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音楽朗読劇『ジキルVSハイド』感想

公演概要

11/30(土)神奈川県立青少年センター 19時開演

原作:ロバート・ルイス・スティーヴンソン

翻案・演出:田尾下哲 さん

音楽:高田雅史 さん

CAST

ジキル/ハイド 石川界人 さん

アタソン   中島ヨシキ さん

マリー    吉岡茉祐  さん

この公演を知ったきっかけ

吉岡茉祐さんのtwitter

感想 前置き

まず、この感想を読む前に知っていただきたいのは、私は原作の『ジキルとハイド』は未読である。もちろん多重人格の代表例としては知っているが、なのでこの時点での感想は、劇を見たうえでの感想となるのでその点はご了承ください。

感想 公演前 会場 物販 客席

久しぶりに桜木町へと降り立った。といっても降りた駅はみなとみらいなのだが。かつては東横線にも桜木町駅があったのに、今となってはもうずいぶんも昔の話になってしまったものだ。今回の劇場である神奈川県立青少年センターは自分としては思い出深い場所だ。学生時代、吹奏楽部だった時分にお世話になった場所である。客席に座るのは逆に初めてだったので、なんだか不思議な気分だった。駅から徒歩で行ける距離にはあるが、そこまでに長い坂を歩くことになる。もうすぐ暦では12月。寒い中早く会場につくように足を早め、息が少し上がった。

会場につくと何となく予想はしていたが女子が多い。男性キャストのほうが多いのだから、それは当たり前であるのだが、やはりこういう現場は慣れないもので、さっさと席に座ってしまうことにした。席は前からも横からも真ん中といった具合。視力はあまりよくない(眼鏡をかけてギリギリ1.0だが、多分もうちょっと悪い)ので、できればオペラグラスが必要だったと少し後悔。とはいっても、この朗読劇のシリーズに大きな演者の動きはなさそうなので、必備ではないでしょう。ただスクリーンの用意などはないので、表情もつぶさに観察したい人には必要だと思います。

物販はおそらく台本とパンフレット。台本はおそらく文字の大きさが割と大きめなので、演者が使っているものと同じもの? パンフレットには全キャストのコメントがあります。併せて2500円で、セットでお求めで、専用の袋がついてきます。

感想 公演(ネタバレ)

簡単なあらすじは、ジキル博士は人格者であり、地位の高い人として周囲から知られているが、彼の周りでは最近おかしなことが起きている。そのことに気づくジキル博士の家で働く若いメイドのマリー。そして彼の旧知の弁護士アタソン。マリーは家の中で、アタソンは家の外で、それぞれハイドの存在に気づき、やがて彼こそがいろいろな事件の原因であることをしる。だが、そのハイドとはジキルが薬を摂取することで生まれた悪の部分を結集したもう一つの人格だったのだ。最初は薬により入れ替わっていたものの、一人の人間に混在する二つの精神がやがて対立し始め、だんだんとハイドがジキルの時間を乗っ取り始めるようになる。悪行を重ねていくハイドを止められなくなるジキル。悪行がエスカレートした結果、殺人を行うまでになり、その疑いのため警察から追い詰められたハイドは、ジキルを救おうとするマリーとアタソンを殺そうとするが、マリーを殺すという選択肢を選べない自分に動揺する。結果ジキルはハイドとともに自殺する道を選び、物語は終焉を迎える。(稚拙ですみません)

朗読劇としてやはり一人二役のシーンが一番目を引くんですが、今回の二役は石川さんのジキルとハイドと吉岡さんのマリーと娼館の経営者でした。ともに対比的な役柄であることもあって、セリフで入れ替わるところは圧巻です。終盤においてはジキルとハイドは常に入り混じっている状態なので、さらに演技が難しそうに思えたし、またジキルを赤、ハイドを緑の照明で表現していたからこそ、絶対に誤魔化しもきかない状態だったので、とにかく脱帽でした。また吉岡さんの二役もセリフと地の文が入り混じるので、自分がやったら絶対こんがらがるだろうなと思って聞いていました。ホント声優さんってすごい。

さらに大事なのが中島さんが演じるアタソンである。この物語自体は、ジキルとハイドとマリーの関係性で大筋が進んでいるのだが、これだけだとまず、家の中で話が完結してしまうのと同時に、マリーが本格的にハイドを拒否していないため、ハイドの異常性がいまいち伝わりずらい。なのでアタソンはハイドの異常性を際立たせるためにも必要な、社会から見たジキルとハイドを伝えるキャラクターなのだと思う。語りを担当されたことからも分かる通り、主観が強すぎてもダメだし、逆に客観的になりすぎても、なぜいるのかがわからなくなってしまう。とても温度感が難しい立ち位置だったように思います。

演技の技術的なところは詳しくないので、語れることはないのですが、この劇で印象的だったシーンはいくつかあって、まずはジキルの晩さん会での語りのシーン。自分の論説を語るシーンは、善の性質を得たはずなのに、どこか狂気じみていてとても迫力がありました。狂信者のような力強さがジキルから伝わってきて、ときどき視界が変になってしまいました。

つぎにマリーのジキルに自らの生い立ちを告白するシーン。「もういいよ、って言えよジキル!」と何度思ったことか。とてもつらかったです。

あとは絶叫ですね。もう朗読劇は絶叫が本当に好きなんです。今回は苦悶と悲鳴が多かったですけど、感情が爆発するシーンを声優さんがやるとプロの感情爆発になるので、伝わり方が激しいんです。マリーの「旦那様ー!」もよかったですけど、それまで淡々としていたアタソンが最後に叫ぶ「ジキル!」は本当にたまらなかったです。 

さて、話の感想として思ったのはジキルとハイドって愛を考える話だったんだ、である。ジキルもハイドも表現方法は違えど、マリーを想うという一点では同一だった。また面白いことにマリーもハイドのことを嫌いながらも、キスをされても嫌な気持にならないと言う。どこかハイドのことも好きな自分も認めているところがあった。……全然理解はできないけども。

ジキルがマリーに惹かれたのは、マリーが虐待を受けながらもその過去を自分の一部として受け入れている強さにあこがれたというのが、話の筋からすると正解なのでしょうか? ジキルは悲しみや恐怖といった感情は悪としてハイドに押し付けていたので、それをしないマリーに惹かれたのかもしれませんね。今思ったんですが、割と近い話でいうと、もちろんこっちのほうが後ですけど、化物語のひたぎクラブとかつばさキャットとかが近いですかね。そういう意味では今日まで描かれる普遍的なテーマなのかもしれません。

今後の予定

とりあえず、ここから先の中身の感想は新潮文庫のものを読んでから考えることにします。これだけの古典だと、研究も進んでいそうなので、いろいろ調べることはできそうですね。時代背景ももちろんですが、作者がどうしてこの作品を書くに至ったとかも調べると面白そうです。ただ、それは研究者の方が死ぬほどやってそうなので、あえて書こうとは思いませんが。ただ、演出をされた田尾下さんが、なぜこのシーンがチョイスされてこういう朗読劇に仕上がったのかは、今しか考えることができないと思うので、原作が読み終わったら書いてみようと思います。まぁ原文をあたらないので、見当違いにはならないといいのですが。


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