《半可通信 Vol. 6》 歩行者日和、または南斜面をなぞる旅
たまには本当に歩いた記録など。
神田上水というものがかつてあった。江戸の六上水と呼ばれる近代的な水道網のうち最も古く1600年頃に造られたもので、神田川を分流して神田、日本橋など江戸市中の低地帯へ飲用水を供給していた。当時はもちろんポンプなどという機構はなかったので、自然流下方式、つまり高い所から低い所へ流れるように流路を選んで、しかも江戸市中より高い所から流すように掘削したわけだ。これは当時としては非常に高度な測量技術と掘削技術が必要だったはずで、いったいどんな流路を経て市中まで流れていたのか、その地形の名残を探しながら歩いてみたいと前から思っていたのだった。
そこで分流地点のあった江戸川公園(文京区関口)を地図で見つけたのだけれど、そういえばここは椿山荘がすぐそば。そしてその隣に、肥後細川家のお庭があるのを発見。俄然こちらに興味を惹かれた。というのも椿山荘は元々、南に神田川の谷を望む高低差の大きい地形を生かして山縣有朋が築いた庭園だったからだ。陽当たりのいい南斜面。これぞ一等地。細川の殿様のお屋敷があったのもそのためだろうし、これは見てみたいと思った。
前振り長すぎ……(汗)。ここからが本編です。
急に暖かくなった三月のある日、地下鉄の護国寺駅を出て細川庭園に向かった。
ただ、このルートは失敗で、駅が音羽の谷の底にあって、そこから目白台地を越えて神田川のほうへ降りることになる。これが結構急な登りで高低差もあり、出だしからやや息切れ……。雑司が谷駅もしくは目白駅で降りて、台地の上にいきなり出るのが正解。(余談でした)
目白通り沿いに、区の大きな運動公園がある。後で聞くと田中角栄邸の一部だったらしい。この隣りの肥後細川家の広大な土地の一角に、和敬塾という学生寮が建っている。勝手に入ってはいけないので門から覗くと、緑豊かな敷地を広く使って建物が点在していて、とてもいい雰囲気。この和敬塾と運動公園の間の坂を下っていく。思った以上に急な下りだ。前に一度、椿山荘に来た記憶からすると、台地のてっぺんから神田川までの高低差は10m程度と思っていたが、とんでもない。15mあるいはそれ以上の高低差をもつ、立派な崖だ。そして南向き。作庭家にとっては腕の鳴る立地じゃなかろうか。
そして、谷底まで下りると肥後細川庭園の入口がある。区が運営し無料で入場できるが、何とまあ立派な池泉回遊式庭園であることか。金沢の兼六園は台地の上と下に跨る巨大な庭園で、下のエリアはその高低差を生かした作庭がなされているが、あの部分だけを取り出してきたような端正な造形。池の高さから眺めても、その背後の丘に上がって見下ろしても絵になる。
そして、丘を登り切れば有名な永青文庫がある。白壁、三階建ての、シックな洋館。このとき展示されていたのは、同館の細川コレクションに個人蔵の出展品を少し加えた、インドと中国の仏像やヒンズー教、道教の像など。様式が宗教・信仰を超えて伝播するさまが面白かった。
永青文庫を出ると、ソメイヨシノが一輪だけ花開いていて、その下に散策の人が二、三組集まって見上げたり、スマホのレンズを向けたりしていた。春のはじまりの一場面。
ふたたび坂を下りる。胸突坂という、字面だけで急坂とわかる名前の坂で、ここは階段が刻まれていて車両は全く通れない。しかしこの坂の上からの眺めはなかなかいい。神田川の挟んで向こう側の右岸は、台地ではないので谷の斜面はとても緩く、そこにマンションや雑居ビルや住宅がひしめき合っている。ある意味、左岸であるこの斜面の上流社会ぶりと、残酷な好対照をなしているのが何とも言えない。でも庶民生まれ庶民育ちの自分の心は向こう側の街にあるなあ、と思う。
坂を下り切って左に折れ、川沿いに少し歩くと椿山荘の入口。起伏を生かし、イギリス風の自然主義の様式を取り込んだ庭……だが、ん? と思ったのは建物の迫り出し具合だ。有名な五丈滝のすぐ隣に、ウェディングのロビーだろうか、立派な全面ガラス張りの建物が、滝に被るように建っている。昔からこんなだったっけ……いかんせん、台無しだ。ホテル・結婚式場が併設されている以上、仕方ないことなのか。絶妙の立地だというのに。
さてそんなわけで椿山荘を出ればすぐに江戸川公園。川沿いの細長い園地のすぐ北側には崖が迫り、果たしてこんな場所に神田上水の取水口「関口大洗堰」があったのか不思議なほどだ。園内にもその面影はなく、水門の施設の一部が移設されて残っているばかりなので、「本当にここらにあったのか」感はいよいよ深い。そしてここからが、水路跡の道をたどる街歩きの旅になる。
あ……いわゆる紙幅が尽きた感じなので、本日はここまで。次回に続く(か?)。