P20. これら(五蘊など)が私でないなら、私は誰なのか?の問い。マハリシは「今述べたことのすべてを これではない、これではない と否定し去ったあとに、ただひとつ残る自覚、それが私である」と。思うに、私の身体、心、命…と私の○○がある限り、その対象物を観る私が別に居ることになる。
P19. 私は誰でしょうか?所謂、仏教で説く五蘊に私は無いとマハリシは言う。物事を考える心もまた然り。捕らえ所がないのは「対象物の印象のみが刻み込まれた無知、そこに対象物も働きかけもない無知も私ではない」の文言。これは事物・現象に対する感覚と動機を言うのか。真我の他は総て無知と…
P20. これではない、これではない…と総てを否定し去った後に、ただひとつ残る自覚。これこそが私そのものとマハリシ。而してその自覚の本性は「存在ー意識ー至福」と言う。在りてある個の原初、穢れのない属性以前、無執着で些細な動機にも縛られない幸福か。表現を重ねれば重ねるほど遠ざかる。
冒頭、マハリシは、我々が持つ「自己への至上の愛」の源は幸福であると言う。また「心のない深い眠りの中で体験される(真の)幸福」を得るには真我を尋ねよと。心の深奥が幸福そのものとはありがたい光明だが、我々にこの自覚は薄い。心のない深い眠りとは、対象物が滅し、心が静寂にあるを言うのか…
P21. 真我の実現はいつ得られるか?―見られているものである世界が拭い去られたとき、見るものである真我の実現がやってくるだろう―とマハリシ。純粋なただ観る者の「観る」もないことか。観るは世界の始まり。この自覚は「観自在」に通じるかどうか…般若心経を想像させる。「観音」ではなく。
P21. 世界を認識しながら真我は実現するか?―世界が実在するという信念が消えない限り(真我は)得られないだろう―とマハリシ。俄かにこの世界が総て妄念とは思い難いが如何に看破するか。認識することと、そうであることの違いか。認識と言う動機に囚われれば二元の始まり無条件な至福はない。
私は誰なんだ? 私は肉体人間なのか?痛みは本当なのか?教えてくれ! 罪の子なんかではなく、本当に完全無欠の神の子なのだとしたら、スピリットなのだとしたら、是非ともそれを知りたい。感じさせて欲しいです! 体感させて欲しいです。