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ケニア人からアフリカ哲学を教えてもらった42歳父と、12歳の息子の短い対話

知らないことが知れるってのがうれしいよね、っていうのと、知ってることと知ってることがつながって、自分の中で発見になるってのがうれしいよね、っていう話。

今日 英会話トレーニングでケニアの会計士と話したのだけど、彼のプロフィールに「African philosophy」って書いてあって、なんだそれ、超面白そうじゃんとおもって、フリートークを申し込んでみた。

彼は「哲学を話すには、まず歴史を追わないといけない」と語り始めてくれた。

「ヨーロッパ中心主義というものがあると。それは16世紀にアフリカに持ち込まれて、そのパラダイムの中で、あなたも含めて世界の多くの人が歴史を見ている。それに対する疑問が自分の学びの原点なのだ。」

「そのヨーロッパ中心主義が、racism、Colonialism、Slaveryを生んだ」と彼は続ける。

「問題は、ヨーロッパの人が持つ価値観がアフリカに住んでいた人をDehumaniseさせる行動を生んだということなのだが、ではなぜ彼らはそういう価値観を持つことになったのかを考えなくてはいけない。

そもそも、アフリカの民族哲学は、コミュニティを中心としている。

コミュニティとともに自分はある。

コミュニティがなくなれば、自分もなくなるし、

コミュニティがあれば、自分は残る」

ここまでの語りに怒りや、Hateの感情は一切なく、彼の知性と優しさを僕は感じた。

「アフリカの人たちは、

I am because we are」

と考えていたのだ、と。

ぼくはそこで質問をした。

「なるほど。となると、コミュニティが大事だからこそ、民族同士の争いが激化するというのがアフリカにはあるのだろうか?」

すると彼は答える。

「いやそうではないよ。そもそも、争いという概念がなかったんだよ。それは持ち込まれたものだ。

一言でいえばアフリカの民族哲学は Harmony なのだ」と彼は優しい口調で語る。

「しかし、ヨーロッパのひとたちは、

I am because I am

と考えているのかもしれない」と彼は続ける。

「その価値観が、大地に元々あるものを自分のものだと主張する、Patentの概念に繋がり、それが争いを生む」と。

「この価値観を形作ったのは、プラトンやアリストテレスに始まり、それがデカルトに至るまでに発展した彼らの哲学なのではないかと自分は思っている」と彼は淡々と述べる。

ここで話は歴史に戻り、僕にとって「知らなかったこと」を知ることになる。

「古代アフリカにおいて、サハラはGreenだったんだ。だから君の言うように、「サハラ以南」とか「サハラ以北」という考え方はなくて、エジプトという名前も、あとから付けられたものなのだよ。

マケドニアが征服する前、エジプトはColoredが住んでいて、そこにアリストテレスが医学や哲学を学びに来たんだよ」

と言う。

「え、まじで?そんなこと聴いたこと無いよ。となると、ギリシアの哲学のひとつのオリジナリティはアフリカにあるってこと?」

というところで30分のタイムアップ。続きは明日に話すことにした。

おもしろかった。

僕はその興奮のままに子どもたちと夕飯を食べ、小学校六年生の息子に、上記のような話をした。

続けて、父さんが今読んでるヒストリエって漫画で、アレクサンダー大王の時代にアリストテレスが出てくるんだけどさ、世界を旅してて、そんで医学も勉強していて、滝で溺れた人を心臓マッサージで生き返らせるシーンがあるんだよ、「アリストテレス先生すげえ!」みたいなことを周りの人は言ってるんだけど、あの頃のエジプトって、マケドニア王国の支配下だったけなあ?アレクサンダー大王の親父が超強くってさ、名前忘れちゃったけど

と独り言のようにつぶやくと、無口の息子が

「フィリポスだよ」と答える。

え、なんで知ってるの?と聴くと、「学校とか図書館とかで借りた本で読んだ」と。

まじか、すげえな、と言うとなんだか嬉しそうになったので、

そこから、

息子と一緒に読んでるゴールデンカムイの話を引用して、次のような話に展開してみた。

「今日父さんが聴いたアフリカの人たちの考えってアイヌの人たちの考えと一緒だよな。そもそも大地のカムイは人とともにあるのに、それを自分のものにしようとして和人が入ってきて、それで争いが生まれる。

自然が豊かな実りを与えてくれる土地では、そもそも争う必要がなかったのかもな。

沖縄なんかは、海に出れば魚があるさ、でなんくるないさになるし、フルーツとれば生きられるのであれば溜め込む必要はないし、川にたくさんの鮭が登ってくるのならば、それをいただけばいいわけで」

すると息子よりもっと無口の妻(怒られるなw)が、「縄文にもどれってことだよね」、とコメントをしてくれて、僕は「たしかに」と思う。

「そうか、そうなると、僕がこのアフリカ哲学に興味を持ったのは、人類が大地を消費し尽くして、このままじゃだめだよねっていまSDGsとか言ってるけれど、この時代において、僕らが学ぶべきことは教科書で学んできた哲学だけじゃなくて、もっと幅広い視点からみなきゃいけない、というような思いがあったのかもしれないなあ」

とこれはまさに独り言でつぶやいたのだが、なんとなくそれが息子に伝わっているようで 今日はとても嬉しかった。

僕は息子に何かを教えようとしたのではなく(そのスタンスでいると避けられるのでw)、

知らないことが知れることの喜びや、ただ自分自身が好奇心を持ってることに うるさいなあと思われながらワイン片手に話していただけなのだが、中学生になる息子に自分ができることって、ただそういうことだけなのかもなあと、ひとりごちた。

(ひとりごちてばっかだw)

その頃には息子は席を離れていて、発泡スチロールをくり抜いてガンダムの盾みたいなのを作っていた。なんだそのギャップ萌え、お前モテるぞ、このやろう。

さてさて、今日は大企業のリーダー研修で、web3とか社会の分断とか、その中で40代として成すべきこととか、そういう話をしてたんだけど、ケニアの人と、そして息子との会話から、「自分以外皆我が師」ということをいつも胸においておこうと思ったぜ。

(さいごはかっこよく締めるぜ!寝るぜ)

2冊目の本書いていて、たまにやる気出すためのNote書きます。