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短くて力強い文章に、いつもあこがれている。 (追記あり)

 文章を書こうとすると、どうしても長くなってしまう悪癖がある。悪癖、と言ったが、それが悪癖かどうかはわからない。ただ、助長だなと感じる時がある。

 小説を書く時、筆の半分は情景描写へと傾いていく。光の様子、時間の経過、季節の移りかわり。登場人物が出てきて、なにか物事が動く前に執拗に場面の説明をしているのではないかと、読み返すたびに感じる。
 それは、自分の脳みその中で幾度となく再生している映像を言語化しようとする際に感じる『くどさ』なのかもしれない。書いている私は「くどい」と思っていても、読む側からしたら全然情報が足りないなんてことも、きっとあるだろう。

 noteを書く時も、同じようなことが起こる。途中で話が逸れたり、回想の描写がやけに詳細だったり。私のnoteが下書き行きになる理由の半分は「これは長くなるから、今度にしよう」である。そうやって、いつまでもこない「今度」が積み重なっていく。

 どうしても、言葉を尽くしてしまう。あるいは、めんどくさくなって、思考の跳躍をそのまま文章にしてしまう。不親切だな、とあとで読み返して思う。

 それって、読者を信頼してないってことなのかも。
 キーボードを打ちながら気づくことって、いっぱいある。

 〇

 少し前に、智春さんの掌編小説を拝読した。

 すごいなあ。ああ、すごいなあ。

 人と会話をしていると、ぴょんと話が飛んだりする。ぴょんと飛んで、跳ねて、学校の屋上とか電信柱の上とかを渡って、でも不思議なことに気づけば一番最初の出発点に戻っていることがある。

 智春さんの『やわらかぎんこう』には、心地のいい断絶が存在している。途切れて、ふわりと浮いたかと思うと、綺麗な放物線を描いて戻ってくる。そしてその軌道は、不思議と「それ以外にないな」と思わせる完璧さを持っている。空いた行間が、本当に気持ちがいい。

 心底、この掌編小説に惚れている。

 〇

 大学生の頃、まぁ正確には今も大学生なので、学部生の頃。私は古典文学を専攻していた。(これも、していたっていうか、している。なんだけど。)

 同期に、『源氏物語』が大好きな子がいた。彼女は教職免許を取って教育大学院に進学していったんだけど、元気かな。
 そんな彼女と、古典について話したことがある。私は源氏よりも、『伊勢物語』が好きだった。

 彼女は、伊勢物語や和歌集は説明が少なすぎてよくわからないから、あまり得意ではないと言った。それに比べ、源氏物語は詳しく書かれているから状況が分かりやすい、と。

 それは、確かにその通りなのだが、私はむしろその「短さ」にこそ伊勢物語の力強さと魅力が詰まっているように感じる。

 伊勢は歌物語と呼ばれるジャンルで、同じ『物語』と書いてあっても、その様相は源氏とは大きく異なる。源氏が何夜にも渡って演じられる演劇やミュージカルなら、伊勢は本当に短い一瞬を切り取ったスナップ写真集みたいなものだ。小さな章段のあつまりで、和歌を中核に据えて記されている。

 同じ歌物語というジャンルに分類されるものには『平中物語』と『大和物語』があるが、それらが週刊誌に乗るゴシップ写真ならば、伊勢は本当に美しい瞬間を切り取った、唯一無二の存在じゃないかと思う。

 この例え、詳しい人に怒られないかな。でも、大和はゴシップ的な要素が非常に強く、平中は教訓的な要素が強いことは、広く指摘されるところである。広く指摘される所である、っていう表現で先行文献を引かない荒業、noteだから許される。許されるか?

 〇

 渡辺実著『平安朝文章史』(東京大学出版会,1981)という名著がある。ここに、伊勢物語の文体についての考察が掲載されており、とても面白い。

一部抜粋する。

伊勢物語が、竹取物語や土佐日記の文章意識と方向を異にして、あえて短い文に分断して書いたについては、おそらく中国語の、切れようとする文章の自ずからなる影響があるのであろう。
(中略)
対蹠的に長文を好む作品としては、古今和歌集詞書の他に、代表的には源氏物語が挙げられるが、一文に多量の内容を盛り込む長文は、状態として描くのに適した文体であって、そうした状態の文章に対して言えば、伊勢物語の文章は過程と進行の文章と評することできよう。伊勢物語の各章段が有する迫力は、この過程と進行の文章によって作り上げられたものであった。
       (渡辺実『平安朝文章史』,東京大学出版会,1981,35頁)

 この研究書を初めて拝読したとき、私が伊勢物語に感じる強烈な魅力や迫力は、ここにあると確信した。伊勢物語は、極力不必要な描写を排除する性格を持っている。男が誰か、女が誰か、今はいつで、どんな容姿なのか、どう思ったのか。そんなことはどうでもよいのだ。
 ただ、和歌のためだけに言葉を使う。あってもなくても良いような描写の一切を排除する。その潔さと、うつくしさ。

 断っておくと、源氏物語をはじめとした物語文学、それに留まらずあらゆる美しい情景描写、繊細な言葉の朗々たる積み重ねは、それだけで十分読みごたえがあって素晴らしい。
 そのうえで伊勢物語のきらめくような美しさの神髄にあるのは、それを「捨てる」選択肢をする技巧だと思うのだ。

  〇

 智春さんの『やわらかぎんこう』に、私は伊勢物語と同じ力強さと迫力、美しさを感じた。

 それはきっと、智春さんが読む人を信頼しているからなんだろうな、と思う。

 この掌編には、時間の描写もなければ、情景の描写も少ない。短い断絶の間に記憶を手繰り寄せるような独白があるだけ。それで十分すぎるほどに、二人の男女の心が触れあってすれ違った様子を描いている。

 私は勝手に夜のコンビニでソフトクリームを食べる彼を想像するし、車の少ない駐車場の片隅で、そっと涙を流している彼女を見ている。

 ああ、好きだな。読むたびに、そう思う。

  〇

 私の文章は、どちらかというと『源氏物語』的だと思っている。一文は長くなりがちだし、文章の「こなれ感」みたいなもののために、意図もない情景描写を入れてみたりする。いや、源氏物語の情景描写に意図がないという意味ではなくて。これ、やっぱり怖い人に見つかると怒られるかな。源氏物語ガチ勢、世の中にいっぱいいるからな。

 それ自体、悪いことじゃない。と思う。

 いつか何かの記事で、「文章の中、登場人物の行動の中で、情景やバックボーンを語ることが大切。」みたいなのを読んだことがある、気がする。曖昧。

 だけれども、私は伊勢物語が好きで、あの切り詰めた美しさに憧れるのだ。

 文章は読まれた時点で完成する。
 読む人へと託すような文章を書くためには、どうすればいいのだろう。


☆追記(200220)

 好き勝手書き散らしたにも関わらず、智春さんにお返事をいただいてしまった。すごくうれしいので、実は今日一日で何回も読み返した。おかげでなかなか片づけが進まなかったです。片付け関しては全面的に私が悪いです。

 お返事のなかで触れていただいた『源氏物語ガチ勢』についてなのですが、「俺の愛している源氏物語とお前なんかの文章を比較するなんて失礼すぎる」みたいな内容を三重くらいオブラートに包んでハンマーで殺しに来るような人のことを想定しています。まったくオブラートが役目をはたしていない感じです。実際にお会いしたことはないです。

 私は村上春樹を実は読んだことがないのだけれど、この「ガラクタで作る」という表現がすごく好きだなと思った。

 人それぞれが蓄えたガラクタがあって、本人はガラクタだと思っていても、他人から見れば宝物みたいだったりして。そして、そのガラクタで作られた装置から発信された電波が、地球の裏まで届いてしまう。

 この国も、この星も、そんな電波に包まれている。みんな、なにかを発して、時々それが私の手元に届く。

 いいなあ。すごくいい。

 文を書くということの面白さを、改めて肌で感じた気がする。

 智春さん、素敵なお返事ありがとうございます。コミュニケーション能力に自信がないので、とても嬉しいことをどう伝えればいいのかわからないです。やっぱり、毛玉のパジャマで枕に顔を押し付けてる動画でも送るべきかなと、少し真面目に考えました。

 

 

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