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オタク、総発信時代

※本記事は『富士葵ちゃんと振り返る Advent Calendar 2021』に寄稿したものです。
コチラから皆さんの記事をご覧いただけます↓
https://adventar.org/calendars/6432

1.

昨日、VTuberのキズナアイさんが無期限の活動休止を発表した。
彼女は今日まで続く"VTuber"界隈の始祖であり、その発表は驚きと共に迎えられた。

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↑こちらは発表翌日のYahooニュースの様子である。オタクの間のみならず、世間様においても大きなニュースであることが伺える。

僕の推しも、彼女とは浅からぬ縁がある。

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例えば、こちらは2018年の生誕祭生放送だ。キズナアイさんからスパチャを貰っている。この直後、若干泣きそうになりながらも喜びを爆発させる推しが見られる。かわいい。(配信URL→https://youtu.be/XX6X8PWU9J0

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こちらは2019年1月の配信だ。「55:30~」付近で、親分から見た推しの好きな声が語られている。
(配信URL→https://youtu.be/lh8iJ5eoDps

両者ともVTuber界隈の黎明期から活動し、今日に至る。

そんな親分の活動休止から、オタクは「推しは推せる時に推す」と言う教訓を得ることができる。VTuberという界隈において、手垢がべったりとついた、ありきたりも良いとこの言葉だ。だが僕は、この基本とも言える事が「推し活」において一番大切だと思う。基礎を疎かにしては、その上に何も建てることはできないからだ。

では、具体的に何が「推す」ことになるのだろうか。
動画を見る、グッズを買う、イベントに参加する、ファンアートを描く、この記事の様に文を綴る・・・ざっと挙げてもこれだけある。
どれも有意義で大切だ。加えて「推し活」とは言ってしまえば趣味である。だからまあ、好きな手段を選んで、自由に「推す」ことが一番であることは間違いない。

その上で、僕個人について話す。僕は『なぜ好きなのかを考え、言葉にして発信する』ことが「推し活」で一番大切だと思っている。
自分の「好き」を考えるということは、「推し」の活動に正面からよく向き合って、深く観察し、自分の中で咀嚼し理解する、というプロセスを踏むことだ。僕はこの行いに価値があると信じている。
さらに、言葉にして発信しなければ「推し」や未来のファンに伝わることはない。

2.

VTuberに限った話ではないが、「芸能」を生業とする人は、自らが生み出したコンテンツを市場に提供することで、初めて芸能の世界に存在できる。つまり、コンテンツは「推し」の存在そのもの、人生そのものだと僕は思っている。それくらい重みがあるモノならば、消費者である我々オタクも、それ相応の態度で受け取るのが礼儀ではなかろうか。少なくとも、熱中している「推し」に対しては。

また、「芸能活動」とは受け手がいてこそ成り立つ生き方・・・だと思う。活動の結果が受け手に届いて、さらに願わくば、何かしら感じて貰うことが芸能の喜び、言ってしまえば目的なんじゃないかと僕は考えている。
的外れな事言ってたらゴメン。

(一応、念のため、万一に備えて書くと、必要なのは「受け手」というファンの集合であって、「僕」という個人ではない。)

かつて、僕も本当に少しだけ、しかも趣味の範疇でしかないが、YouTubeに動画を投稿したことがある。その時に貰ったコメントはやはり嬉しいものだった。誰かが見てくれていると実感できたし、「楽しい」と言って貰えた時は、とても満たされた気持ちになった。
もちろん、ビジネスとして投稿していたワケではないので、「推し」の活動とはもしかしたら、本質的には違うのかもしれない。だが僕にとっては、提供する側の気持ちを感じられた瞬間だった。ちょびっとだけだけどね。
的外れな事言ってたら(略)

ともかくだ、提供されたコンテンツを誰かが受けとり、何かしらのリアクションがあってこそ、「芸能活動」は成り立つと僕は思っている。
ならば、オタクが「好き」を発信することは、間接的に「推し」の生き方を肯定することに繋がるのではないだろうか。「好きの発信」という行為は、受け手が確かにそこに存在することを示すとともに、「推し」の行動によって何かしら心が動いたことの何よりの証明になるからだ。

また、自分考え・思考は言葉にして外界に放流しなければ、自分以外の誰かに伝わることはあり得ない。
残念ながら、人間は思念だけで会話はできない。いくら考えたところで発信しなければ、受け手がそこにいるのかいないのか、周りからは分からないのだ。

だから僕は『なぜ好きなのかを考え、言葉にして発信する』ことが「推し活」で一番大切だと思っている。

3.

現代とは便利な時代だ。インターネットというツールを介せば、世界中の人間と瞬時にコミュニケーションが取れる。

また現代とは、誰しもが発信者になれる時代とも言える。例えばTwitterと呼ばれる謎の文化圏では、一日中誰かが絵や文章、はたまた何気ない日常を放流している。
色々賛否があるとは言え、全体を見ると、まあ便利な良い時代になったと感じる。

さて、この「便利な時代」は推し活にも言える。
手のひらサイズのスマートな金属板を何回かスワイプすれば、すぐに世間様に対して自分の「好き」を発信することができるからだ。
少なくとも一昔前よりは、表現する手段は増え、そのハードルもぐっと下がったのではないだろうか。
我々はこんなにも良い時代にオタクをやっているのだから、これを利用しない手はない。文明の利器は使ってナンボである。

特にVTuber界隈では、明日何があるか分からない。
冒頭で書いた親分の活動休止はその典型だ。少なくとも僕は予想していなかった。
もっとも、親分の場合は前向きな休憩期間としてアナウンスされている。だから、そこまで心配する必要はないと理屈ではよく分かる。だが、今後どうなるのだろう?という不安の感情が同時に存在することも否定できない。

これは、『僕の「推し」も明日明後日にどうにかなっちゃうんじゃ・・・!?』とか言う話ではない。
しかし、いつか必ず、物事の必然として”その時”はやって来る。
ことわざにもある通り、物事に始まりがあれば、必ず終わりもあるのが世の常だ。そこには早いか遅いかの違いしかない。
であるならば、僕は、今この瞬間を精一杯推して行きたいと思う。

仮に、精一杯「推す」ことなく、"その時"を迎えた場合を想像する。少なくとも僕は、たぶん計り知れないほど悔やむのだろう。
最推し・・・とまでは言えない(もちろん好きではある)親分の活動休止ですら、僕にはかなりダメージが大きかった。
ならば、「推し」の時は尚更と考えるのは自然だろう。

だからこそ僕は、いつか自分が後悔しないためにも、できる限り推して行きたいと思う。僕の場合は、『なぜ好きなのかを考え、言葉にして発信』することを通して。


あとがき

読んでいただきありがとうございます。
この記事は、当初は書く予定がありませんでしたが、12月4日の親分の発表を受け、「これは何か書かねば!」と思い立ち、ちょろっと書いてみました。

一部の方はお察しかもしれませんが、この記事は去年僕が書いたものと、大体同じ内容を主張しています。
(去年のはこちら→https://note.com/hatimitu_sansho/n/ne652ada6c882)
僕のネタの引き出しが少ないことも理由の一つですが、僕は『なぜ好きなのかを考え、発信する』ことはやっぱり大切だと思っています。
これは、僕の主義・思想信条に過ぎません。ですので、全員こうすべきだ!!と言うつもりは当然ありません。
ですが、僕個人としては、このやり方は結構オススメできます。本文でも書きましたが、「推し」の応援に少しはなると思いますし、自分の考えが言葉として纏まって行く過程は案外楽しいものです。

さて、冒頭でも書いた通り、この記事は『富士葵ちゃんと振り返る Advent Calendar 2021』に寄稿したものです。始まって5日経ちますが、本日時点でも結構枠が開いています。

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Twitterは140字という字数制限があります。長い文章を書くのにはちょっと向いていませんから、消化不良の方もいる...のではないでしょうか?
一方この企画ならば、好きなだけ想いの丈を書きまくれます。
書く内容は「推し」と関連していれば問わないとのことです。せっかくの機会です。もし良ければ、一筆認めてはいかがでしょうか?

最後になりますが、皆様の「推し活」がより良いものになることと、本記事が皆様の新たな「推し活」を踏み出す助けになることを願い、締めの言葉とさせていただきます。

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