落語「寝床」によせて

落語の「寝床」はいろいろなヒントを含んだ噺である。江戸時代、あるいは明治・大正・昭和もはじめごろですかな、経済的余裕とヒマのある旦那衆、時によってはその辺の有象無象まで稽古事をやる。中には女のお師匠さん目当てで通ったりする。いわゆる「檀那芸」であるからそんなにいいものではない。ちょっとお師匠さんが厳しいことをいうと「そういわれても私ら玄人じゃないんですから、そんな風にはできない。じゃぁもう面倒だからやめましょう」と言い出す。

そうなるとお師匠さんの方も台所に響いてくるから、厳しい小言などは言わない。なんとかほめようとする。あんたは声がいい、あんたは声はともかく節回しになんともいえん色気がある、最後はあんさんは痺れの切れないところが…なんどとあらゆることを言ってほめるのでみんな天狗になって通う。

昨今のカルチュアスクールなんてのも似たようなもので、展示会などを図書館で見たり、○○カルチュアセンターで見たりするが、素人が見てもおかしなものが多い。要は美術系はデッサンが狂っている。

カラオケだって同じだろう。たまさか時間ができたから、ストレス解消に歌いに行くのである。うまい人もたまにはいるだろうが、あんまり人が聴いてなるほどというような歌は聴けない。ことごとく趣味・道楽というのはそういうものである。

そういう中で何千何万人にひとり、その上手く真似のできない部分に個性を感じて、のちのち残る作品がある。まず思い浮かぶのがヴィラ=ロボスである。あれは素人芸だが、ただ事でない素人芸だ。いろいろお差しさわりはあるかもしれないが、ウェイン=ショーターなんてのも技術的にはすばらしいが、それでもよきアマチュアリズムではなかろうか。アイヴズとかもそうじゃないかな。伊福部昭先生とかね。現代音楽の作曲家にもそういう例はあると思うが保身のために言わない。

一方でピアノの演奏でも義太夫でも、あるいはカラオケでも同じだが、自分でやってみると芸術の深みがわかるという功徳はある。これは間違いない。自分でお稽古事をするのは誠に推奨すべきことであって、自分で弾いてみたり歌ってみたりして始めて、「なるほどこういうことであったか」と気がつくことはたくさんあるのだ。

「寝床」でも警告されているのは、素人芸でも少々「できる」ようになった時に、他人に聞かせようと思う、これが決定的に犯罪的である。先代の円生師匠は「そこに他人に聞かせようという悪心(おしんじゃない、あくしん)が生まれる」と言っていたな。くすぐりですよ、もちろん。

図書館の壁に飾ってある絵くらいは罪が軽い。期間限定であるし、見なければいいことだ。カラオケを付き合わされるのもたいがいだが、これはやり返すということができるので武士は相身互いというところがある。

一番気をつけたいのは音楽だろうねやっぱり。特にライブだ。チケット代を取る。まぁ、協力金だ。そんなに高額ではないし、お付き合いということだからそれはいい。問題はある一定時間拘束するというところですな。もちろん抜け出せばいいんだけど「気ぃ悪いやおまへんか」という人もいるだろう。

その点ネットはいい。発表の場は与えられるが、完全に聞き手市場。3秒聞いて「だめだこりゃ」と思えば、タブを閉じればよろしい。

何を延々書いているかというと、自作をYouTubeにアップロードしても罪にはならないという自己弁護である。JASRAC管理楽曲であれば「歌ってみました」「演奏してみました」はお構いなしになっている。自作においておやである(もっとも演奏者の同意は必要ですが)。完全に合法である。しょっぴけるもんならしょっぴいてみやがれ(完全に開き直り)

(Jun Yamamoto YouTubeチャンネルはこちら)

https://www.youtube.com/channel/UCmgilzz_WV1pBOXUPoBXA4A

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?