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第三十一回文学フリマ東京を終えて、感じた「好き」の強さ。


2020年3月26日、わたしの元に一通のメールが届いた。
それは5月に予定していた「第三十回文学フリマ東京」中止のお知らせだった。
残念に思う反面、「そりゃそうだよな」というのが一番の感想だった。
寂しいという気持ちよりも、安堵が優っていた。

既に凄まじいほどの猛威を振るっていた新型ウイルス。
2019年11月に開催された同イベントに参加していたわたしは、5月の文学フリマを非常に心待ちにしていた。
中止という措置が取られたことを寂しく思いながらも、しかしやはりほっとしている自分がいた。


春を感じぬまま、あっという間に夏になった。
3月頃、「夏には終息してほしいね」と言っていたのが懐かしい。
新型ウイルスはどうやらわたし達が考えるほど単純で優しくはなかった。
生活様式が明らかに変わった。しかしそれを嘆くほど現状を打破する術を持っているわけではなかった。

一時は休業していた施設も続々と営業を再開し、人数制限や手指の消毒、検温、パーテーションの対応を取るなど、
それぞれ手探りながらも「ウイルスから身を守り、経済を回す」動きにシフトチェンジしていた。
イベントや催事なども例外ではなく、ぽつりぽつりと色々なことが動き出していた。

「第三十一回文学フリマ東京」に出店の申し込みをしたのは、その頃だった。
時が経ったからといってウイルスの脅威がなくなったわけでも、恐怖が麻痺したわけでもない。
しかし、段々と感染のメカニズムが解明されはじめていたのも事実だった。
こんな世の中でも、何かできることがあるのではないか。
心に芽生えたそんな小さな希望を、育ててみたいと思った。


秋に会った彼女は、元同僚で、今は気のおけない友人だ。
わたしがイベント出店を考えていること、何か新しく作品づくりを始めることを話すと、キラキラした目で頷いた。
2人で本を出そう。その結論に至ったのはすぐだった。
翌週早速はじまった制作活動だったが、すでに10月下旬だった。印刷所に入稿することを考えると時間はもうない。
「こんなに無茶なスケジュール、いけるかな。いや、でもやれる。つくりたい」
こんなセリフを吐けるほどに自分がまだ青々しく、どうしようもなく創作という行為そのものを渇望していることを嬉しく思った。


2020年11月22日。
ついに「第三十一回文学フリマ東京」当日を迎えた。
久しぶりの早起き。ここ数日で一気に下がった気温のせいか、朝の空気は少しばかり心臓をどきどきさせた。
前回同様、今回の文学フリマも和装で参加すると、決めていた。
長い裾を気にしながらも、勇ましくキャリケースをひく姿は道ゆく人にはどう映ったのだろうか。
きっと楽しそうだったに違いない。
厳しいスケジュールながらも出来上がった作品は一切の妥協のない、心から自信作といえるものだったからだ。

会場で友人と合流した。お互いに目が爛々と輝き、いつもより中身のない会話を饒舌に交わしたような気がする。
出店者受付では、あらかじめインストールしていた「COCOA」の確認と検温、手指の消毒を行った。
そうしていざ会場に足を踏み入れてみると、各ブースのレイアウトに驚かせられた。
事前にマップが公開されていたから、なんとなくブース同士の間隔が広いことは知っていたけれど、これほどまでにか!とびっくりしたのだ。
後ろとのスペースが本当に広い。わたしはその瞬間、文学フリマ事務局の方々の多大なる努力を感じた。


なんだか、泣きそうになってしまったのだ。
少しずつ、自粛が解除され始めたとはいえ、今も増えている感染者数。そんな中でこのように大規模なイベントを開催することの難しさは、きっとわたしの想像以上…いや、もっと、倍の倍の倍…それでも足りないくらいだろう。
そんな中、会場レイアウトだけでなく、最大限の換気や見本誌コーナーなどの休止、お手洗いのペーパータオルなど本当に各所に細やかな感染対策がされていた。

わたしは自分のブースである「ソ-39」に到着早々、そのようなことに思いを巡らせつつも、ひたすら手を動かしながら設営の準備を行った。
ああ、今日まで不安だったけれど、ここまで事務局の方々が感染対策をしてくれているのだ。
自分も気を抜かず、しっかりと対応しよう。そう心に決め、イベント開始の12時を迎えた。



12時になるとすぐにたくさんのお客さんがフロアにやってくる。
ちゃんと時間ぴったりに間に合うよう来場するのだ。
皆それぞれ心に決めた一冊があるのか、その足取りに迷いはない。
この瞬間は何度経験しても慣れない。生き生きと足早に歩くお客さんを見つめる。ああ、誰かわたし達の本に目を留めてくれますように。

本当にありがたいことに、イベント開始後すぐにわたし達のブースに来てくださったお客さんがいた。
「ツイッターで見て…買おうって決めていたんです。」
優しく微笑む彼女に自分の作った本を渡す瞬間、わたしは今地球上で最も幸福な人間なのではと錯覚するほど、あたたかい高揚感に胸がつつまれた。
オノマトペにするなら、「じーん…」といったところか。隣に座る友人と顔を見合わせる。
この瞬間があるから、こうしてイベントに出店しているのだとはっきり思う。

その後も、たくさんの人が足を止めて、わたし達の本を手に取り、そして購入してくれた。
たぶん、これはものすごく主観なのだけれど、文学フリマのようなイベントに来場するお客さんは、「好き」を伝える能力に長けている気がする。
何も「好きです!」という言葉だけのことを言っているのではない。作品に対する感想や、反射的に出てしまった言葉、表情…すべてが「好き」を伝えてくれている気がする。
わたしはどちらかと言うと、他人に自分の気持ちを言葉で伝えるのが苦手な方だから、面と向かって「好き」を伝える難しさをいつも感じている。
それなのに、わたしは1日でこんなにもたくさんの「好き」をもらってしまっていいのだろうか。
今日たくさんの人にもらった「好き」の気持ちを、永遠に大事にしよう。そう、心に強く思った。

恐らく多くの人にとって、お金というのは有限だ。
当たり前だけれど、お金はただお金というわけではない。
そのお金を払って、住めるし、食べれるし、着れる。生活や生きることを買っているといっても過言ではない。
わたしの作った本は、住めないし、食べれないし、着れない。ただ、読むだけ。
それなのに、この本を買ってくれた人が、大勢いたのだ。
この本がなくても、誰も死なない。だけど、この本が誰かの生きることの手助けにならないとは限らない。
そう、きっと読むだけじゃ、ないのだ。

わたしは、今回の新型ウイルスが強いた新たな生活様式において、まず後回しにされてしまった娯楽や文化のことを思った。
もちろん、生きる為には最優先事項がある。それを守るのは、大事なこと。
だけどこうした「なくても死なないけれど、あったらきっと明日を生きる糧になる」ものの重要さを再確認した。
何かを創作することと同じくらい、それを大事に思い価値を見出すことはとても尊いことなのだ。


うろ覚えだけれど、イベント終了時の「あらためてイベントっていいなって思ってもらえたでしょうか?」という事務局の方々の言葉に深く頷いた。
思った。思いました。思いましたとも!
人が生きている限り、創作は失われないのだなと、笑ってしまうくらい壮大なスケールで創作に思いを馳せた。

自分の作品たちがわたしの手を離れて、たくさんの人の手に渡って、これからその人たちと人生を送っていくこと。
そこにわたしは既に介入できなくて、当たり前だけれど一生知らないまま。
それってなんだか不思議なことで、きっと世界一の幸福のような気がします。
これだから、創作はやめられませんね。


今回イベントを開催してくださった文学フリマ事務局の方々、厳しいご時世のなか来場してくださった皆さま、共に出店したサークル参加の皆さま、素敵な印刷・製本をしてくださった印刷所の皆さま、そして一緒に本を作ってくれた友人に感謝の気持ちを申し上げます。本当にありがとうございました。

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よるの帳
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