花薬欄。ある僧が雲門和尚に尋ねました。如何なるか是清浄法身?その答えがこれです。芍薬の花咲く植え込みの欄干じゃ。人間の本質である清らかな永遠不滅の仏性とは何かを尋ねたらこのような答えが返ってきたのです。僧は真面目に仏教理論を勉強してきたのでしょう。しかし真実は理論にありません。
日日是無事。禅語の無事とは事故も怪我も病気もなく人間関係やお金の苦しみもなく幸せに生きていることではありません。幸運を期待することもなくご利益や出世を期待することもなく人からの評価を期待することもなく褒められることを期待することもなく季節の移り変わりの様に自然に生きることです。
乾屎橛。ある僧が雲門禅師に尋ねました。如何なるか是れ仏。糞カキ箆じゃ。人によってはこれは糞が棒状に垂れ下がったものだと言う人もいます。雲門禅師は日日是好日の禅語で有名で、茶掛などにも使用されますが乾屎橛の茶掛などはまず見たことはありません。禅は美しいものだけにあるのではないのです
真俗不二、これ聖諦第一義。仏法の真諦を悟った人は日常生活の自然な行動で深い根本義を表現します。雪峰禅師は木のまりを転がし禾山禅師は太鼓を打ち慧忠國師は水椀を出し趙州禅師は茶を召し上がれ、と言ったのです。分かる人はこれで分かるのです。これが東洋哲学の真髄です。碧巖録より。