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アスリートとしての三島由紀夫と村上春樹

先週末、いわゆるリベンジ消費的に京都など旅行。ホテルはポイント込で素泊まり約3千円!@@!価格崩壊にビビる:

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帰宅してメール見ると、土井英司さん書評メルマガ「ビジネスブックマラソン」(BBM)で拙書『覚醒せよ、わが身体。』が紹介されててさらにビビる:

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BBMとは、数×歴史×読者層で圧倒する、日本のビジネス書文化をリードしてきた書評メルマガ。厳選された最新ビジネス書のなかで、学術書の出版社からマニアな界隈に向けひっそり出した4年前の本が!

これがパワースポット京都のお祓い効果なのか!@@!

同メルマガでは拙書より12箇所が引用され、その1つめが、本の冒頭でもある三島由紀夫の引用:

" 世の中で何がおもしろいと言って、自分の力が日ましに増すのを知るほどおもしろいものはない。それは人間のもっとも本質的なよろこびの一つである。"(三島由紀夫『実感的スポーツ論』)

僕の本のテーマの核心を、わずかな字数で言い当てしまう三島先生。
そこを最初に引用する土井英司さんも、なるほど、ここなのかと。
元の文章は1964東京五輪ごろ、『三島由紀夫スポーツ論集』(2019, 岩波文庫)に収録:

(没後49年後の刊行!@@!)

ただ、それはたしかに本質ではあるけれど、三島はその数年後、反乱軍めいたものを率いて割腹。「身体を鍛えれば幸福になれる」というわけではない←アタリマエ

このnoteでは、

疑問:なぜ三島は、身体を鍛えたのに幸福になれなかったのか?

あるいは、

身体を鍛え続けている村上春樹は、三島と何が違うのか?

さらに一般化すれば、

クリエーターにとっての、SDGs(持続可能な開発目標)とは?

といったテーマについて、考えてみたい。

SDGsとは、地球さんが長く健康であり続けてほしい、という最近のスーパー流行語。テーマ大きすぎかもだ。とっても大事なのだけど、なにしろ対象が地球なので、1個人にとって大きすぎてイメージしきれない面もややあり…

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でも、自分自身に対する、持続可能な開発目標(あるいは成長目標とそのための考え方)は、誰にとっても大切だね。とくにSDGsの重要概念であるサステイナビリティ=持続可能性。そのために、オーガニック=ここでは不自然な外部刺激に依存しないことは大切だね。

あてはめると、太宰治はオーガニックとはいえずサステイナブルではなかった。三島由紀夫はオーガニックに鍛えたけどサステイナブルでなかった。村上春樹はオーガニックかつサステイナブル。

音楽なら、尾崎豊はオーガニックでない外部刺激にアディクトしてしまった。村上春樹的なのは、稲葉浩志とか、あるいはサラリーマン経験ある佐野元春やスガシカオあたり?

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身体のメンテナンスとは、持続可能な成長のための必要条件、ただし十分条件ではない。以下、5,000字ちょっとかけて説明する(最終更新10/17)

三島由紀夫はオーガニックに身体を鍛えたが・・・

なぜ三島は身体を鍛えたのに幸福になれなかったのか?

僕の1つの考えは、「ないものねだり」だったのでは? 圧倒的欠落に対しての渇望とは、一時的に強い動機となりうるが、サステイナブル=持続可能なものにはなりにくいのではないだろうか?

幼少期から頭脳は圧倒的だが、身体が弱く、心配されて外遊びすら許されずに成長機会がない。この劣等感はトラウマ級に三島を苦しめた。マイケル・ジャクソンが普通の子供時代を奪われたことと通じるかもしれない。その欠落を、30歳からの筋トレで埋めようとする。でも、動機が未来ではなく過去へのリベンジ的なものであると、その欠落を完全に埋めきることは難しいのではないだろうか。(三島に詳しい方ご教授ください!)

動機はともかくも、結果として、三島は、日本の国家像レベルでの欠落が許せなくなり、それを埋めにいくという無理ゲーを敢行して、失敗したのが45歳:

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前年、東大での学生運動活動家との対話は、とても活き活きとしてかっこいいのに。

この討論会後の三島の言葉:

"言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び回ったんです"

なんてしびれるよね。そう、左右あっての翼だ。

【10/16追記】

当noteについてお喋りするClubhouseの部屋を開いたら、谷崎潤一郎で博士論文まで書いたという編集者さんご登壇。

結論: 三島とは美意識についていっさいの妥協なき人

彼自身の価値観は古き良き(右翼的でマッチョな)日本的なものだが、親友の美輪明宏さんのフェミニンで反体制な美の世界にも、アングラ演劇などにも、また東大全共闘にも、理解を示す。美的世界が妥協なく一貫していればどんな美でも構わない、オープンなスタイル。

彼の妥協のなさとは、文章では
谷崎潤一郎: 余白を残し、読み手に想像させる
三島由紀夫: すべてを書ききり、想像の余地を残さない

という差がある。すべてをコントロールしたいのが三島。その極みが『豊穣の海』4部作。

自分ではコントロールできないものに、生死がある。ただ三島にとって、死すら美意識によってコントロールしたいものだったのかもしれない。戦争に行けなかった(行かなかった)罪悪感も大きかったようで、時代的に、国家のような大きな存在のためにリアルに命をかける、という美意識も強かったのか。

しかも東京五輪1964、万博1970、と高度成長の中で軽くなってゆく日本は、許容範囲を超えてしまったのかもしれない。彼が生きた時代は、小説家とは日本文化の頂点。彼の死後、その地位はポピュラー音楽(ユーミン陽水オフコース…)、漫画、TV、などへ移っていく。小説家が文化の王であった最後の世代。

『堕落論』(小説家=ダメ人間説)

三島に限らず、昔の小説家は破滅的に生き、そして本当に破滅していった社会不適合なダメ人間が目立つ。三島(1925-1970)と重なる前の世代では、太宰治38歳(1909-1948)、『堕落論』が終戦直後に超バズった坂口安吾48歳(1906-1955)など。以後の昭和作家にも、担当した編集者にも多いだろう。

かれらの文化は、「オーガニック」=天然由来なもの=ではない。不自然な外部刺激である、アルコール(※大量)、タバコ、ときにドラッグ、モラル外の恋愛、などなどによって脳を(一時的に)刺激しながら、歴史に残る作品を(一時的に)創る。そして刺激にアディクトし、、、

特に坂口『堕落論』なんてタイトルからインパクト大。大きすぎる。その主張のコアは:

人間は生き、人間は堕ちる。
 そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

たとえば、戦争未亡人となった女性が新たに男性になびくのは(=戦中までの価値観では堕落)、負けたから堕ちるのではない、人だから堕ちる、それは自然なのだ、といった考え。死別による再婚とは、今では当然のことだが、その時代で堕落とされたのなら、堕落と扱っていいだろう。

つまり、人は堕落していい、その中から何かを掴め、という全肯定だ。
(堕落し過ぎて本人48歳でおなくなりに…)

同時期フランスの実存哲学(サルトルなど)とも通じる考えとも思う。そもそも純オリジナルな考えなど存在しないのだし、坂口オリジナルというよりは、世界の空気を反映しているのだろう。以後20年かけて、ヒッピーとかのカウンターカルチャーへと成長していく大きな流れだ。

その考え方自体は、人の存在のあり方レベルでの1つの選択肢としては、おもしろい。問題はその実現手法で、ケミカルなものに依存しながら、リアルに肉体的・生命的に堕落してしまって、サステイナブルではなかった。

三島の場合、筋トレによる自己成長とは「オーガニック」なものではあった。でも結果だけでいえば、「サステイナブル」=持続可能な作家生活を支えるものとはならなかった。

・・・

ただ、人間としての安吾は消滅したが、作品としての『堕落論』は残って、日本の大きな文化的な流れの源流の1つになっているのかも。たとえばB'z稲葉浩志さん JAP THE RIPPER (1994)の歌詞:

だれもが権利をもってる オリジナルのやつを
悦びもがきダメになれる 権利なんだよ 

自由をテーマとした名曲。B'zデビュー7年目、稲葉さん29歳のアルバム『The 7th Blues』の核にもなっている。ここで「自由」とは、堕落(もしくは墜落)と表裏一体なもの。そこが坂口安吾ぽい気もする。

(当時のギラギラしたライブ動画)

村上春樹の「サステイナビリティ」

そんな三島的な昭和文化人の限界を、村上春樹は超えている。

2007年のエッセイ集『走ることについて語るときに僕の語ること』は、多くのランナーにとっての聖書的な一冊:

村上春樹は、創作のエネルギーを(過剰な)外部刺激に頼らず、自然豊かな環境での毎日1時間のランニングやトライアスロン練習から得ている。少なくとも34歳頃の、アテネでのマラソンコース42km走破から続く習慣。

きっと彼の中にもなにかの毒はあるんだろう。たとえば三島が川端に抱いたような、カズオ・イシグロにノーベル賞とられた嫉妬とか? でも、1時間も美しい夕焼けの海を見ながら走っていれば、毒は消える。そして晩御飯を美味しく食べて、寝て起きたときには、良いエネルギーがうまれるもの。

こんな毎日の生活習慣は、安定した朝のエネルギーをうみだす。この習慣はオーガニックなものだから、生活習慣を自らコントロールできている限り、創作活動はサステイナブルになる。SDGs=持続可能な社会的な生活スタイルだ。

三島との差には、ほどよく諦められること、割り切れる力、があるだろう。

「やれやれ」

とは彼らしいセリフ。これだけで文章はハルキぽくなるマジックワード。三島なら絶対いわなそう。

ミュージシャンでは?

尾崎豊: 太宰治、坂口安吾系の破滅型。ケミカルな外部刺激。ただ、ボロボロな中で見城徹が全力支援してのアルバム「Birth」は歴史的傑作だと思う。

稲葉浩志: 歌詞では太宰坂口系を取り込むが、生活スタイルは村上春樹のさらに上をいく自己コントロール。57歳、外見は美容医学でなんとかなるとしても、声の維持にはトレーニングが必要なはず。

佐野元春・スガシカオなどサラリーマン経験者:「毎朝ちゃんと起きて出社し続ける」的なレベルでの継続の効果を感じる。どんな人気ミュージシャンでも人気はまあ3年、5年後には薄れてしまう。10年の壁を超えるのはすごい努力・工夫があるはず。

村上春樹の限界? (宣伝デス)

村上は100kmマラソンとかトライアスロンとか、彼なりに体力の限界に挑むような大会参加を長年続けている。ただ、彼にとってのトレーニングとは、自己の心身との対話というか自己探求に留まっている印象もある。

近年では、自分自身の肉体をレーシングマシンとして、その性能の限界を試すような競技参加をする大人が多いと思う。たとえばフルマラソン3時間切り=サブスリーを狙い、さらに自己ベストタイムを更新しようとする30代以上の男性ランナーのように。

そんな限界域を目指すとは、どのような行為なのか?
その現代ビジネス社会にとっての意味とは?

僕の考えは:

"トライアスリートになると決意し、一度は下り坂に入った身体を作り直し、レースに参加することで、誰もが「プラスであり続ける主人公」となる"
"耐久スポーツとは、そんな現代人の欠落感に対し、どのような意味を持つのか。筆者の仮説の一つは、「努力の有効性」だ"

など。

そんなことを、自らトライアスロンにハマった人間(=私)が、自らの身体を通じ、その考察を進めて、1冊にまとめ上げたのがが、『覚醒せよ、わが身体。─トライアスリートのエスノグラフィー』です:

図書新聞2018/4/7号では、村上春樹や三島由紀夫の体験記を読んでもわからなかった疑問に答える「身体の物語」、と評していただき、僕の問題意識はまあまあ実を結んだかな

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このあたりのビッグネームは常に意識しながら書いており、指導教官田中研之輔教授の投稿でも:

トライアスロン。 この究極の肉体マネジメントに迫る著作を刊行します。 『(仮)覚醒する身体ートライアスロンのエスノグラフィー』 ハーベスト社 2017年8月予定 共著者は、年齢別国内チャンピオンの 八田 益之 (Hatta...

Posted by 田中 研之輔 on Saturday, April 22, 2017
" 八田さん自身が、レース中に何を考え、肉体にどんな反応があるのか。徹底的に、言語化した一人称のエスノグラフィー
〜 三島由紀夫、沢木耕太郎を意識した日本版の身体エスノグラフィーを出版したいと考えてきました "
(2017,4,23)
沢木耕太郎じゃサラッとしすぎて、
三島由紀夫だとウェットすぎる。
『覚醒せよ、わが身体』
サラウェットな身体記述が、
過酷なトライアスロンの世界へと誘います。
(2017/9/28)

など書かれてる。何らか超えられなければ出す価値ないし。

そして4年たち、土井英司さんメルマガに紹介いただいて、その最後のコメント:

読んでいて思ったことは、トライアスロンが現代の職場では満たせない「何か」を満たしているということ。

ここに、新たな働き方やキャリアのヒントがあるように感じました。

何が人をやる気や充足感を高めてくれるのか。考えるヒントを与えてくれる一冊です。

あらためて、現代日本社会にとっての意味を考え直してみたいと思った。

【謝辞】

以上の話は、10/13夜、Clubhouseでのお喋りをもとに、整理しました。特に、音楽関係のお話はネットメディア「Finders」の米田智彦編集長に、

小説家のダメさ加減については京都の野宮千代塾長に、話題提供いただきました。名前はあげませんが(書ききれない)参加者さんとの会話からいろいろ学び・刺激多くて、感謝!

(千代さん昔のお写真)

こんなお喋り会は継続していきたいので、興味あれば、Clubhouseアカウントもフォローください。本を購読された方、お喋りしましょう!

なお京都安くて超オトクなんですが安すぎ!

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サポートいただけた金額は、基本Amazonポイントに替え、何かおもろしろいものを購入して紹介していきたいとおもいます