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それでも今日を生きていく③

 20歳のバイト人生が始まった。

(しつこく言うが、何を勉強していたのかさっぱり覚えていない)学校が終わると、教科書を持ったまま地下鉄を乗り継いで四谷の事務所に向かった。丸ノ内線の車内で背筋をぐんと伸ばして座り、私!私!私!今から湯川さんとこで働くんですよ~~~~~!と大声で言いたい気持ちだった。

 何者でもないちっぽけな私(注・体は今も昔もデカいのだが)。18、19、20歳と、若くて過剰な自意識を持て余し、私は?私は?私は?って私のことばかり考えすぎて息をするのも難しく、何かというとすぐ心臓をバクバクさせては薬局で買い求めた「救心」をぱくぱく口に放り込んでいた。

 そんな私!私!私!の自意識を、初めて満足させてくれる状態だったのだから仕方ない。スキップせんばかりの足取りで事務所に着いた。
「何をしましょうか、私?」
 鼻息荒く何でもやります、何でもできます、お任せください、この私に!な勢いで秘書のなっちゃんに聞くと、
「じゃ、和田さん、郵便局でこれ出して、それから文房具屋さんに行ってくれる?」
「はいっ!」
 お使いだってやる気満々。「文房具屋さん。駅の近くの仲芳屋さん」とか地図までノートにメモる。いちいちノートに全部メモる。
「レコードがレコード会社から送られてくるから、この小さなシールを貼って番号を付けて整理するのよ。タイトルとアーティスト名をこのノートに書いてね」
 レコード整理方法と、シールの貼る位置も絵に描いてメモをする。
「電話に出るときは『湯川です』でお願いします」
「電話は湯川です」とメモる。メモしながら、この私が「湯川です」と電話に出るなんて、と想像するだけでカッと熱くなる。

 3時になるとお手伝いさんの伊東さんが「お茶飲んべ」と奥の部屋で仕事する私やなっちゃんに声を掛けにくる。福島相馬出身で方言そのまま話す「伊東ちゃん」、そして秘書のなっちゃんは気さくで話しやすい。
「和田さんは沼津の出身なのね?」
「でも生まれたのは千葉で、小さいときは春日部で」
「色々引っ越してるんだねー」
「お父さんは全然家にいつかない人で、うちは家族仲悪いです」
 気さくな二人を前に、あけすけにべらべら話す。べらべら話しながら、色々な所から送られてきた美味しいお菓子をぼりぼりむさぼり食べた。

「こんなに高級で美味しいお菓子がいっぱいあるのに、どうしてこの人たちは普通の顔して、大して食べもしないで放っておくんだろ?」

 子どもみたいなことを考えながらむさぼり食べてると(注:ちなみに今もこういう状態だと同じことを考えます)、「これ、少し持ってけ」と、私を不憫に思ったのか、伊東ちゃんがお菓子を幾つもビニール袋に入れてくれた。「えっ? いいんですか? ほんとですか?」嬉しくて嬉しくて30数年経った今も覚えてるほどだ。お菓子のご恩は一生忘れない。その後も伊東ちゃんはなんでもむさぼり食う私に「これもってけ」と、こっそりビニール袋に入れては恵んでくれることになる。私はそれで生き延びた。

 しかし、肝心の(?)湯川さんは外出していることが多く、何度か通いながらもあまり会うことがなかった。会ってもせいぜい夕方戻ってきたほんの数分ぐらいで、「おつかれさまです」「あら、来てたのね」しか会話もない。なっちゃんが「〇〇さんから電話があって」とか伝達事項をあれこれ言い、「じゃ、〇〇さんに電話して」あれこれバタバタ仕事してるのを横目に見ながら、相変わらずシールを貼ったりするだけ。それに、少ししか会わないから、湯川さんが帰って来ると、私はぴりりっと緊張した。緊張して何も言えず、何か聞かれても「えっと、あの」と答えに窮し、答えたとしてもあたりまえなことを小声であやふやに答えるのみ、というつまらない奴になっていた。例えば、「マドンナ好きなの?」「あ、その、TVではよく見ますが」とか。

 とぼとぼ家に帰り、お金がないからいつも食べていた白菜と油揚げの醤油炒めでご飯をモグモグ食べ、湯川さんと話ができないなぁと、そればかり考えていた。

 土曜日の夜には以前のように湯川さんがDJをする、ラジオの「全米トップ40」を聞いた。すると、そこでは「ワッハハ」と豪快に笑ってアナウンサーの坂井隆夫さんらと実に楽しそうに話す湯川さんがいた。「こんな風に私は湯川さんを笑わせることができない」そう思って落ち込んだ。「どうやったら笑わせられるんだろう」と、まるでお笑い芸人みたいなことを考えて、暗い6畳間に座っていた。

 ところが、2~3日たったある日、リーンリーンと家の電話が鳴った。「はい?」出ると「湯川です」と急いた声で言う。「あ、はい、先生。和田です。はい」と慌てて答えると「なっちゃんが風邪をこじらせて入院しちゃったの。電話に出てくれる人がいないと仕事にならないから、とにかく来れるだけ毎日来てくれない? 電話に出るだけでいいから!」と言う。どうしよう?と思いつつも「わかりました!」と答えると、「じゃ、よろしくね」と、相変わらず忙しく電話は切れた。

 翌日からいきなり秘書・和田になることになった。四の五の言ってはおられない。
「とにかく電話に出て、相手の名前と用件を聞いて。すぐに私には代わらないでね」と言われ、緊張した。私がバイトを始めた1985年は、湯川さんが作詞した「恋におちて」がヒットしていた頃だった。時は12月。年末進行の原稿の締め切りやら、TV出演、レコード大賞やら何やらの音楽賞と、スケジュール帳が真っ黒になるほど分刻みの予定がぎっしりで、色々な依頼がひっきりなしに着ていたときだった。

 電話も1時間に5本も6本もかかってきた。「はい、湯川です」ドキドキして出るが、向こうは私が今日初めて電話に出る、田舎者の何も知らない20歳の子どもだとは思わない。「もしもし、~~レコードの~~ですけど、湯川さんに詞をお願いしたいんです。~~に~~のイメージでやってるんですけど、曲は~~先生が歌ったラララがテープにあって」などと、宇宙語のようなことをものすごい早口でいきなりしゃべりまくる。まったく意味不明なのに遮るスキがない。やっと「少々お待ちください」と保留ボタンを押し、「あの、先生、作詞をしてほしいというレコード会社の方がぁ」と、全く役立たない伝言をして電話を代わる。向こうもまた一から説明だ。
 いきなり英語の電話も着た。「ジャ、ジャスト・ア・モーメント」とだけ必死に言って「先生、すみません、外国の方が」と代わると、それはただの不動産売り込み電話だった。

「和田さん、学校で英語の勉強の勉強してるんじゃないの?」
「あ、はい」
「秘書科じゃなかったっけ?」
「あ、はい」

 なっちゃんがいない数日間、毎日がそんなだった。電話に出るのが怖くて、電話線を引っこ抜きたくなった。
 電話だけ出ていればいいと言われたけど、玄関先にも色々な人が来て、それにも対応しないとならない。当時はまた編集者が原稿を取りに来ていたり、レコード会社の人などがカセットテープやレコードを届けに来ていた。
 私は人の名前を覚えるのがものすごく苦手で、そういうときこそメモをすれば良かったのに、肝心なときには抜けてしまい「えっと、これ、誰が届けてくれたんでしたっけ?」などと言って、湯川さんを呆然とさせた。

 20歳の私はまったく何も満足に出来なかった。就職試験で私を落とした会社の人たちは、なんと見る目があったことだろう。

「あなたは何も出来ないから、とにかくここで秘書としてやっていけるよう勉強をしなさい」

 遂には湯川さんにそうぴしゃりと言われ、私は何も答えられなかった。
 いえ、先生、私は秘書になりたいんじゃなくて、物書きになりたいんです、なんてことは百年早くてとても言い出せやしない。何ひとつまともに出来ない1985年の12月だった。



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