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スマホでいい写真を撮る人

土曜日にワタナベアニさんとXのスペースで「スマホでいい写真を撮る人」についてしゃべった。(次回は2月8日の土曜日に21時からまたしゃべります)

わりと誤解している人がいるのだけど、スマホで写真を撮るのはむずかしい。じつはカメラのほうが圧倒的にかんたんだ。

スマホで写真を撮るのは小指サイズの鉛筆で文字を書くようにむずかしい。

写真の質という点でも、スマホの画面でみるなら問題はないかもしれないけど、パソコンぐらいの画面でみたらウム……と思うし、印刷まで考えるとかなり厳しいというのが現実だ。

スマホは撮るのがむずかしく、仕上がる写真は良くない。カメラはかんたんで、写真の質もよい。

だけどスマホだろうが、いい写真を撮る人がいる。

「スマホで充分綺麗じゃーん」とか「そう、iPhoneならね」みたいなスマホだけど綺麗に撮れるという意味じゃない。

「こまけぇことはいいんだよ」と写真を見たあとに自分も写真を撮りたくなる衝動にかられるような、写真を好きにさせる写真を撮る人がいる。

それがスマホで。これが不思議だ、不思議というかすごい。すごすぎる。ビーチサンダルで富士山を登頂した人を見ているような気分だ。

いま青山学院大学のとある学部のウェブサイトの撮影をしている。ぼくみたいな外部のフォトグラファーが撮る写真と、実際に学生さんが感じるキャンパスライフには差がある。

アットホームな職場の求人広告の写真も、狭いホテルの部屋をラグジュアリーに広々とうつした写真もそうだけど、提示されたイメージと顧客の体験が違いすぎるとがっかりする。

これはこれで謎だけど、この差が社会に受容されているのはファーストフードのメニュー写真ぐらいなものだ。つぶれたダブルチーズバーガーに写真と違うぞと文句をいう人はそうそういない。

青学の撮影ではこの差をグラデーションにするべく、学生さんにスマホでキャンパスライフを撮影してもらった。

学生さんには「見たものを真ん中で撮るだけでOK」とだけ伝えた。

授業が始まる前の教室でお弁当を食べていたり、図書館で勉強していたり、雨が降る日の通学路を撮っていたり。控えめにいってもめちゃくちゃ写真が良かった。そんな写真が1000枚以上あがってきた。

なんでこんなに写真がいいのだろう??写真のワークショップをしていても一定数そういう人がいる。

天然モノの美しさをもつ人だ。ぼくなんて現場で育てられた完全養殖だ。天然モノのナチュラルな美しさには勝てない。うらやましい。

アニさんは「写真に邪念がない」といっていた。たしかにそうだ。上手く撮ろうとか、ほめてもらうとか、SNSでいいねを稼ごうみたいな邪念や下心がまったくない。

これにくわえて「おちついている」もあると思った。写真にかぎらずどんな仕事でもそうだけど、優秀な人はおちついている。

車の運転や料理だってそうだ。まずはおちつかないとダメだ。

ぼくが師匠のもので弟子をしていたころ、おちつく力がないと仕事にならないと思った。現場ではたくさんの大人がいて、フォトグラファーの一挙手一投足を見られる。

たくさんの大人の視線に耐えられないといけない。不安や緊張や自信のなさは相手に瞬時に伝わる。おちついて集中しなければならない。

ぼくは勉強ができないタイプなので、とりあえず競技射撃からはじめた。おちつく力をメンタルスポーツで高めようとしたのだ。おかげでいまではあわてることがまったくない。

そもそも天然でいい写真を撮る人は、自分の写真がいいとすら気づいていないことが多い。

評価が数値化できるものではないし、評価と勘違いしがちな「いいね」の数がたくさんついているような写真とも違うからだ。

美味しいスープを飲んだときのように、あぁいい写真だなと感じるものだからこそ、褒めたいし才能があることも伝えたいなと思う。

そしてスマホからカメラに変えたら、写真がさらによくなるんじゃないかと思ったりもする。

だけど、そこで写真の勉強みたいなことをすると、天然の良さが無くなってしまう危険もある。むずかしいなぁ。褒めるのってむずかしいんだよね。

1 邪念と下心がない
2 おちついている

この2つは間違いなくあてはまる。日曜日にぼんやりと考えていて3つ目の要因があることに気づいた。

この3つが揃うと、料理の味付けの黄金比のように、写真だけじゃなくて勉強や仕事や家事育児や趣味など、生活のほとんどの良さに通じるポイントなのだと思う。

それは

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