ちゃんむぎ

唐津でちいさな素泊まり宿(ゲストハウス)と複合アパートの一室でときどき本屋と喫茶室をや…

ちゃんむぎ

唐津でちいさな素泊まり宿(ゲストハウス)と複合アパートの一室でときどき本屋と喫茶室をやっています。太極拳がマイブーム。

最近の記事

近況について

言葉を失ったまま、三月になってしまいました。 春休み、旅行シーズン、繁忙期・・・、楽しみにしていたのですが、先週の連休明けからドカドカとキャンセルが続き、あれよあれよと三月前半のスケジュールは真っ白に。 同じように楽しみにし、早くから手配や予約などをされていた方々を思うと、残念でなりません。 まさかここまで影響があるとは思っていなかっただけに、少し面食らっています。 完全なる対岸の火事、「マスク足りてるかな、東京で暮らしている弟へ送ろうかな?」とのん気に思案しているうちに、

    • 二周年、ですね。

      どうにか二周年を迎えることができました。ひとえに皆さんのご尽力の賜物だと思います。ええ、本当に。心より皆さんに感謝申し上げます。これから、いえ、すでに三年目の道のりが始まっているわけですが、できることとできないことの境界みたいなものが、日々ますますわからなくなっています。時代の流れが途方に暮れるほど速く、ときどき振り落とされながらも、なんとかこうして今も暮らせています。ゲストハウス業界のことを考えると、本当に息が詰まるというか、ゲンナリするような潮目になっていて、デベロッパー

      • ナイルの水の一滴

        一文も書けずにいた七月。近所の八百屋からミョウガやスモモを見かけなくなって、秋の気配はすぐそこまで来ていて、風も心なしか柔らかい。あっという間に夏が終わろうとしている。慌てるように桃を買ったり、鮎を探したりしていて、今年は珍しくまだ夏に飽きていない。かと思えばお盆過ぎて、少しだけ飽きてきたような気もしなくもないけど、夜風が心地よくなって、昨夜は久しぶりに風に当たりながら眠ったら、もうしばらく夏でもいいかと気怠げに思わなくもなかった。毎年ながら集中が削がれるから、読書は捗らず、

        • 東京タワー

          東京タワーが好きです。京都タワーも好き。太陽の塔もエッフェル塔も好き。スカイツリーにはまだ馴染めません。子どもの頃に母に連れられて通天閣に登ったことがある。高くから街並みを望み、「タワーは登るものではなく、地上から見上げて尊ぶもの」と思った。以来、一度もタワーの類には登った覚えはない。富士山に登った時もまた等しく、「富士は登るものではなく、遠く眺めて愛でるもの」と思った。以来、一度も山の類には登った覚えはない。わたしは街に溶け込んで、些細な一人として生きたいのだと思う。むしろ

        近況について

          美しく呪われた人たち

          作品社から今春に出た新刊、F・スコット・フィッツジェラルド著「美しく呪われた人たち」を読み終えた。翻訳は上岡伸雄さん。言葉にできないほど美しかった。刹那的に生き、破滅へ向かっていく二人。その転落ぶりさえも美しい。こんなに美しい小説をかつて読んだことがあっただろうか。と振り返ったらあった。悲しくて、儚くて、美しくて、その先にある破滅。かつて、この人となら心中できる。喜んでする。と強く恋い焦がれていた相手(痛いけど今もかもしれない。しれない。)、太宰治。図らずも桜桃忌目前。ただ、

          美しく呪われた人たち

          声を届ける

          コミュニティFMでラジオパーソナリティのおしごとをいただくようになって、今月でちょうど一年が経った。最初はトーク番組だけだったけど、今ではそれとあわせて一人きりでもう一本、番組を持っている。トーク番組ではサブ的な役割として(バラエティ番組や朝のニュース番組の女性アナウンサーのような)、天気予報を読んだり、スポンサーからの告知を読んだりしないといけないので、メリハリに気をつける。それからいまだにあまり得意ではないのが、行間を読むこと。メインのパーソナリティがいて、時折ゲストがい

          声を届ける

          発光

          坂口恭平著「発光」を読み進めている。全然捗らない。2011年から始めたTwitterを推敲したものが本著なのだけど、彼は躁鬱病の持ち主で、ツイートしているのは決まって躁の状態なわけで、わたしは躁鬱病に陥ったことも、躁状態も鬱状態も幸か不幸か経験したことがないし、なりそうな気配もないし、きっとこの先も陥るタイプではないので、著者にかかわらず、躁鬱の兆しがある人はわりかし苦手なタイプとしていて、最近もそんな人と出会う機会があったのだけれど、やっぱり話していると苦しくて、だから全然

          11/22/63

          スティーヴン・キング著「11/22/63」(上中下巻)を読走した。1963年11月22日にJFK(ジョン・F・ケネディ)はダラスでのパレード中に暗殺される。主人公はその史実をタイムリープで改変することに挑戦する。紹介文には「落涙保証の感動大作!」とあった。落涙、ねえ。スティーヴン・キングらしいもったいぶった展開で、全く先に進まない。のに間延びしない(若干、主人公とタイムリープ先での恋人・セイディーの関係に焦点が合っていたときには感じたかもしれないが、この小説の肝だということは

          ABBEY ROAD 8 AUGUST 1969

          本を開いて、読み終えて、映画を観終えて、それから本を開いて、読み終えて、また本を開いて、読み終えて、映画を観終えて、を繰り返していた一週間だった。そのあいだに、七十二候モビール展へ出かけたり、ウイグル料理を食べてみたり、旧友に会ったり、国産紅茶専門店「紅と香」の出張喫茶もあったりして、メリハリが意外にもあったのだけれど、その他は日がな一日本を読んだりして過ぎていった。今週読んだ本は阿久津隆著「読書の日記」、堀江敏幸著「雪沼とその周辺」、辻本力著「生活考察vol.6」、内沼晋太

          ABBEY ROAD 8 AUGUST 1969

          【耳をすます3】無駄であることのうつくしさ

          心地いい生活には「持続可能」であることが必要条件になっていることは先述の通り。その上で十分条件「粋」もしくは「無駄」であることについて。言い換えれば「嗜好」や「感性」なんてところだろうか。価値観の琴線に触れた、共感し難いもの。この辺りのことは以前の記事「くろうとの金、しろうとの金」を参考にしてもらえると、すんなりわかってもらえるような気がする。最近では、本来ビジネスにおいてのみ使われるべき、'生産性'や'効率''合理性''有益性''ノウハウ'といった言葉を文化的な日常生活の場

          【耳をすます3】無駄であることのうつくしさ

          【耳をすます2】持続可能性とグローカルな生きかた

          最近の読みものの中に「ストーリー消費時代」とあった。たしかに、消費は「コスト」と「ストーリー」の二極化しているように思う。未来があるのはどちらなのか。先の【耳をすます1】では価値を再考することについて問うた。その続き。わたしの指標は「心地いい生活」の追求にある。その「心地いい生活」は、「粋」もしくは「無駄」と「持続可能性」の二段階に区分することができる。ピラミッドの頂は「心地いい生活」。その次に「粋」もしくは「無駄」かどうか、そして「持続可能」かどうか。つまり、土台は「持続可

          【耳をすます2】持続可能性とグローカルな生きかた

          【耳をすます1】価値を再考する前に

          今までかなり守備的なスタンスを取ってきたと思う。それはわたしの小さな課題でもあった「ファン(共感者であり支援者)を増やす」という行為。わたしの価値観に基づいてつくった「ハトムギソウ」という空間に対するファンを増やす。そのためにこれまで「(異なる)色がつく」からと、さまざまな誘いを断ってきたし、基本的に断る姿勢を貫いてきた。だけど、ハトムギソウを守り「ファン(共感者であり支援者)を増やす」行為はある意味で排他的ではなかったか。さんざっぱらこれまでにわたしの思いはnoteなどのS

          【耳をすます1】価値を再考する前に

          消費されない生活のために

          移住事業に携わる端っことして、ときどき煮詰まったり、ぎゃふんと思ったりしながら見えてきたものがある。「生活」は目的なのか、手段なのか。ひと昔前なら、「仕事」がその議論に値していたように思う。社会は確実に次のステップへ進み始めている。場所に縛られない暮らし、いわゆる多拠点生活や移動生活のような多様化したライフスタイルが、少しずつ浸透しつつある。そこで再度、その土地で暮らす意味を考えたい。気に入った土地で、好きな人や物たちに囲まれて、この手でありありと分かる心地いい生活。これを淡

          消費されない生活のために

          ピクニックライブをやるよ

          今年は、季節に沿った行事にすこしだけ力を入れていきたい。とひそかに思っていて、一月は「春の七草とおんじゃおんじゃ(鬼火焚き)」をやった。来月は「にがつみっかは節分だよ」と称して、豆まきをやったり、恵方巻きを作ったりする予定。三月はなにをしようか。と考えるずっと前のとある朝、目覚めたら、窓から差し込む陽光が柔らかくて「裏の畑でピクニックライブをやりたい」と思った。それで、三月はそうしようと思った。二十坪もあるしろうとには手にあまって仕方がない裏の畑をこれからどうしていこうか、と

          ピクニックライブをやるよ

          適当ができない

          気怠い雨がよく、降る。きらいじゃない。初台にある本の読める店fuzkueがメールマガジン「読書日記/フヅクエラジオ」をついに始めたらしい。購読するか、の悩みが再燃。メールマガジンなのにラジオ。文字なのに声。元来、文字とは声のことであったか。年末年始の旅行でお世話になったひとへ蜜柑を贈ろうと思ったのに、納得のいく蜜柑が見つからない。貰えるのは自分ではないのに、あたかも自分のために買うように、質や産地などにまでこだわってしまうから、いつも、だれかになにかを贈るときに、とても時間が

          適当ができない

          新年の挨拶にかえて

          新年明けましておめでとう。おめでとう。なんだかくすぐったいような。おめでとうとはだれにかける言葉なのか。よくわからない。あっという間に春の七草も鬼火焚きも終わって、お正月気分とはアッサリさようなら。そして十日恵比寿祭もおわった。次は廿日恵比寿で、その次は節分。狙撃手の的のように、ビュンビュン次から次へと的確に飛んでくる、イベント。でも存外嫌いじゃない。街全体が浮つくような、足元を掬われそうな催しはあまり得意ではないけれど、古来からある季節に沿った年中行事は大切にしていたい。季

          新年の挨拶にかえて