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愛し方の癖:浮気や不倫はだめなのか?

フロイトは恋愛について、幼い頃の親との無意識な関係の繰り返しと捉えた。

私たちは素敵でロマンチックな映画に感動し、キュンとする普遍的な共感力を持っていると思う。しかしだからと言って、必ずしも、一人一人の「愛し方」が、映画やドラマのように「同じ」であるとは限らない。

何故なら、一人一人の親との関係、そしてそこから得た「関係の捉え方」や「愛」の定義は、一人一人で異なるからだ。

魂を抉る不倫・浮気:愛している人から差し出される全自己否定

私はこの記事で決して不倫や浮気を肯定したい訳ではない。

そもそも、私は一度も不倫も浮気もしたことがないし、言い寄られても「奥さんが同席するならぜひ」と言って全て断ってきたし、言い寄る人に魅力を感じたことがない。不倫や浮気をしたいと思ったこともない。

同時に第三者が不倫や浮気をしたからと言って、目くじら立てて「不倫・浮気はダメだ!」とも思わない。

だが、不倫や浮気で打ちのめされた人を友人など身近に見たことがある。本当に傷ついていて、自己否定に近い苦しみに長い間苦しんだ人も知っている。

私は一度も浮気をされたことはない(と思う)が、愛している人に浮気をされたら、想像するだけでも、物凄く傷つく。

以下に私が「想像して物凄く傷つく」と思った時に、「何故私は想像するだけで傷つくのだろう」と思い探して見つけた、TEDの動画がある。

「Rethinking infidelity....a talk for anyone who has ever loved(浮気を再度考える・・・一度でも誰かを愛したことのある人へ)*翻訳 Hatoka Nezumi(以下訳文同様)」

恐らく世間の人々が、不倫や浮気のニュースにゴン切れするのは、「結婚してるのに」とか「浮気・不倫した」という名目や行為ではなく、「浮気・不倫」で訪れる強烈な自己否定による傷に共感してor知っているからこそだと思う。そして、それは正当な反応だと思う。

何故なら、結婚という制度を一旦横においても、愛していると心から思える人から、「お前じゃない」と全存在で言われているような行為が、「不倫・浮気」だからだ。

不倫・浮気で本当に欲しいものとは:他者の熱い視線?

彼女が中盤で指摘している面白い論点がある。プリヤという移民の女性が47歳で庭師の男性に恋に落ちて、不倫をしたときのエピソードだ;

”プリヤはいつも彼女に期待された通りの役割を演じてきました。移民の両親を面倒みる良い娘、良い妻、良い母。プリヤはハリケーンサンディ(2012年に米国を襲った大型ハリケーン)の後、庭師に散らばった木を、ある庭師に片付けてもらっていました。その庭師のトラックとタトゥーを見ても、彼は彼女の正反対の男でした。47歳のプリヤの彼との不倫は、彼女が経験したことのない彼女の青春だったのです。
そして彼女のこのストーリーはある重要なことを示しています。私たちが他者の熱い視線を求める時、必ずしも私たちが顔を背けたいモノは、私たちのパートナーという訳ではないのです。むしろ顔を背けたいのは、他でもない「今ここで、こういうふうにある自分」というヒトなのです。  そして、この時、私たちが求めているのは「他の誰か」ではなく、「別の自分」なのです。” (訳 Hatoka Nezumi)

勿論、愛情がパートナーに全くなくなって浮気・不倫をする人もいるだろう。ただこういう時は、不倫・浮気をした本人が「妻に謝りたい」「軽はずみだった」とは言わないと思う。こういう場合、堂々と離婚し浮気相手の処に行くのだと思う。

ただ、世の中を騒がせる程、世間の方々が非難されるのは、「妻(or旦那*日本ではレア)に謝りたい」「軽はずみだった」と言うケースだと思う。「では何故、子供も奥さん(旦那さん)もいて別れたくないのに、浮気・不倫をしたのか」というケースだと思料する。

Esther Perelさんの動画の通り、今の自分から目を逸らしたい時、「別れたくないけど」浮気や不倫に走る、という事例を挙げている。

私は浮気や不倫はしない(したことない)が、「今の自分から目を逸らしたい時」に、恋に落ちたくなった+積極的に恋に落ちていた経験があるので、この感覚は分かるかもしれない。

「今の自分から目を逸らしたい」ことほど、自分で気付き難く、それにも関わらず、とても心が辛いことはないと思う。

私はこの焦りに煽られて、「恋」に逃げていた。結婚されている方々が同じように、「今の自分から目を逸らしたい」焦りに煽られて、「恋」に逃げたくなる時、「不倫・浮気」という「分かり易い」形に姿を変えるが故に、世間で話題になりやすいのだと思う。

だが、根は同じだと私は思う。

このままでいいのか、私は・俺は、もっと出来るはずだ、こんな人生でいいのか。こんなつまらないのか、私の・俺の人生は。どうしよう、物事が思っていた通りにならない。全て状況が変わってしまった・・・etc

こういう瞬間、「見たくない自分に向き合う」ことの代りに、「自分から目を逸らす」ことを選択することが、イコール、「誰かの熱い視線」を浴びることを求める(=浮気・不倫)ことに繋がるのだと思う。

浮気非難の論理:結婚がまだ経済活動のままの女性

処処で私が注に入れている通り、日本は欧米と比べて、女性が積極的に不倫・浮気をする事例は男性に比べ少ないと思う。ここで私が言うケースに芸能人は除く(理由は後述)が、芸能ニュースでも浮気・不倫の割合は男性が多い。更にいうと、ニュースのコメント欄で高評価を貰っているコメントの多くは、妻の立場で女性が書いたものが多い印象だ。

何故、妻の立場の女性は「浮気をする男」に厳しいのだろうか。

既述の通り、自己を愛している人から全否定された、という共感も勿論あると思う。

だが、もう一つ別の理由として、日本の女性の実質的な社会進出の遅さにあるのではないか、と考える。

まさにPerelさんの動画にある通り、中世~近代にかけて、まだ女性の社会的地位が確立していない社会においては、結婚は「経済活動」とイコールだった。

即ち、女性にとっては結婚は「お金」の保険。結婚すれば一生食いっぱくれることがない。男性にとっては、結婚は「相続(子供)」の保険。結婚すれば、『家』を相続をする子供を相手の女性(妻)が生んでくれる。

経済的に結婚というシステムが社会の中で機能した時代が、この中世から近代だと思う。

だがその後、欧米では第一次世界大戦から第二次世界大戦の間、多くの男性が「兵士」として徴兵され、「女」が社会における働き手に成り代わる。女性がテクニカルに経済的結婚が必要ではなくなった瞬間だった。

特に参戦が遅かったアメリカでは、今ここにある危機として、旺盛な軍需需要にこたえるために、「女性」が社会の経済活動を担わざるを得なくなった現実があった。「女は内(家)」という主義主張よりも、危機と需要をベースに現実的に女性が外に出ざるを得なかった。

こうした既成事実が、早い段階で出来上がり、この既成事実が、「権利・自由」というアメリカ特有の主義主張に乗っかって、戦争の後も、女性が社会進出していく流れを社会で作っていくことが出来たのだと思う。

日本はと言うと、状況自体は同じだ。多くの女性が軍需工場で働いた(私のお祖母ちゃんも)し、多くの男性が徴兵されていく中、女性の労働力は社会で重要視された。

だが、戦後において、日本の場合は欧米のような「権利・自由」という主義主張には、女性の社会進出は入らなかった。

男性が働き、女性が家を守る、という構造を重視した。証左として、2020年現在も、配偶者控除がある。配偶者の収入が103万円未満の場合、38万円の税優遇が与えられる。

圧倒的に「男性」が配偶者としてこの税優遇を享受する事例は少ない。ほとんどが「妻」である「女性」だ。

「女性の活躍」を叫びつつ、社会のシステムは「女性は家(内)」という形はずっと残っている。

私は決してそれが悪いと言いたい訳ではない。事実、年収500万~800万(子供の人数や住む場所によってはもっと上も)世帯では、夫婦が働くよりは、この「社会システム」を使って、「女が家(内)」にいる方が家計のためになる。合理的なのだ。

要は、中世から近世の「結婚は経済活動」という状況が、日本では、女性側だけに引き続き、残されている側面が強いと思う。

不倫や浮気を叩く人達は、恐らく自分は絶対しない自信があるのではないか。それは、愛しているから、も勿論あるかもしれない。

だが、この中世・近代の結婚の経済原理が、2020年現在の日本にいる、一定の女性たちにも経済的に作用していて、結果、自分(女性)の「浮気や不倫」は多くの日本の女性にとって、「お得」では全然ない。

なので、離婚という選択は、「家族を作っていきたい」多くの日本女性にとって、社会システムの点からも、経済合理性がないのだ。

芸能人の女性や欧米の女性が不倫や浮気をしたいと思って出来るのは、結婚と経済原理が切り離されている(=旦那(結婚)に頼らなくても稼げている)割合が高い、からだと思う。

日本の一定の女性達は、自分が浮気をしない、という絶対の自信があるからこそ、そして、相手の男性に浮気や不倫をされてしまうと、「経済的な意味」でも、「人間的な意味」でも、自分という存在が脅かされるが故に、「浮気・不倫」を叩きたくなるのかな、とも思料する。

浮気や不倫が、自己否定を愛している人から差し出されるだけではなく、自分の経済原理が脅かされるという二重の恐怖故に、叩きたくなる心理。

これは、女性だけの問題ではないと思う。「女性は内(家)」という主義主張を、しっかり社会の経済システムに組み込んできた根深い現象である気がする。

事実フランスやアメリカで不倫や浮気のニュースで、コメント欄が荒れる程、叩かれる事例を私は知らない。

愛し方の癖は何度でも確認し合っていいもの

浮気・不倫をした有名人を非難される方々は、「自己否定される自分」(日本では多くの場合妻側)を「不倫をされた奥さん」に投影しているのだと思う。繰り返すが、それは上述の通り真っ当な反応だと思う。

そして、不倫や浮気を責める張本人にも、「浮気・不倫をされる」瞬間は訪れると思う。芸能人の不倫・浮気を叩いたその日、旦那さんが不倫や浮気をしない保証はない。

何故なら、自分に自信を無くしている時、「自分はこんなものなのか」と絶望する瞬間は男・女に関わらず、誰にでも訪れるからだ。

そして、こうした自分から目を背けるための、ここではないどこかへ、簡単に連れていってくれるものが、「恋」だからだ。

別の記事にも書いたが、「恋」というエロティシズムは、家族という「愛」の空間には訪れない。距離が欲望を生むように、身近な家族の愛には、欲望は生まれない。即ち、「恋」は「家族ではない誰か」との不倫・浮気となって現れる。

浮気されるのを恐れて、人を叩くことよりも、目の前のパートナーと悲しみを伝えあい、傷ついたこと、嬉しかったことを言葉にしあうこと。新しく自分に出会うように、パートナーに出会うことが出来ると諦めずに信じること。これが、「目を背けたい自分」を見つける一番の方法だと思う。

LINE連絡で旦那を管理することよりも、女としての自分の身体を磨くことよりも、化粧を定期的にすることよりも、お互いの愛し方の癖を日々確認すること。

目を背けたい「だめな自分」を、他でもない愛して、恋してくれたのが、私やあなたが結婚したいと思ったそのパートナーなのではないか。

あなたの愛し方の癖は、あなたとパートナー二人で確認すればするほど、「結婚」とか、「恋」とか、「愛」。更には「浮気」とか「不倫」という、一般的な言葉から離れて、二人だけのものになっていくと思う。

Love Somebody- Lauv (*訳Hatoka Nezumi)

All I wanted was to love somebody. Why do I do this, pick you up and put you down and put you through this. (僕がしたかったのは誰かを愛することなのに。何で僕はこんなことするんだろう。君を持ち上げて、君をけなして、君にこんな目に合わせている)


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