度を超えて、蚊を叩きつぶせば掌に血がこびりつく。夏は陰りを知らなかった。
 だけど、ぼくらの夏休みは一歩ずつ着実に終わりに向かっている、それだけは確かだった。ぼくは残りの夏休みを、ただ宿題に追われて終わらせたくなかった。なにか最高の夏の思い出を作っておきたかった。とはいえ、キャンプや旅行に出かけるお金などあるはずもない。
「ほんなら釣りにでも行かへんか?」
 提案したのはTKだった。
 ぼくは釣具を祐介から借りることになった。祐介の家は、街の大通り沿いに東京ドーム〇・〇一八個ぶんの敷地を擁する老舗の銘木屋(めいぼくや)だった。敷地には、住居を兼ねた三階建ての自社ビルがあり、一階が製材工場だった。
 材木の薫りと不気味な威圧感に囲まれ、ぼくは工場の薄闇のなか一人たたずんでいた。
「小林、来とんならインターホンくらい鳴らしてくれや」
「すまん、誰もおらんかったけ、玄関の場所わからんかった」
「釣具があんのは三階の家のほうで」
 祐介はぼくを見つけると、高さ三メートルはある業務用のエレベーターに案内した。三階のエレベーターホールを出て、欅(けやき)の玄関扉を開けてすぐ、瀬戸物の傘立てが目に入った。
「釣具ならここにもあるで。これにしとくか?」
 振り向きざま祐介が悪戯っぽい笑みを浮かべた。傘立てには、子供用の黄色い傘、錆びついたゴルフパター、塩化ビニールの日本刀に混じり、くたびれたロッドが一本立っている。だらしなく伸びきった蛍光イエローの釣糸は、刀やパターにまで絡みついていた。まるでクモが何不自由ないここの暮らしに糸を持て余しているようだった。
「ママ、パパの釣具、まだあったよね」
 祐介は声を張りあげ、照明を反射する廊下の奥に消えていった。
 彼の個室には、28型ワイドテレビ(4:3の映像を16:9の画面に引きのばした歪んで映るブラウン管テレビ)、MDミニコンポ、ウィンドウズ95搭載のデスクトップパソコン、ウォーターベッド、アップライトピアノ、エレアコギター、エレキベース、プレイステーション、セガサターン、3DOリアル、PC‐FX、ネオジオCD、ニンテンドウ64、バーチャルボーイ(一度遊んだきり箱で眠ったまま)など、中学生には不釣り合いな高級品が並んでいた。
 ところが、誕生日に祖父からもらった彼のプラダの財布には、千円札が二、三枚入っている程度だった。大事な跡取り息子がアホのボンボンにならぬよう、小遣いの額は庶民の相場に合わせた、名家たる教育がほどこされていた。しかし、先日のゲームセンターの一件しかり、あるタイプの人間には本人の意思とは関係なく、自動的にお金が集まってくるみたいだった。
 
 ぼくらは堤防の一本道を、自転車で上流にむかって駆け出した。眼下には大きな川が流れていて、水面は陽を浴びて一面キラキラと輝いている。そのなかを近くの大学のボート部が、一糸乱れぬオールさばきでのびやかに進んでいく。
 対岸にはなだらかな己斐(こい)の山々が連なっていた。マンションを中心とした住宅地のふもとから、山腹に寺や学校のキャンパスを置いて、送電線をカムフラージュした鉄塔が山頂一帯に並んでいた。山の背から立ち昇る入道雲は、青空をバックに立体的で、まるでクリームソーダに浮かぶバニラアイスのようだった。
 生ぬるい風が全身を包みこみ、太陽は圧倒的な熱量でぼくらを照りつけた。何度タオルで拭っても顔から汗がにじみでた。自転車のタイヤは溶け出し、アスファルトに同化しそうだった。
 ぼくは思い切りペダルを踏んで、オンボロなのにやたら速いクルンの自転車を抜き去った。加速すると熱風はいつしか涼しい風に変わり、日焼けした敏感な肌を心地よく冷やした。ところが、すぐ背後から安物のルームランナーのような轟音が迫ってくる。負けず嫌いのクルンが巻き返しを図ったのだ。新聞配達で鍛えた彼の太股がうなる。ぼくは目の前に広がる青のパノラマを見上げた。壁紙みたいな単調な空だった。

「こうやってな、糸は橋の上からたらすねん。ほんなら、川のまんなかまで針が届いて魚がめっちゃ釣れるやろ。あいつらみたいに岸からやっても全然あかんわ」
 TKが祐介たちを二重顎(にじゅうあご)でさした。祐介とクルンとジョーは川岸で、ぼくとTKは橋の上で釣りをしていた。祐介が岸から力いっぱいロッドを振ると、釣糸は大きな弧を描いて川のまんなかに針を沈めた。ジョーは祐介の横でクルンからレクチャーを受けるが、鉛はなんど試しても川の瀬に同心円を描くばかりだった。
「っていうか、なんで小林、電動リールなんか使ってんねん。それ、昨日祐介んちから借りてきたやつやろ? アカン。通っちゅうのはな、やっぱ手動に限んねんで。こう、微妙なタッチが出えへん。ホラ、こっち使ってみいって。わしが教えたるけえ」
「離せ、TK。べつに教えていらんわ」
 TKがぼくとロッドを交換しようと試みた。が、激しくぼくが抵抗したため、橋の欄干(らんかん)に置いていたコンビニ袋に肘があたり、川にパラパラと中身がこぼれ出した。風に揺られながら、未開封のカロリーメイトの箱が橋の陰に消えていく。
「あっ、チョコレート味! 食ったことなかったんで。……クソ、なにがTKや。竹田国夫のぶんざいで」
 しばらくして、橋のたもとにクルンの姿が見えた。いつもの屈託ない笑顔を振りまきながら、彼はこちらに近づいてくる。服装はまるで民族衣装のように、この夏二日に一回は着まわしたグレーのTシャツだった。
「小林、なんか釣れたか?」
「……いや、サッパリ。クルンは?」
「まあ、プリングルスの空き缶くらいじゃの」
「へえ~、豪華じゃん。TKなんかよっちゃんイカの袋釣っとったで」
「オイ、お前らなに話してんねん。いま、わしの名前いうたやろ。なんや悪口か?」
 ぼくの隣で釣りに熱中していたTKが、とつぜん話に割りこんだ。暑さに耐えかねたのか、彼は上半身裸になっており、乳首は左右仲よく陥没していた。足もとのバケツによっちゃんイカの袋が泳いでいる。
「べつに悪口じゃないわあや。でも、下でジョーがお前のこと指さして、〝魔人ブウ〟って笑っとったで」
 クルンが言った。炎天下で裸になったTKの色白の肥満体は、日に焼けてピンク色に染まっていた。
「あいつ絶対シバく……あいつ絶対シバく……あいつ絶対シバく……」
 ブツブツ繰り返しながら服を着ると、TKはジョーのいる河川敷に向かっていった。一方、クルンはTKのクーラーに座り、置いていったTKのロッドを振りはじめた。ぼくはロッドを欄干に立てかけ、橋の上から夏の終わりの風景に目を凝らした。
 入道雲の上空にうろこ雲が広がっていた。気づかないうちに、秋はすぐそこまで訪れているようだった。ふたたび顔を出した陽の光を、川面がいささか鈍く照り返している。もうすぐ陽が落ちて夕焼け空に変わるころには、この川も赤く染まり、カンヌ映画祭みたいな赤じゅうたんが、いくつも橋をくぐり河口まで続いていくのだろう。
 往きに見かけた大学生からボートを借りれば、海に出てフランスに行くことができた。大阪、東京だけでなく、上海やロサンゼルスにだって行くことができた。もちろんタイにだって行けた。将来なにか世界的な仕事ができればと漠然と思った。いつかクルンはタイに帰って日本語の通訳とかをするのだろうか。差をつけられたようで少し焦った。
「こっちんが釣れそうじゃ」
「いや、釣れたのはゴミばっか。全然ダメじゃわ」
 TKのロッドを振るクルンの横で、ぼくはブツクサ文句を垂れた。「このクソ暑いなか、一時間以上も糸たらして一匹も釣れとらんのんで。もうえー加減帰ろうや。クーラーの効いた部屋で早うプレステやりたいわ」
「なんや、もう飽きたんか? まあ、俺んちクーラーないけ、別にどっちでも変わらんけどの。あ、なんかピクッときた」
 クルンは全力でリールを巻きはじめる。「何やこのリール、電動じゃないんか? ボロいのう」
 水面から針が上がると、魚はおろか餌のゴカイもなかった。
「……もう、やめようで。この川、ぜったい魚釣れんわ」
 ぼくの言葉にかまわず、クルンはふたたび餌箱のゴカイを探る。そして静かにこう語り出した。
「魚は釣れんでも、俺はこうやってお前らと一緒におるだけで楽しいで。日本来たばっかのとき、こんな楽しい夏が来るとはマジ思わんかった。毎日、お前たちとゲーセン行ったり、カラオケ行ったり、今日の釣りもそうじゃけど。なんか、中二んなって一気に友達ふえたわ」
「そんなことないじゃろ。小学校んとき、俺たまに見かけたけど、大休憩とかクルンいっつもクラスの友達とバスケしよったじゃん。お前、運動神経ええけ、中心なって活躍しとったし。けっこうクラスの人気者って感じだったで」
 流れてきた雲が太陽をふさぐと、容赦ない陽射しもしばし陰りがみえた。
「うん、確かにたくさん、日本に来てすぐたくさん〝友達〟ができたんじゃけど、なんか外国から珍しい転校生が来たけ、みんなで仲良くしてあげようとか、たとえばいろんなヤツが話しかけてきても、興味本位でタイ語教えてくれだとか、そんな感じで。俺はクラスじゃ確かに目立っとったけど、天然の人気者というよりはよそよそしく扱われる〝お客様〟で、なんかみんなとは見えん壁があったわ。案の定そいつら、中学入ったらもう俺に寄ってこんしの。
 でもいまは、別にクラスの中心にはおらんけど、当たり前みたいにクラスのなかに溶けこんどって、自分のおる場所がちゃんとあって、むしろ特別扱いされんで居心地がいいというか。まあ、あの頃はぜんぜん日本語できんかったけ、別にしょうがないけどの。……っていうか、俺いったいなに喋っとんじゃろ。こんなマジで話してキモイのう。すまん、忘れてくれ」
 照れ隠しでクルンは笑うと、
「俺もちょっとジョーんとこ行ってくるわ」
 ぼくから逃げるようにこの場を立ち去った。そのとき、一瞬だけクルンが見せた横顔からは、普段の〝クルンらしさ〟は完全に消え去っており、余計なことを言い過ぎたとばかりに真剣で硬い表情が浮かんでいた。
「クルン! 二学期んなったら、みんなで昼休みバスケしようや!」
 ビーチサンダルをカポンカポンと鳴らすクルンの背中に、ぼくは叫んだ。少し間をおいて、クルンは満面の笑みで振り返り、
「ええで!」
 と、よく通る声でかえした。それはいつもの笑顔だった。思えば、クルンが本音を語ったのはこれが初めてだった。真剣な話をしていても、彼は得意の笑顔と冗談ではぐらかしてばかりだった。どこか心に壁をつくり、必死で自分を守っているようにも見えた。だからこの日、少しでも彼の心の底に触れた気がしてぼくは嬉しかった。
 クルンは〝ガイジン〟なんかじゃなく、ぼくらの仲間なのだから。

 河川敷では、飽きもせずTKだけが釣りを続けていた。
「あんなァ、昨日、一年ときのクラスのやつんちで、初めて裏ビデオ観してもろうてん。ホンマもんの無修正やったで。お前たち観たことあらへんやろ? ものごっつよかったで。……あれ? 小林知ってんちゃうん? あいつやで、社長んとこで観たんやで」
 彼がロッドを振って話し出したとたん、祐介がいつものように席をはずす。彼はエッチな話題になると決まって姿を消すのだった。「社長」とは隣のクラスの小池のことで、オリコンの社長に顔が似ていた。
「ああ、社長なら小学校三、四年ときクラス一緒じゃった。あの、めっちゃエロいやつだろ? ムッツリ博士。あいつなら確かに裏ビデオくらい余裕で持っとるわい。俺もこの前、エヴァの同人誌借りたばっかじゃしの」
 ぼくはTKに答えた。
「小林、お前もその社長ってやつ知っとんか? じゃあ、俺らも今度そいつんちビデオ観にいこうで。『トゥナイト』のオッパイだけじゃ活動限界じゃあや。明日はダメかのう?」
 クルンが切実な顔で訴えた。
「それよりエヴァのどーじしんって何や? 小林言っとっただろ」
 ジョーも加わる。
「同人誌じゃろ? アニメとか漫画のキャラを使った二次創作のこと。まあ、要するにエヴァのキャラが出てくるエロ漫画。綾波やアスカやミサトさんだけじゃなくて、委員長とかマヤのカラミもあるで」
「えっ、マジで? 俺にもそれ貸してくれや!」
 ジョーより先にクルンが口をはさんだ。
「バカ、せこいでクルン! 俺が先じゃい。お前は教科書の土偶でシコっとけ!」
「……わかった、わかった。ジョーには俺がこないだ社長からもらったスカトロの雑誌をやろう」
「えっ、くれるんか! よっしゃマジでありがと小林くん。お前は命の恩人じゃのう、今度うまい棒おごってやるよ。……んで、その〝スカトロ〟って一体なんや?」
「……ん?」
 ぼくは言葉につまる。
「アレやで、アレ。スカンジナビアン・とろプレイの略でスカトロやねん。いうたら、北欧式の女体盛りプレイみたいなもんやね。新鮮なノルウェー産サーモンならべてな。そやろ小林?」
「そう、そう。吐くほどスゴイ……」
 TKのフォローでどうにか事なきを得た。
「おお、洋物かあ……」
 一方、ジョーは目を輝かせている。
「小林に感謝するんやで、ジョー」
「俺、感動したらなんか腹減ってきたで。おい小錦、お前のクーラーんなかヨーグルあっただろ。俺によこせ」
「誰が小錦やねん! お前なんかに絶対やるかボケェ、この暑いなか餓死してまえ!」
「TK、糸引いとる」
 クルンに肩を叩かれ、TKがリールを巻いた。水面からくたくたになったカロリーメイトの箱が顔をだす。
「あっ、カロリーメイトのチョコレート味」
 ジョーが言った。
「腹減ってんなら、お口いっぱい頬張ったらええねん。このスカトロ野郎」
 たちまちTKが切り返す。
 
 アンバサを手に戻ってきた祐介と入れ替わりで、ぼくはオシッコするため堤防の斜面をあがった。堤防の木陰でチャックを下ろしたとたんブレーキ音が鳴る。
「小林くんじゃろ? ひさしぶり」
 声をかけられ振り向くと、制服姿のTKの姉が自転車にまたがっていた。
「あっ、どうもです」
 とっさに会釈したあと、緊張でぼくは棒立ちになった。長いまつ毛ごしに目が合って、すぐに逸らしてしまう。自分でも顔が赤くなるのがわかった。
「ゴメンけど、弟にカギ渡しとってくれん。今朝、福岡の叔母さんが倒れて母親が行っとるけ、うち母子家庭で誰も家におらんのんよ。あいつカギ忘れたみたいじゃけ、届けにきたんじゃけど、河川敷まで降りるのめんどいけ」
 彼女が悪戯っぽく微笑んだ。まっ白なブラウスに木漏れ日がまだら模様をつくっている。自転車の車体が太陽を反射し、耳もとでは唸るように蝉が鳴いていた。
「わかりました。国夫くんに渡しときます」
 受け取ったカギを大事にポケットに仕舞う。一瞬、手が触れあってドキンとした。
「小林くん、前会ったときより声低くなったね。肌も日焼けしてたくましくなったし、なんかカッコよくなったよ」
「そ、そうですか」
 そっけない言葉とは裏腹に、ぼくは舞い上がりニヤニヤがとまらなかった。顔は形状記憶合金になってしまったようで、内側から頬っぺたを噛んで間抜け面をなだめる。
「うちの弟もそうじゃけど、男の子の成長ってスゴイね。アイツもこないだまであんな小っちゃかったのに……。このまま成長が止まらんで、ネアンデルタール人みたいにワイルドになったらどうしようって、たまに心配になるよ。って、ネアンデルタール人なんて言ってもわからんよね──」
「わかります」
 食い気味にぼくは答えた。テンパって、「クロマニヨン人もワイルドです」
「ふふふ、賢いね。じゃあ、あたし吹奏楽の練習があるけもう行くね。カギよろしく」
 彼女は自転車で引き返した。肌に貼りついた髪を耳にかけたとき、かすかに彼女の汗の匂いがして、なぜかぼくは興奮していた。
 年上の女性はクラスのガキどもとはぜんぜん違った。美しさや色気だけでなく、知性と教養をそなえていた。女子には懲りごりのぼくだったが、彼女はまったくの別格だった。
「あ、それから小林くん──」
 数メートル先で彼女が振り返る。
「ずっとチャック開いとるよ」
 下をむくと、股間がふくらんでチャックがパックリ割れていた。
 
 堤防を降りたときには、TKもすでに釣りをやめていた。あとで知ったことだが、ぼくらが使っていたのは海釣り用の道具で、餌も海用のものだった。魚が釣れないわけである。
「さっき堤防でお前のお姉さんに会って……」
 ぼくは事情を話し、TKにカギを渡した。
「おう、すまん」
 TKは肉でパンパンのポケットにカギをねじ込む。
「そいや、知っとるか? 秋から『めちゃモテ』がゴールデンに進出するんやで。名前も『めちゃめちゃモテたいッ!』から『めちゃめちゃイケてるッ!』に変わんねんて」
「またお笑いか、もうええわ」
 クルンはポケットからテトリンを取りだす。
「ちゃうちゃう、そうやなくて。わしらもナイナイとかを見習って、夏休み明けたら、なんか〝イケとる〟ことせえへんか?」
「テレビに影響されすぎじゃ、デブ」
 鼻をほじりながらジョーがつぶやき、TKに無言で頭をはたかれる。
「〝イケとる〟ことってなんや? TKがダイエットするとか?」
 ぼくはマウンテンバイクにまたがり、ガチャガチャとギアをいじりながら水を差した。するとTKは雛形あきこもびっくりの豊満な胸をそらせるようにして、
「これは脂肪ちゃうわ、筋肉や。わしのアッサムティーやからダイエットはせえへん」
「アイデンティティね」
 祐介が空き缶をパコパコさせつつ訂正する。
「わしら夏休みは無敵やったけど、正直クラスじゃめっちゃ影薄いやん。丸ちゃんとかが幅きかせとって。たぶん女子とかわしらのこと、キモイ〝オタクグループ〟とか思ってんねんで」
「エヴァが好きでなにが悪いんじゃ!」
 ジョーが声を荒らげた。指に力がはいり鼻から血が出る。
「あー、でもなんかわかるわ」
 祐介がジョーにティッシュを渡して話を引きとる。「昨日、並木通り歩いとったら、dj hondaの帽子かぶった不良にカツアゲされそうになったんよ。でも、不良の彼女らしい厚底サンダルのコギャルが助けてくれて、金髪で、ガングロっていうん? 肌はまっ黒なんじゃけど、よく見たらうちのクラスのリサじゃった。むこうも気づいたみたいじゃけど、めっちゃバカにした目で見られたわ」
「えっ? リサって丸ちゃんと付き合っとんじゃないん?」
 たまらずぼくは声をあげた。
「でも、そのあと腰に手えまわして、イチャイチャしながら去ってったで」
「そやねん。夏休みの魔法は女子をモンスターに変えんねんて」
 わかったふうにTKがうなずいた。「より悪いほうがモテるし、このままじゃわしら彼女もできへん」
「お前の言うとおり〝イケとる〟ことしたら彼女できるんか?」
 TKの言葉に激しく同意し、ぼくは口走っていた。マウンテンバイクからも跳び降りている。「お前のお姉さん、やっぱめっちゃキレイじゃったわ。〝イケとる〟ようになったら付き合って──」
「よっしゃ、立ち上がろうで! わしら〝TKネットワーク〟は、秋から〝イケとる〟グループになるんやで!」
「勝手に変な名前つけんな。俺は充分いまのままで居心地ええけどの」
 テトリンの手をとめ、クルンが言った。とりあえず、ぼくのお願いは義理の弟に却下されたようだった。
「アニメの復権じゃーー!!」
 とつぜんジョーが叫んで、鼻のティッシュがすぽんと飛んだ。
「勉強できると肩身せまくて、不良が威張っとんのはおかしいわ!」
 いつになく祐介の言葉は感情がこもっている。
「わしら二学期んなったら、それぞれなんか〝イケとる〟ことするって、誓い合おうで! 脱・地味な学校生活! 脱・〝イケとらん〟グループ! みんなでゴールデン進出やー!!」
 TKの雄叫びのあと、ぼくらは自転車で帰路についた。ぼくを取り巻く空や川や街の風景は一体となって溶け出し、びゅんびゅんと後ろに通り過ぎていく。こうして二学期になったら、ぼくらはそれぞれ〝イケとる〟ことをすると誓い合った。どうすれば義理の弟に認められ、彼の姉との交際にこぎつけられるか、十八段変速全開でぼくは考えていた。


3 祐介、アルバイトして24時間テレビに募金するの巻

「いや~、祐介はよう働きよるで。ごっつ感心しますわ」
 TKは靴下をまるめて床に落とし、テーブルに乗せた足をパタパタと扇ぎながら絶賛した。「ラ生門(しょうもん)」はランチタイムも過ぎて客足はパッタリとだえていた。テレフォンショッキングの篠原涼子を楽しみにしていたが、とっくの昔に『笑っていいとも!』は終わっていた。壁のメニューの「お好み焼きラーメン」が目に止まる。
「『24時間テレビ』に募金て、わしなんかベルマークも集めたことあらへんで」
 二学期になったらなにか〝イケとる〟ことをする──釣りのときの誓いを、早くも祐介は夏休みのうちに実行しようとしていた。七月中に夏休みの宿題も終わらせるようなヤツなのである。
 TKの母が水拭きしたテーブルは、雨の日にフロントガラスにワイパーをかけたような、放物線がいくつも描かれていた。TKの横ではクルンが『週刊少年ジャンプ』を読んでおり、ジョーはぼくの隣で鼻をほじっていた。祐介はというと厨房の奥にいる。
「そう、祐介はエライ! 皿洗いって、俺なんか便所で手も洗ったことないで」
「……汚いのう、ジョー」
 漫画から顔をあげてクルンが言った。「っていうか、募金のために働くっておかしいだろ」
 祐介は以前から募金に前向きで、制服の胸には赤い羽根がいくつもついていた。でも、クルンからは「しょせん親のカネだろ」と言われていて、今回は『24時間テレビ』に自分で稼いだお金で募金しようと、TKのラーメン店で皿洗いのバイトをはじめたのだった。が、生活のために新聞配達をしているクルンには面白くないようだった。ちなみに、彼は自販機の下から小銭を探して募金していた。
「おい、ラーメンまだか? この店はいったい何十分待たせるんや」
 注文からすでに四十分が経っていた。腹の虫を隠そうとぼくが口走ったとき、ラーメン二人前を携えたTKの母がわきに立っていた。
「ごめんね。うちも商売だから、お金払ってくれる客を優先するんだよ」
 テーブルに配膳しながら皮肉を返される。ぼくはバツが悪くて苦笑いしながら軽く頭をさげた。
「ちょっとボク、鼻のゴミはこの紙に捨ててくれる?」
 たちまち目の前を白い影が横切る。ジョーが鼻くそをテーブルの裏につける寸前、TKの母が差し出した紙ナプキンだった。息子に目をやると、彼はとうにテーブルから足を降ろしている。天井からぶら下がるテレビにはみのもんたが映っていた。
「お嬢さん、すみませんがレンゲを貸していただけませんか?」
 少しでも心証をよくしようとぼくは口を開いた。
「あっ、おばちゃん。俺もそれ頼むわ」
「こら、クルンちゃん。目上のひとにお願いするときは、ちゃんと敬語使いなさい。祐介くんは礼儀正しいのに」
「そやでクルン、うちのラーメンただで食わしてくれるんやからな」
『ありがとうございます』
 取ってつけたようにみんなでお礼を言う。
「あっ、そうだ。タイの言葉で〝ありがとう〟ってなんて言うの? おばちゃんに勉強させて」
「………」
「おばちゃん、ラーメン奢ってあげたでしょ」
「………」
「すみません、コイツ。俺たちが訊いたって、タイのことは絶対教えてくれないんで」
 口を閉ざすクルンをぼくはフォローした。釣りのときに聞いた、彼の小学校時代の話を思い出したのだ。
「あら、そう」
 TKの母は無念そうに、残りのラーメンを取りに向かった。無表情で読みかけの『ジャンプ』に戻るが、クルンの視線はページを上滑りしている。
「これ食ったらみんなでカラオケ行こうや」
 ぼくは話題を変えた。
「よっしゃ! わし『アジアの純真』歌おう」
 裸眼のTKがラーメンをすすりながら宣言する。
 すると、クルンが前の空気を打ち消すように、「あの歌、タイが入っとらんのんじゃいのう。北京にベルリン……って、ドイツはアジアじゃないだろ」
「お前ら、パフィーのどっちが好き? わし、亜美ちゃん」
「おい、ブタゴリラ。どうでもええけ、スキャットマン・ジョンのモノマネやめえや。クソ寒いで」
 ナプキン片手にジョーが言った。
「うちの国夫はブタでもゴリラでもありません」
 背後にTKの母が立っており、ジョーの前に強めにラーメンを置く。
「やっぱ、ラ生門ラーメンはうまかねぇ」
 爪楊枝をくわえてTKがつぶやく。元どおり眼鏡をかけていた。
 みんな食べ終えて、まっ先に席を立ったのはクルンだった。
「よし、じゃあ行こうで」
 TKはそれに気づくとあわてて先頭にまわった。今回はあくまで彼のおごりなのだ。ぼくも腰を上げ、ふとジョーを見ると、彼の器にはナプキンの山ができていた。
「じゃあの、祐介がんばれよ」
「おう、サンキュー」
 カウンターでみんな口々に声をかけるが、クルンは一人さっさと店を出ていった。ブラウン管は二時のワイドショーに変わり、昨年に引きつづきオウム事件の続報を流していた。《VXガス事件に関連して、教団「自治省」大臣、ホーリーネーム・ミラレパこと──》
 
 夏休み最後の日曜日、ぼくはリビングで一カ月分の日記と格闘していた。昨年までの反省を生かし、天気だけは事前にメモしておいたので、図書館で新聞をあさる必要はない。とはいえ、夏休みの宿題はほかにも山積みだった。
 点けっぱなしのテレビでは『24時間テレビ』が流れており、ローカルコーナーで地元のテレビ局のスタジオが映っていた。メッセージの記された募金箱が台に並んでおり、黄色いTシャツのアナウンサーのバックには、マラソンの赤井英和を応援するFAXが貼り出されている。
 七月二十七日の日記に気をもんでいた。たしかこの日はみんなでダイヤモンドプールに行ったのだが、TKだけはドタキャンして来なかった。
「じゃけ言うたじゃろうが、あのブタ誘わんでええって」
 クルンが眉間にしわを寄せる。ぼくらはバス停でダイヤモンドプール行きのバスを待っていた。ジョーは大きく「ジョー」と書かれた水泳帽をかぶっていた。
「そんなこと言ってやんなや。あいついまクーラー病でしんどいんじゃけ」
 祐介がMDウォークマンのイヤホンを片耳はずして弁護した。
「お前、そんなん信じとんか? クーラー病とかもっともらしい理由つけて、どうせ泳げんのが恥ずかしいけ、ドタキャンしたに決まっとるだろ」
「そうじゃ、小林の言うとおりじゃい。そもそも〝クーラー病〟ってなんや。そんな病気ほんまにあるんか? 俺んちクーラーないけ、なれるもんならなってみたいわ」
 自虐的にクルンが笑った。「俺なんか冷蔵庫の冷凍室がクーラー代わりで」
「じゃあ、クルンは〝フリーザー病〟じゃのう」
「すばらしい! ほら、見てご覧なさい! ザーボンさん、ドドリアさん、こんな美しい花火ですよ! ホホホホホホホ……」
 祐介にふられて、ぼくは渾身のフリーザ様のマネをしたが、すでに二人の関心はジョーに移っていた。祐介のイヤホンから漏れるノイズに合わせてジョーは踊っていた。水着袋につけた大量のお守りがワサワサ揺れる。
「なんやそれ? またジョーが変な動きしとるで。……っていうか、いつからお前『ジョー』が本名になったんや」
「コレ、この前出たばっかのSMAPの新曲」
 クルンに言われると、祐介がウォークマンの音量を最大にした。
「あっ、『青いイナズマ』じゃ!」
 ぼくはダダすべりしたフリーザ様をなかったことにした。ズボンの下にはいたトランクスの海パンが汗でモゾモゾする。それから音楽に合わせてみんなで歌いはじめた。クルンは曲を知らないのか黙っていたが、
『ゲッチュー!』
 のところで一斉にぼくらがクルンを指さすと笑顔になった。
 歌っているうちにバスがやってきた。ぼくらはノリノリでバスに乗りこんだが、プシューと音がして振り向くと、クルンの目の前でドアが閉まった。
「運転手さん、もう一人います」
 祐介が声をあげたが、バスはそのまま出発してしまった。
「クルン、あいつマジ運悪いのう」
 取り残されたクルンを見て、ぼくとジョーが爆笑した。クルンも水着袋を肩にかけ、バス停で照れ笑いしていた。結局、クルンは三十分遅れてプールに歩いてきたのだった。
 ──いいネタを思い出したので、さっそく日記に書きこんだ。その間も『24時間テレビ』は流れつづけ、
《こちらの募金会場ではみなさんの善意の輪が広がっています》
 ふと顔をあげると、ショッピングセンターでお揃いのTシャツの子供たちが募金を呼びかけていた。そういえば、釣りのときの誓いで祐介も募金したはずである。
 つぎの瞬間、ぼくは度肝をぬかれた。ペプシマンの貯金箱をわたす見覚えある顔がチラリと映ったのだ。画面が変わると同じ顔がインタビューを受けている。間違いない、祐介だった。
《はい、中学生の自分になにができるかと考え、夏休みに皿洗いのアルバイトをして募金しました。身体の不自由な方々をはじめ、少しでも社会に貢献できればうれしいです》
《ハイ、まだ中学生とは思えない立派な心がけですね。えー、みなさんからお預かりした募金は──》
 はじめて友達がテレビに映るのを観てぼくは興奮していた。まるで自分のことのように誇らしく思った。テレビのなかの祐介は芸能人みたいだった。〝イケとる〟彼の受け答えがすぐ自分に跳ね返ってきてアワアワする。こんなの自分にできるはずがない!〝誓い〟のハードルが急上昇して取り乱しながら、とりあえず今日の日記に、祐介が『24時間テレビ』に出ていたことを書きとめて気を静めた。
 
「何人か日記に書いとったけど、湊が『24時間テレビ』に出たらしいね」
 始業式のあと、担任のジョイナーが口にすると、教室はちょっとした騒ぎになった。「あ、俺もみた」「実物よりよかった」「あいつマジメ」などと声が飛び、祐介はいたたまれないような恥ずかしそうな顔をしていた。結局、彼は『24時間テレビ』に二万円を募金したのだった。「いいことよー、みんな見習って」と教師がまとめる。
「湊くん、悪いけどこれにサインしてくれん?」
 休憩中、どこで用意したのか、ミーハーの前原さんが色紙とマジックを祐介に差し出した。いつも一緒の親友の理子さんが、うしろで前原さんのシャツを掴んでいる。
「俺、芸能人じゃないけ、サインなんかないよ」
「普通に名前書くだけでええけ」
 テストの答案用紙のように、祐介は色紙に自分のフルネームを書いた。
「ありがと……」
 なぜか乙女の顔でお礼をいうと、二人はキャッキャと彼のもとを去っていった。すると様子をうかがっていた女子たちが、「ウチらもいい?」とぞろぞろと手帳をもって集まってきた。あぶらとり紙にサインをねだる女子もいる。
「オイ、どういうこっちゃ。祐介がジャニーズみたいになっとるで」
「スゴイのう、テレビのパワーは。どう見ても、ただのメガネで」
 ジョーとぼくが顔を見合わせる。すると、
「ほらみい、わしの言うたとおりやろ。誓いの〝イケとる〟ことやればモテんねん」
 得意顔のTKがぼくらの肩に手をおいた。〝メガネ〟の祐介がサイン攻めなのだから、ぼくが〝イケとる〟ことをすれば、SMAPみたいに東京ドームを満員にできるかもしれない……。祐介が律義にサインするさまを、ぼくらは遠巻きにおっかなびっくり観察していた。一方、となりでクルンは黙々と『猿岩石日記』の読書感想文に取り組んでいる。
「ごめんけど、つぎ体育じゃけもう行くわ」
 アルバ・スプーンを掲げて時間を確認すると、祐介は群がる女子の輪を抜けこちらに近づいてくる。体操服入れを手にした彼の背中から、キャーと黄色い悲鳴がおこった。「お前ら、こんなとこ固まってなんしよん?」
「祐介すまんけど、俺にもサインくれんか?」
 なぜかジョーも自由帳を突き出していた。
「はあ?」
 祐介は口をあんぐりとするが、
「こんなバカほっといて、はやく体育館に行きましょう。祐介さん」
 ぼくまでなぜか敬語になった。
 
「小林、社長からエヴァの同人誌借りてきてや」
「じゃあ、クルン。今から俺んち寄ってくか?」
「いや、夕刊配らんといけんけ、明日でええわ」
「たしか朝刊じゃなかった?」
「プレステだけじゃなくて『FFⅦ』も買わんといけんけ、夕方も配ることにしたの。だいたい日本のゲームは高すぎるわい。タイだったらソフト一本買えば、いろんなメーカーのゲームが遊べるで。ゲームだけじゃないわい。日本なんか髪切るだけで千円札なくなるけど、タイだったら路上で五円くらいで切ってくれるで」
 二学期に入ってからは、学区の異なる祐介とTKをのぞいた、ぼくとクルンとジョーの三人で下校するようになった。公園のプリン山を過ぎたあたりからは、ぼくはクルンと二人きりになる。すると、彼はこれまで決して語らなかった、タイの話をぼくにだけ聴かせてくれたのだった。
 バンコクの正式名称が、クルンテープマハナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラアユッタヤー・マハーディロッカポップ・ノッパラッタラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーンアワターンサティット・サッカタットティヤウィサヌカムプラスィットという、やたら長い名前だと教えてくれたのもこのときだった。
「なんやソレ、まるでお経じゃん! よう舌噛まんのう。っていうか、よく覚えとるのう」
「普段はみんな〝クルンテープ〟って呼んどるけどの」
「クルンテープ?」
「日本語でいったら〝天使の都〟っていう意味かのう」
「めっちゃイケとるじゃん」
「いまのタイの王様の先祖が、前の王様を倒してつくった都がクルンテープで、名前も王様がつけたんで」
「へえ~、天使の都……。〝広い島〟って意味の広島とはえらい違いじゃの」
 ぼくが感心すると、クルンが天使のように微笑んだ。タイのことを打ち明けてくれて、いつもと表情が違って見えたのかもしれない。
 そんなクルンの笑顔に、ぼくは昼休みのスリー・オン・スリーを重ねていた。
 ぼくらは二学期になると、夏休みの約束どおりみんなでバスケットボールをやった。校庭のゴール裏には、祐介目当ての女子の気配があった。
 クルンが笑顔で送ったチェストパス、ぼくはそれを受け止めきれず指を痛めてたじろいだ。と、その瞬間、視界の端から祐介が現れ、颯爽とボールをさらっていく。無駄のないドリブルから続く、エア・ジョーダンの軽やかなステップ、ボールは板に触れることなくリングにそっと添えられた。元バスケ部員・祐介のレイアップシュートだった。女子のため息がもれる。
 ウケ狙いで放ったぼくの超ロングスリーポイントシュートは、案の定、ゴールを越えてグラウンドを転がった。「すいませーん、取ってくださーい」ボールを追ってジョーが走る。むろんウケなどせず祐介が愛想笑いしただけだった。TKはリバウンドもせず、ゴール下でひたすらパスと叫んでいた。
「──おい小林、TKの姉ちゃんがおるで!」
 クルンに脇腹をつつかれ、われに返った。二つ目の信号のところで、ぼくとクルンは自転車のうしろに横座りしたTKの姉と出会った。制服のスカートから伸びる脚線は、流行りのインターネットのアドレス(//)のように揃って斜めに傾いている。交差点で信号待ちのようだった。
 運転手とお喋りして微笑むさまは美しく、束の間、ぼくたちは春めいた幸福感に包まれた。夏休み以来、意中の女性と再会して、今朝の『めざましテレビ』の星占いで乙女座が一位だったのを思い出した。やはり今日は吉日だったと神様と大塚様に感謝する。
 が、それも一瞬だった。
「……小林、やっぱTKの姉ちゃん、彼氏おったんじゃね」
 彼女の前に座る制服の男がたぶん彼氏だった。信号が青になると彼女から男の腰に腕をまわし、自転車の二人は密着したままマンション沿いを走っていった。
「そりゃ、あんだけ美人だったら、おらん方がおかしいわ」
 顔を引きつらせながら、ぼくは強がった。正直、ショックで立っているのがやっとだった。一方、クルンは直観的に〝もったいない〟と思ったのか、しゃがみ込んでアスファルトに耳をつけると、遠くからでもスカートをのぞこうと苦心した。
「せっかくのチャンスで。小林はええんか?」
「俺は女子と付き合ったことあるけ、別にええわ。クルンみたいに飢えとらんけ。まあ、こっちからフッたんじゃけど」
「あ、ちょっとパンツ見えた」
 クルンは聞いていない。
 いっときでも女子に心を開きかけた、ぼくが愚かだった。「カッコよくなった」なんて言われたら、誰だって勘違いするに決まっている。要はもてあそばれたのだ。TKの姉もリサさんも男を手玉にとって食うモンスターだった。〝ネアンデルタール人〟どころか、この世のものではない魔女の一種である。
 祐介のおかげでハードルも上がり、すっかり〝誓い〟のやる気を失っていた。そんなところを、前原さんと理子さんが通りかかった。学校の帰りも二人きりで、前原さんがペチャクチャと喋って、理子さんは笑顔で相手している。
「理子、来週の『HEY!HEY!HEY!』のスペシャル、朋ちゃんが出るんじゃって」
「あたし、アルバム持っとるー。なに歌うん?」
「なんか新曲歌うらしいよ。松ちゃん超ウケるけ、トーク楽しみ」
 クラスの女子にいたってはこのレベル。女子と関わりあいになるのは、もうよそうと思った。男子同士でバカ騒ぎしているほうが楽しいし、女子はぼくらの気持ちをヘーキで踏みにじるのだから。
「そいやあ、山口さんたち。湊くんのファンクラブつくったんだって。湊くん、いっつもクールでカッコ……って、クルン、邪魔! あんた地面に寝転んでなんしよんね」
 顔を上げたクルンを、前原さんが踏みつけようとしている。後ろで理子さんはケタケタと笑っていた。
「行こう、理子。知っとる? カミセンの岡田くんがね──」
 女子が通り過ぎると、クルンは苦笑いして、
「……ヤバイ、前原のパンツ見てしもうた。目が腐るわ」
「それよりクルン、あいつら祐介のファンクラブができたとか言いよったで。どうなっとるんや?」
 クルンはそれには答えず、すぐそばの自販機の下に手をのばし、
「おい、ギザ十(じゅう)見つけたで! 募金しよ」
 満面の笑みで泥だらけの十円玉を掲げた。
 
「最近なんか、下校中にあとつけられとるような気がするんよ」
 休み時間、祐介が声をひそめて話し出した。「学校におってもジロジロ見られとるような気がするし、昼休憩バスケしよっても、カシャッと音がして見たら女子が『写ルンです』持って逃げよるし」
「なんや自慢か」
 机の上でジョーは練り消しをこねている。
「いや、ぜんぜん違うわ。先週も下駄箱んなか誕生日カードと一緒に、ミスチルの『深海』が入っとったんで。『アワーポート一同より』っていったい誰や? っていうか、俺の誕生日とかミスチル好きなのとか、なんで知っとんや?」
「やっぱ自慢じゃないか。俺が教えたんじゃい、山口に訊かれたけ」
 平然とジョーが答えた。
「じゃけ、前も言っただろ。山口たちがあなたの……お前のファンクラブ結成したんじゃって」
 少しムキになってぼくは言った。
「芸能人じゃあるまいし、そんなのあるわけないだろ。たんに俺をからかって面白がっとるだけじゃあや。ああ、毎日気が重いわ」
「お前が二万円もテレビに募金するけえだろ。調子ん乗ってサインまでしよるし」
 冷たくクルンに突き放され、祐介は頭を抱えた。
「……うん、そうじゃわ。インタビューなんか答えんじゃなかった」
「アホ、なんでやねん。せっかく誓い守って〝イケとる〟ことしたっちゅうのに」
 TKが扇いでいたエヴァの下敷きの手をとめる。「ほんなら、祐介のファンクラブを〝TKネットワーク〟のファンクラブに改編すればええねん。看板の祐介をとっかかりに、わしら全体を〝イケとるグループ〟にすんねんて。どや、わしがプロデュースして──」
「湊くん、お願いがあるんじゃけど」
 ゴミ箱近くのぼくらのテリトリーに山口さんたちが立っていた。
「……なに?」
 話題の山口さんの登場に、祐介は少し警戒したようすで顔をむける。
「二学期の学級委員に立候補してくれん?」
 と山口さん。祐介の顔は曇ったが、TKはニヤリと笑った。
「これ読んでくれん?」
 祐介に渡された紙には、ざっとこんなことが書いていた。
 高校推薦の内申目当てで、〝知ったげ〟のつまりが学級委員に立候補しようとしている。あんなキモイやつがクラスの顔なんて耐えられない。『24時間テレビ』で見せたような、クールでまじめな湊くんこそがふさわしい。選挙になっても〝アワーポート〟の組織票があるし、わたしたち五人が湊くんへの投票を呼びかけていく。ぜひ学級委員に立候補してほしい。
「ごめんけど、俺もうこれ以上目立ちたくないけ、そっとしとってや」
 祐介はやんわりと断った。
「……でも」
「ごめん」
 食い下がろうとする山口さんに、今度はにべもなく彼は席を立った。
「〝アワーポート〟……やったっけ?」
 祐介が行くと、すかさずTKがしゃしゃり出てきた。「心配いらへん。わしがあいつ説得するさかい。プロデューサーはTKや、大船に乗ったつもりで待ちなはれ」
 彼女たちはこの場は引き下がり、TKに一任することにした。祐介にてんでやる気はなかったが、TKはことあるごとに説得を続け、なかでもつぎの一言に祐介の心はぐらついたようだ。
「夏休みに、ヤンキーばっか教室でデカい顔しておかしい、って言うたやろ。学級委員選挙は、優等生こそ〝イケとる〟んやって見せる絶好のチャンスやんか」
 祐介がチラリとストーブ界隈を見れば、丸ちゃんたちがホウキを振ってオリックスのイチローのモノマネをしている。丸ちゃんの打った軟式のテニスボールが西尾の顔面に当たるが、彼は怒らずつくり笑いでボールを返していた。
 祐介はTKに向きなおると、立候補すると宣言した。
 学級委員が決まる金曜日にむけ、祐介のファンクラブ〝アワーポート〟は選挙活動を開始した。休み時間は五人で手分けして投票を呼びかけ、授業中もお願いの手紙をクラスの女子にまわした。だがクルンは、「これ渡して」と受け取った手紙を隣にまわさず、自分のポケットにそのまま仕舞うのだった。
 思えば、一学期に学級委員を決めたときは大変だった。誰も手をあげず、候補者が現れるまで帰れなかった。放課後、一時間以上も重い空気が教室を支配した。ところが、五分のトイレ休憩をはさむと、アマチュア無線部の西尾が手をあげた。休憩中、早く帰りたい丸ちゃんに脅され、無理やり立候補させられたのだった。
 金曜日のホームルーム。
「じゃあ、学級委員に立候補したいという人、挙手してください」
 ジョイナーがうながすと、一学期とは打って変わって、すぐに〝知ったげ〟のつまりが手をあげた。
 つまりは、その名のとおり「つまり」が口癖の理屈っぽいやつで、学校で『「超」勉強法』を熟読するが、放課後は居残りで補習テストという男だった。父親が紙屋町で洋風居酒屋を経営していたが、最近つぶれたらしい。
「ほかに誰かおらん?」
 満足そうにジョイナーが見まわすと、祐介がスッと手をあげる。「オー」と歓声がつづいた。「よし、これで打ち止めじゃの。さっさと投票しようで」と丸ちゃんが発するやいなや、また「オー」と歓声があがる。
 教室を見渡すと、なぜかクルンも手をあげていた。TKと思わず目があった。
「ハイ、早いもん勝ち。つまりで決定!」
 丸ちゃんの不満の声とは裏腹に、ジョイナーの提案で三人が投票前に演説をすることになった。ジャンケンの結果、演説の順はトップバッターが祐介、次がつまり、トイレ休憩をはさんで三番目がクルンと決まった。投票はそのあとだった。
 祐介が緊張ぎみに教壇に立つと、「湊くん、がんばってー」と女子の声援がとんだ。彼は一呼吸おくと背筋を伸ばし、まっすぐ前を見据え、よく通る声で話しはじめた。
「今回、私が学級委員に立候補した理由は、クラスのみんなの役に立ちたいからです。悩んだり困ったりしている仲間がいれば、一人ひとり親身に相談に乗り、快適な学校生活が送れるよう少しでも力になりたいと思います。
 来年は三年生でみんな受験勉強に忙しくなります。残りの二年生で最高の思い出をつくって、六組でよかったと言ってもらえるような、そんなクラスになるよう努力したいと思います。当選したら責任をもってクラスをまとめます」
 祐介がお辞儀すると、大きな拍手がおこった。〝アワーポート〟のメンバーは目を潤ませ、腫れるくらい手を叩いていた。『24時間テレビ』のインタビューと同様、そつのない優等生な演説だった。丸ちゃんが大口を開けカバのようにあくびする。
 一方、二番手のつまりは口をとがらせ、早々に「つまり」を連呼した。
「クラスの役に立ちたいとか、社会貢献したいとか、つまり、中身のないうわっつらだけの候補もいるようですが、こんな人気取りのためにテレビに出るような、つまり、粉飾決算のタレント候補が当選したら、早晩クラスは崩壊することでしょう。みなさん、つまり、まじめそうな顔に騙されないでください。つまり、裏では組織を動員して事前運動をおこない──」
 つまりは祐介の批判に終始して、たちまちブーイングが巻き起こる。「批判ばっかせんで自分のアピールせえや」などとヤジが飛ぶ。だが、めげずにつまりは演説を続け、最後は「つまり、こんな偽善者に負けるわけにはいきません」と締めくくった。席に戻るつまりを、ずっと山口さんがにらんでいた。
「……ハイ、演説は攻撃の場ではありません。ほかの候補の悪口ではなく、前向きな話をしてください」
 ジョイナーが注意したところで、五分間のトイレ休憩に入った。ぼくとTKはさっそくクルンの机に駆けよった。
「なんでクルン、立候補したん?」
「お前、学級委員なんねんなら、祐介と〝誓い〟カブってるやん。アカン、反則やで」
 ぼくらにつめ寄られてもクルンは涼しい顔だった。遅れてジョーが現れる。
「なんやクルン、学級委員になりたかったんか? 学級委員同士でチョメチョメしようって気かもしれんけどの、よそのクラスにエヴァの委員長みたいなのおらんで。ブスばっか」
 それからジョーは、委員長こと〝洞木(ほらき)ヒカリ〟の姉は〝コダマ〟、妹は〝ノゾミ〟で、新幹線三姉妹だとか関係ない話をはじめた。
「お前ら、うっさいわい。黙ってつぎの演説きけえや」
 クルンは頬杖をつき、窓の外を見たままぼくらを追い払った。祐介は女子に机を囲まれながら、こちらを心配そうにうかがっていた。
「ハイ。じゃあ、最後クルン。お願いします」
 休憩が終わり、教壇の前に立ったクルンの足はふるえていた。表情もいつになく強(こわ)ばっている。ジョイナーに促されると、かすれた声でポツリポツリと演説をはじめた。
「……えー、と。二万円は一カ月の、俺んとこの家族二人の食費です。俺は……あの僕は毎日、新聞配達しとって、月に四万円もらいます。家賃を引いた残りが食費になります。誕生日とかクリスマスとか親になにか買ってもらったことはないです。
 僕も日本の役に立ちたいので、たまに募金します。ですが、お金がないけえ、自販機の下で小銭を拾って募金します。交番にも届けとらんし、盗んだカネで自己満足しとるだけの偽善者かもしれん。じゃけど偽善でも、なんもせんで文句ばっか言って、いいことする人の足を引っぱるやつよりマシだと思います。別にいいことする理由は、それで助かるひとがおるんなら、人気者になりたいでもなんでもいいと思います。
 小学校のころ、僕はあまり日本語がうまくなかったですが、いまも敬語は得意じゃないですけど……そのころ学級委員の女子がいろいろ助けてくれました。授業中はとなりに机をつけて、わからん言葉があったら教えてくれました。
 その女子が親切にしてくれた理由はわかりません。先生に言われただけかもしれんし、私立の中学に行ったけえ内申点のためじゃったかもしれん。でも、どんな理由でもその女子のおかげで僕が助かったのは本当です。じゃけえ、いまでも感謝しています。僕は……そんな学級委員になりたいです」
 クルンの演説はヘタクソだったが、率直な思いが伝わってきて……いちばん胸を打たれた。クルンに投票しようとぼくは思った。祐介ほどではなかったが、演説のあと彼に温かい拍手が送られた。ジョイナーも涙ぐんで感動しているようだった。
「クルンの被選挙権を剥奪すべきだと思います」
 まっすぐ手をあげ、つまりが発言した。「外人に学級委員なんてやらせたら、クラスが乗っ取られる恐れがあります。つまり、安全保障の観点から重大な問題です。不法滞在かもしれず身辺調査が必要ですし、外国勢力に操られるリスクがある以上、クルンにはつまり、候補を辞退してもらうべきでしょう」
 二人に遅れを取ったことに危機感を覚えたのか、つまりはクルンが〝ガイジン〟であることを槍玉にあげた。
「つまり、最低」「クルンもクラスの仲間だろ」「言っとる意味わからん。なんでクラスがタイに乗っ取られるんや」──ジョイナーはつまりの発言に顔色を変え、さすがに叱りつけようとしていたが、教室から次々と非難の声があがったため、腕を組んでしばらく様子を見守っていた。
 ついで、祐介が立ち上がる。
「先生、これは明らかに差別発言です」
「キレイごと言うな、差別じゃなくて区別じゃい。危機管理上、当然だろ」
 つまりは祐介をにらみつけると、色をなして反論した。
「あ、わかった。俺、立候補を辞退します。俺に投票してくれる予定だったひとは、クルンに投票してください。俺もそうします。クルンこそ学級委員にふさわしいと思います」
 クルンはその間、絶望的な面持ちで床の一点を見つめていたが、
「もう、ええわ」
 祐介が辞退すると言いだすと静かに口を開いた。「俺も……やめるわ」
 その後、祐介が必死に説得したが、クルンの考えは変わらなかった。二人が立て続けに辞退したことで、無投票でつまりの学級委員が決定した。
 やむなく先生が結果を告げると、つまりはほくそ笑んだ。
 祐介もクルンも学級委員にならなくて正解だったのかもしれない。『24時間テレビ』に募金すると祐介が宣言して以来、二人の間に吹いていたすきま風は、この日を境にぴたりとやんだ。放課後、彼らは漫画の貸し借りをしていた。
 なぜクルンが学級委員を辞退したのか、ぼくは芯のところではわからずにいた。ぼくらとクルンは、同じような平べったい顔をして、同じようにゲームやカラオケで遊んで、勉強はしなかったけど、一緒にエッチな話をして同じように笑っていた。ぼくはクルンが〝ガイジン〟であると意識したことはなく、ほとんどいつも忘れていた。
 ぼくはクルンを自分と変わらない、男子同士の仲間と思っていた。同じことに意味があり、同じことこそが友達なんだと信じていた。だから、つまりの言葉がぼくらとクルンの間に裂け目をつくったとき、なにが起きているのか正直わからなかった。静かに肩をふるわせていたクルンの感情など、理解できるはずもなかったのだ。
 山口さんたちの祐介への熱は三週間ほどで冷めていった。魔法が解けたように祐介の人気はなくなった。一組の男子が陸上の県大会で三位になると、〝アワーポート〟は〝アワーブリッジブック〟に名前を変えた。祐介は淡々としていたが、ゴミ箱に捨ててあった彼のサイン色紙を見つけ、ぼくは女子というのがますます恐ろしくなった。


『別れ際にじゃあのなんて、悲しいこと言うなや』(黒瀬陽/早川書房刊)

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