『進撃の巨人』が伝えたかったことを考える


漫画、アニメ共に『進撃の巨人』を最後まで読み終えた身として、進撃の巨人に対する個人的な感想を書いておこうと思う。泣きながら最終話を読んだ当時に、「いつかこの壮大で残酷な作品について自分が感じたことを文章にするんだ!」と決意していた。どうも腰が重くてそれをサボっていた結果、3年経ってしまったが。
すみません、ようやく書きます。

●はじめに

まずはじめに、この文章は一貫して私個人の感想・考察であり、如何なる文献、文書、資料とも無関係である。
公式ファンブックを片手に書いていく訳でもないし、連載当初から進撃の巨人を追っている古参という訳でもない。

あくまでいち進撃ファンとしての感想・考察であることを記し書きしておく。

●出会いと動機

 私が『進撃の巨人』に出会ったのは小学6年生の夏だった。「大きいニンゲンが人間を喰うアニメらしい。観てみよう!」という、かなり不健全な動機からなんとなくアニメを観始めたのを、今でもよく覚えている。そこからはあっという間だった。1期最終話まで無我夢中でアニメを追い、コラボグッズや限定グッズを買い、毎日サントラを聴きながら進撃キャラを描く。小学6年生とは思えないほどの行動力と好奇心を持っていたと思う。ミステリアスかつ絶望的な世界観に魅力的なキャラクターが揃っていたということもあり、私が『進撃の巨人』に夢中になるのも時間の問題だった。
小学生ながら、この作品はすごい、他の作品とは何かが違うと感じていた。ただ、それはあくまで「なんとなくすごい」「なんとなくかっこいい」といったもので、具体的に何がすごいのかを理解しているわけではなかった。

アニメにハマり程無くして、私は漫画を買った。当然だが、アニメよりも話が進んでおり、セリフの量や細かな描写(効果音、擬音語等)も非常に多かった。アニメ2期が始まるまでは漫画を追っていこうと決め、私はアニメの続編を待った。

そうして、4年が経った。

当時純粋無垢な小学生だった私は、ゲーム中毒かつ睡眠不足な怠慢女子高校生になっていた。説明するまでもなく、4年も経てば進撃の巨人のアニメ続編のことなどほぼ忘れてしまっていた。
普通、アニメの続編は1年〜長くて2年ほど待つことになる。進撃の巨人ほどの人気アニメであれば2期がくることは確信していたが、まさか4年待つことになると思わなかった。その頃には原作である漫画の方もだいぶ進んでいたし、物語の大体のあらすじは把握していた。4年前ほど熱心にアニメを追っていなかったものの、原作の方で物語が大きく動き始めたことにより「再・進撃熱」が私の中で燃え上がっていた。そこからは、漫画を読み進めながらアニメを追っていくスタイルを徹底した。
本稿作成の動機にもなっている「進撃の巨人が伝えたかったこと」について考え始めたのは、ちょうどその頃だったと思う。

●『進撃の巨人』に敵キャラはいない?

ここからは、具体的に『進撃の巨人』の感想と考察を述べていく。
相手を憎み恨むのは、“相手のことを知らないから”。
嫌うのも憎むのも恨むのも決して悪いことではないが、相手にどのような背景があって相手がどういう状況・環境を有しているのかを把握しておくことは、自身の精神的な成長のためにもなると私は考えている。
立場が変われば、正義も変わる。
他者への理解は、同情や綺麗事なんかを指すわけではない。「なぜ憎むのか」「なぜ憎まれるのか」を客観的に捉え、相手から見える世界の情景とその思想を握りつぶさないこと。少しでも状況や環境が変わっていれば、自分も相手と同じ立場だったかもしれない。

これを理解してもらった上で、少し考えてみてほしい。
あなたの家族、友人、恋人、恩人、仲間、その他大切な人をどこかの誰かに殺されたとする。そんな状況で、「相手のことを知る」など、果たしてできるだろうか?
おそらくほとんどの人が難しいと感じると思う。
これは「相手への理解」などする余裕がないからである。
目の前で殺されでもしたら尚更だろう。


恨み、怨み、歪み、憎しみ、怒り、狂う。
それは誰にも否定することのできない、正当な感情。正当な怒り。

相手の思想や正義などどうでもいい。理解できない、したくもない。
相手に殺されたのだから完全悪に値するべきは相手、いや、“敵”?

大それた話をしてしまえば、こうして人間はいくつもの過ちを犯してきた。
攻撃されれば攻撃し返し、それによって罪なき人間も多く命を落とし、新たな怨恨が生まれる。半永久的に消えることのない憎しみ。
それは、友人や家族や恋人の枠だけに留まらず、国や人種間においても負の連鎖が続いている。


果たして人は許せないのか?持論から言ってしまうと、人は許せないままだ。
憎んだまま、恨んだまま死んでいく。
恨みの大きなやベクトルは違えど、完全に消えることは決してない。

では、人は生まれてこない方が良かったのか?こちらも先に自論を述べる。
否、そんなことはない。
人は、愛するために、愛を知るために、愛するものを守るために生まれてくる。
愛は憎しみを生み、憎しみは憎しみを生むが、憎しみが愛を消し去ることはできない。
エレンにしてもアルミンにしても、始祖ユミルにしても皆そうだ。
彼らは皆、人類や世界などといった大きな括りに縛られて動いていたわけではなく、自分の持つ愛と自由に対する理想を掲げていたに過ぎない。
それを貫き通すためには「正義」が必要で、自身や周りに伝え繁栄させるためには「思想」が重要なのだ。『進撃の巨人』のキャラクターには皆それぞれに様々な歴史や背景、環境、状況が纏わりついている。「これこそが正しいのだ」と主張するために、誰かを殺し、誰かを守り必死になっている。


・ダイアローグの重要性

討論(ディベート)と違い、対話(ダイアローグ)は直感的なやり取りが重要となってくる。討論において、合理主義的に話の方向性を持っていけばそれぞれの論理が衝突するような二項対立なる構造は仕方なく纏わり付く。加えて、討論において必須なのが論理的に考え相手の意見を論破する行為。この場合片方の意見のみ主張が通ずる。近代合理主義社会にありがちな主張の押し付け合いとも受け取ることが出来、結果これによって生まれた紛争も少なくない。

一方で対話はどうか。ロジカルな判断を下さず、「なるほど、そういう考えもいいね!」と集団で話し合う大部屋主義。これが対話だ。
終始論理的である必要はなく、話の中身や方向性がしっかりとまとまっていなくても、頭に浮かんできたものをとりあえず口に出すという点が、討論との大きな違いだ。

『進撃の巨人』127話において、興味深いシーンがあった。
それが、イェーガー派側、エルディア側、マーレ側それぞれが対立して話し合うシーン。
最初彼らはお互い警戒し緊張し合っていた。人種も立場も全く違う物同士が火を囲っている。このような状況下ではじめに行われたのは、マガト隊長とジャンによる衝突(歴史的価値観vs現状的価値観)。
次に行われたのがアニとミカサによる衝突(エレン説得vsエレン虐殺)。

こうして様々な立場でさまざまな正義と価値観を抱きながら衝突が進むが、話の途中でイェレナがマルコの死について言及する。
死の直前、マルコが放った「まだ話し合っていない」という言葉。
これこそ、127話で火を囲う彼らが「討論(ディベート)」ではなく「対話(ダイアローグ)」をしていたという根拠だ。
討論であれば、どちらかが正しいということになる。

(引用元:「進撃の巨人」32巻 諫山創 講談社)
(引用元:「進撃の巨人」32巻 諫山創 講談社)

先ほど、人は許せないままであるということを述べた。
しかし、許せなくても“話し合うこと”はできる。
理解できないままでも、許せないままでも、「対話」は可能なのだ。

しかし、32巻にして彼らは初めて語り合う。
それまで、対話をせず、各々の立場や正義の根幹を把握してこなかった。

エレンを説得させるか殺すかどうかとか、歴史はこうだったから今こうなっているとか、今世界や人類が絶望に侵されつつある状況を、立場の違う者同士で話し合うことが非常に重要であるというこを、マルコは直感的に、おそらくわかっていた。
繋げ方が興味深く魅力的だったためダイアローグをコラムのような形で取り上げたが、マルコの「まだ話し合っていない」という言葉の意味するもの、即ちその重要性にようやく全員が理解したといったところだろうか。


言ってしまえば、『進撃の巨人』という物語に登場するキャラクターは皆同一人物だと思っている。二項対立における目標(ターゲット)として敵認知してしまえば、怒りと憎しみを生むきっかけになる。しかし先述したように、所詮立場が違うだけに過ぎない。皆何かを奪われ、何かを守りたいだけなのである。
こうしたことからわかるように、やはり『進撃の巨人』に敵キャラは存在しない。
「道」で繋がっているから、というメタ認知も含めるが、もちろんマーレ人もその他の人種も例外ではない。

敵など最初からどこにもいないのに、自分には到底理解できない悪魔だと決めつけて争い、憎み、殺し合い続けているのはどこか滑稽で、哀愁の念を抱かずにはいられない。


ヒューマニズムとメッセージ

『進撃の巨人』は「愛」の物語である。
それぞれの憎しみや正義を抱え、自由と平和を求め続ける、「愛」の物語だ。
様々なキャラを見てきて各々のベクトルで愛が描かれているなと感じるが、特にミカサとエレンを見てると強くそう思う。
「エレンって結局何がしたかったの?」という問いをあらゆる場面で見かけるが、私は大きく分けてこれらだと考えている。


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①エルディア以外の歴史、文明ごと全てをこの地上から駆逐したかった
②104期の仲間を守りたかった
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まず、
①エルディア以外の歴史、文明ごと全てをこの地上から駆逐したかった
について。

これはエレンが幼少期の頃から口にしていた言葉だ。エレンは結局のところ、「壁の外にいる巨人」に対してではなく「自分たちから自由を奪う存在」に対し「駆逐してやる」と発言していたということになる。パラディ島、ひいてはエルディアに対する憎しみと憎悪を、その負の連鎖を断ち切って全て消し去りたかったのだ。
エルディアを守りたい気持ち、自由を侵害されたくない気持ち。
そういった感情から、エレンは地ならしを決行したのだろう。

エレンは地ならしについてこうも言っている。

‘’ なんでかわかんねぇけど やりたかったんだ どうしても… ”

エレンの心を奥まで正確に理解することはできないが、これもエレンの本当に思っていたことなのだろう。悪役(エレン)を倒したヒーローとして、アルミンたちを称えさせる。これもエレンのしたかったことだ。つまりエレンは、エルディア以外を消し去ることで、自身の求めていた自由に対する最適解が地ならしであると結論付けた。
エレンが自由の奴隷になってしまっていることは言うまでもないが、もしかしたら自分でもそれに気づいており、それ故に全てを壊し、消し去ってしまいたかったのではないか、とも私は考えていた。
地ならしはエレンにとっての解放であり、未来であったのかもしれない。
しかし個人的な意見を述べると、エルディア以外の文明を消し去ったところで、人間は憎むことをやめない。負の連鎖を完全に断ち切ることができないことは、最終巻にある「その後の世界で起こる戦争描写」にて明らかである。
時が経てば新たな人種、新たな文明が誕生し、そこでまた憎み、争い、殺し、また人は許せなくなる。エルディアの安寧が刹那であることくらい、簡単にわかることではないか。何かを守りたいから回りの全てを排除する、なんて、安直かつ愚行な行為だと思っている。比較的真っ向な思想を私は持っているため、綺麗事を言うなと思われるかもしれないが、エレンのしたことを全て否定しているわけではない。
「愛する存在のためなら、他の全てを消し去ってでも守りたい」という気持ちは痛いほどわかるし、個人的には悲壮美に値する。ただ所詮は悲壮美、真善美には適っていない。
倫理的に〜とかそういう話をするならもっと複雑で具体的に説明するべきなのだろうが、私は至ってシンプルに、「共感はできるけどそんな馬鹿げたこと私ならしない」とだけ。私は自由の奴隷ではないから、自由を諦めきれなかったエレンの行動原理、その根幹を全て理解することはできない。
ただ一つ言えるのは、彼の中にある「全てを消し去りたかった」という気持ちが、罪なき人を踏み潰してでも守りたかったものなのだろう、ということ。

その決意の強さを強固なものにした存在とは果たして何なのか。
それこそが、次に述べる内容である。

次に、
②104期の仲間を守りたかった
について。

『幸せになって欲しい』という気持ちを104期の仲間に対し思い、伝えていることから、エレンが104期の仲間を守りたかったという事実は明白である。進撃の巨人は「愛」の物語であると先程述べたが、この「愛」というものは木の根のように根幹から複数に枝分かれしている。

ジャン、コニー、サシャ等に対する「仲間」としての愛。
アルミンに対する「親友」としての愛。
ミカサに対する「恋愛」としての愛。

このように、エレンはアルミンら仲間に対していくつものベクトルに別れた「愛」をわかり易く、或いは分かりづらく示していたのだろう。否、それが上手く伝わらなかったとしても。

昔から幾度も死線を潜り抜けた仲間であり、共に守りたいものを失ってきた戦友である。エレンは、確かに104期の仲間に愛を抱いていた。
『その愛が穢されるような事があればなんだってしてやる』と思ってしまうほどに、強く。

(引用元:「進撃の巨人」31巻 諫山創 講談社)

‘’ お前らが大事だからだ
 他の誰よりも…  ”

‘’ だから…長生きしてほしい ”

途中から何を考えているのかよく分からなかったエレンの中にある本音は、これ以上でもこれ以下でもなかった。
結局のところ、仲間が愛おしく、大事で、守りたい、ただそれだけの気持ちだった。


なんでか分からないけど(地ならしを)やりたかった」エレンの中に、「分かる」部分も確かに存在していたと思う。それは、104期の仲間たちに対する「守りたい」という愛にほかならない。

罪なき人を何百万人、何千人と殺戮してまで、守りたかった仲間。貫き通したかった愛。
殺したくない、それでも殺さねばならない。
まっさらにしてしまいたいと願う、そのジレンマ。
想像など出来るはずがない、彼の苦悩と重責。

この愛と苦悩を、進撃の巨人という物語が始まってから、エレンが104期の仲間に出会ってからずっと、私たちは見てきた。
エレンの中で育まれた仲間への愛を、他でもない私たちが見てきた。

世界規模の大量殺戮。これにいかなる理由も正当化されない。誰もが彼を許しはしない。しかし、唯一彼の想いを受け止めることが出来るのは104期の仲間たちであった。そんな彼らこそが、エレンが守りたかったものだったのだろう。


●自由と愛と正義、その繰り返し

進撃の巨人が「愛」の物語であること、リフレーミングによる正義の主張とその歴史についてこれまで述べてきた。
ガビがサシャを撃った件を例とするとわかり易い。人は自分の立場でしか物事を図ることが出来ず、客観的になれるのはあくまで危機的状況にない場合である。今日まで祖国を脅かしてきた存在だから、昔自分たちの祖先を侵してきた存在だから。そういった理由で、中には「洗脳」という形で、相手をよく知りもせずに”悪魔”だと思い込んでしまう。
相手にも家族がおり、正義があり、主張があり、感情がある。それは自分と同じく、なにかに侵され何かを守らねばならない状態によるものだというのに。
自分が敵国から何かを奪われれば、敵国に属する者も『自分から大切なものを奪った存在』になってしまう。ガビは、サシャという人物を知らずに銃口を向け、引き金を引いた。サシャを取り巻く環境など知りもせずに撃った。
あくまで侵されているのは自分である、という主張を曲げず、まっすぐに。

人々は、ガビたちマーレ側とアルミンたちエルディア側のように、対立と憎しみを繰り返している。
どちらが先に争いをしかけただとか、どちらが先に殺しただとか、そういったことを何百年も何千年も考え続けている。

その中で、昔こういうことがあったから、大切な人をあなたの国に殺されたからなどと争って、また憎しみが増えていく。
『進撃の巨人』は、愛の裏にある憎しみを、人々が繰り返し起こす戦争を、その愚行と共に生々しく描いたヒューマニズムストーリーである。
この世界観の中に存在するイデオロギーは、あらゆる国、人物、歴史によって描かれる。

民族主義、人種対立、国家主義、こういった複数的な対立構造を要因として、繰り返される過ちと各々譲れない愛がある。

守りたいもの、守りたかったもの、守れなかったもの。

エレンはその中で、自身の自由を何よりも優先していたように思う。
自由を脅かされる不条理さ、自由を侵害してくるものへの憎悪。これらはエレンの中で少しずつ増大し、やがてあの“地ならし”へと繋がっていく。

何となく考えついたから。
何となくしてみたかったから。
そんな理由で大量殺戮を行う存在は恐怖以外の何者でもなく、許す道理などどこにも無いのだろう。

ただ、地ならしへと至るまでのエレンの中にあった愛と正義、自由を否定することまでは出来ない。
その気持ちを知り、受け止めたアルミン達の意志を無下にすることもまた、出来はしない。

何かを愛し、誰かを守りたかった。
自由を侵害されたくはなく、その恩恵を求め続けていたかった。
そのために、何百万、何千万という人を殺戮する。

繰り返される過ちの中にいる者たちが、互いの罪や憎しみを晴らす。そして許す。
何かを捨て、何かを変える。
愛を、自由を、正義を貫くために必要なものを考える。貫く必要性を考える。
相手と自分は果たしてなぜ争っているのか、何が違うのかを考える。

愛は人を歪ませ、時にはこの残酷な世界をまっさらな地に変えてしまうこともある。

そういった意味で、『進撃の巨人』は、リフレーミングの重要さを深く学べた作品であった。
『進撃の巨人』に対して思うことをすべて書ききれたわけではないが、大まかに感じたことをまとめられたと思う。

今後、私は『進撃の巨人』で学んだことを忘れることは無いだろうし、またあの繰り返しの物語を読んでしまう。
人や国の歴史を考え嘆いてしまうその度に、この物語が私を落ち着かせてくれると信じて。

『進撃の巨人』に酔っていたい、いちファンより。

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