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完璧なあとがき(どこかへの手紙)

あまりしっかりとした文章がかける気がしなくて、参っております。
そこで、誰かに小さく話しかけるような手紙ならば書けるのではないかと、思いつきました。

そういえば、近頃はどうぶつの森をやっています。どうぶつの森ではレシピを覚えて家具などを作れるのですが、ときどき、浜辺にレシピと手紙が詰められたビンが流れ着くのです。そこには、動物たちが誰に当ててもいない手紙が入っています。こっそり人に伝えたい、おすそわけ。そんな言葉とともに。

私の手紙は、まあ、役に立つレシピなどは入っていないのですが、海に流すつもりで書くので、お時間があればお付き合いください。

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先日、手元にあった『モモ』を開き、最初の方を読みました。
あまりに美しい表現に、脳みそを殴られたような気分になって、本を閉じて目を瞑ってしまいます。セミの歌声を、大地のまどろんでいる寝息と表現する。なんて、雄大で壮大で、それでいて静かな表現なのだろう。

幼少の頃に読んでいた本を読み返すと、自分がどれほど繊細な表現を吸って生きていたのか、あらためて感ぜられます。言葉のリズム、けして若年向けの優しい表現のみを使うのでない、文章への真摯さ。匂いや、温度や湿度。文字から沸き立つ音楽。

言葉が世界を定義するなら、美しいという感覚も、美しい言葉に支えられているのでしょう。眩いような表現を紡いで、今に残してくれたミヒャエル・エンデ、そして訳者。言葉に携わる人がいて、自分の言葉があるのだなと、表紙を撫でながらそんなことを思いました。

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ところで、『モモ』を思い出すとき、私は必ずそのあとがきも同時に思い出すのです。あとがきには、ミヒャエル・エンデが『モモ』を記した経緯が書かれています。長い列車の旅の中、向かいの席に座った一人の男性。若い青年にも見え、年を経た老人にも見える。どこか物語に登場するマイスター・ホラを思い出させる風貌のその人から、ミヒャエル・エンデはどこかの国の、そのお話を聞く。気が付けば、その人はいなくなっている。それで、多くの人にその物語を伝えるために筆を取った。あとがきには、そう記されています。

私は、いつしかこれを心の中で『完璧なあとがき』と呼ぶようになりました。

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物語は、もちろん空想で。現実には時間泥棒も、素敵なモモも、愉快な友人たちも、得も言われぬ時間の花も、ないのかもしれません。

それでも、あとがきまで。本の最後の一頁まで、ファンタジーの姿勢を崩さない。世界を壊さない。

この一冊には、確かに物語と世界が詰まっている。
読み終えたときのその感覚を、今でも強く覚えています。

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丁寧な書きぶりで書くと、心まで穏やかで丁寧な気持ちになります。言葉や行動が、世界や自分を形作っているのだなと、実感させられる瞬間です。

そちらの雨は如何ですか。こちらは、夕方ごろに土砂降りになり、今は雨上がりの静謐な風がカーテンを揺らしています。蛙が鳴き始めました。小さく重ねるように、季節が変わっていくのを感じます。

その変化を、見逃さないようにしたいなと、近頃は強く思うのです。

かしこ。

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