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【試し読み】二時間の家出、銭湯にて。


この記事は、5/29(日)開催の文学フリマ東京、及びよるの帳オンラインストアにて販売するエッセイ集「愛したものと暮らしたい」に掲載した「二時間の家出、銭湯にて。」の冒頭部分の試し読みです。

 恋人と二人で東京に住んでいた頃、一度だけ家出をしたことがある。時間にすると、たったの二時間。家出というにはあまりにも短時間だ。
 
 でも、あれは確かに、反抗であり、意思表示であり、家出だったと思う。

 きっかけは些細なことだった。いつものように喧嘩をして、いつものように売り言葉に買い言葉の応酬。
 そのうちに恋人が、「もうあっち行っててよ」と言ったものだから、わたしはついついカッとなって「じゃあ出て行きます」と大きなトートバッグに財布と化粧ポーチとその他諸々を詰め込んで、勢いよく家を飛び出したのだ。
 きちんと〝一泊できそうな荷物〟をまとめるくらいには冷静だったので、今思えば悪質だ。
 背後で、彼の制止する声が聞こえたけれど、気づかないふりをした。もう遅い。わたしだってやる時はやるのだ。キッと歯を食いしばってスマホの電源をオフにした。

 実家は新幹線で二時間もかかるし、友達の家に押しかける度胸もない。行くあてもなく家を飛び出してきたものだから、ただひたすらに歩くしかなかった。
 幸い、家の周りはよく恋人と散歩しているし、どこに何があるかは頭に入っている。

 そこでふと嫌なことに気づいた。
 そうだ。このあたりには、チェーンの飲食店や商業施設が何もないのだ。感じの良い下町だった。そこが気に入って暮らしはじめたのに、それがこんな形でわたしを苦しめることになるとは。

 時刻は20時。まだ危険な時間ではなかったものの、少しずつ不安な気持ちが湧いてくる。それでも、今更のこのこと家に帰るつもりはなかった。

 ひとまず、大通りに面している公園で休憩することにした。遊具のような椅子のようなものに腰をかけて、しばし思考に耽る。恋人のこと。喧嘩のこと。
 彼が放った言葉でどれだけ傷ついたか、そしてわたしのこの行動が彼にどんな影響を与えているのか。考えはだんだんと悲観的なものになっていき、「この先もずっとこうだったらどうしよう」「わたし達はやっていけるのか」などと極端なものに変化していった。

 そこで思い出したように公園を見回すと、わたしの他にも人がいることに気づいた。


【試し読みはここまで】

5/29(日)開催の文学フリマ東京については、前回の記事をご覧いただけると幸いです。
オンラインストアでも予約販売を受け付けておりますので、ぜひ遊びに来てください。




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