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オオサンショウウオの構図

動物園に行ったらオオサンショウウオの写真を撮ると思うのですが、写真の撮り方が昔と今で変わってきてるなと感じているのでつらつら書いていきます。この最初の一文を読んでお分かりかと思いますが、つまりこれは内容の無い記事です。

①初期

早速見ていきましょう。まずは上野公園のオオサンショウウオ。

かわいいですね。

こちらは私が上京して初めてであったオオサンショウウオです。当時上野動物園にはオオサンショウウオが3匹いました。両生・は虫類館に入ってすぐの水槽に彼らはいます。栄誉ある入って最初の生き物がオオサンショウウオである辺り、飼育員さんの愛を感じていいですね。オオサンショウウオは権力を持っているのでいい展示場所の確保などおちゃのこさいさいなのです。

あぁ、写真の話でしたね。上京したての頃の写真はアップが多いです。当時の私はオオサンショウウオの姿、及び顔から醸し出されるかわいさにほだされていたのでしょう。オオサンショウウオの魅力を写真に残そうという強い意思を感じます。

②中期

続いて上京して2~3年くらいたった頃の写真を見ていきましょう。京都のとある動物園(名前忘れた…)のオオサンショウウオくんです。

この写真、雑じゃね?と思った方も多いのではないでしょうか。なんだか私の手が反射で写ってしまっていますね。それだけではなく、「オオサンショウウオの目線に合わせて撮る」ことができてない。少し上から目線、何様のつもりでしょうか。

①の写真を撮っていた頃はこの写真を見て感じるのはそんなことをだったのかもしれないけれど、このときは少し違ったのではないか、今になってみるとそう思います。今の文章に3つの時系列が登場しましたね。まぁ登場しただけなんですが。

ガラスに映った人の姿というのはなんだかそれっぽい雰囲気があります。「ガラスに自分を映すことでオオサンショウウオとのツーショットをとろうとしているんだ」なんて陳腐でロマンチックな考えももしかしたら持っていたのかもしれません。そんなことはないと思いますが。「ガラスにうつる」って「写る」と「映る」どっち使えばいいんだろ。

ああ、ガラスに映るといえば、黒澤明『天国と地獄』のラストシーンはあまりにも有名。ガラスによって重なりあった三船敏郎と山崎努の二人の“重なり”とはなんなのだろう。そうか、俺は黒澤明作品に触れる前からオオサンショウウオを通じて黒澤明との出会いを果たしていたのか。ありがとう、オオサンショウウオ。やっぱり愛おしくてたまらない。

③そして現在

先程の②中期が何一つ「写真の撮り方の変化」ではなかったことなんて忘れて現在のことを考えましょう。まさか未来のオオサンショウウオとの接し方まで書き始めることは無いでしょうから、ゴールまであと少しの辛抱です。写真はこちら。井の頭公園動物園のオオサンショウウオです。

オオサンショウウオを撮ることに飽きたのでしょうか。やる気を感じません。このままだと破門されてしまう。言い訳を考えましょう。

この写真にもしっかりとオオサンショウウオが写っています。愛があれば一瞬でわかる。気付いちゃったんです。「オオサンショウウオのかわいさ」を写真で切り取らなくてもオオサンショウウオは可愛いってことに。そうしたらもう「オオサンショウウオのいる空間」を撮るだけで満足しちゃったんです。①初期の私はオオサンショウウオのかわいさを切り取ることに必死で目の前のオオサンショウウオでなくカメラ越しのオオサンショウウオしか見ていなかった。それが中期になると写真越しに彼らを見ることに疑問を感じ始め、現在では「彼らとの時間、空間」を楽しむようになったのか。俗にいう「君がいるだけで幸せ」ってやつだな。いかにもどこかで聞いたことのあるような言葉を並べてしまいました。僕のオオサンショウウオへの想いを文章にするための言葉を用意してくれていた先人達にマジ感謝と言って、筆を置くことにします。

筆は置いてもキーボードは動く。


上に書いたことはフィクションです。初期にオオサンショウウオをカメラ越しにしか見ていなかったという事実は一切無く、初対面の時などは二時間ほどオオサンショウウオの水槽前にいてほげーとしてました。めちゃくちゃ空間堪能してますね。もしあの時と今で違いがあるとすれば、時間があるかどうかかもしれない。大学一年生のあの時は時間があり余っていた。今はオオサンショウウオとばっかり過ごしているわけにもいかない。それでもオオサンショウウオへの想いは変わらない。

最後までどこかで聞いたことのあるようなフレーズを貼り付けながら書き上がりましたね。ではまた。

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